『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月13日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十二回
先生の遺書
(五十二)
父は時々囈語(うはこと)を云ふ樣になつた。
「乃木(のぎ)大將に濟まない。實に面目(めんもく)次第がない。いへ私もすぐ御後(おあと)から」
斯んな言葉をひよい/\出した。母は氣味を惡がつた。成るべくみんなを枕元へ集めて置きたがつた。氣のたしかな時は頻(しきり)に淋しがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室の中(うち)を見廻して母の影が見えないと、父は必ず「お光は」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語つてゐた。私はよく起つて母を呼びに行つた。「何か御用ですか」と、母が仕掛た用を其儘にして置いて病室へ來ると、父はたゞ母の顏を見詰める丈で何も云はない事があつた。さうかと思ふと、丸で懸け離れた話をした。突然「お光御前にも色々世話になつたね」などと優しい言葉を出す時もあつた。母はさう云ふ言葉の前に屹度(きつと)淚ぐんだ。さうして後では又屹度丈夫であつた昔の父を其對照として想ひ出すらしかつた。
「あんな憐れつぽい事を御言ひだがね。あれでもとは隨分酷(ひど)かつたんだよ」
母は父のために箒(はうき)で脊中をどやされた時の事などを話した。今迄何遍もそれを聞かされた私と兄は、何時もとは丸で違つた氣分で、母の言葉を父の記念(かたみ)のやうに耳へ受け入れた。
父は自分(しぶん)の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかつた。
「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」と兄が私の顏をみた。
「左右だなあ」と私は答へた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好し惡しだと考へてゐた。二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「云ひたい事があるのに、云はないで死ぬのも殘念だらうし、と云つて、此方(こつち)から催促するのも惡いかも知れず」
話はとう/\愚圖(ぐづ)々々になつて仕舞つた。そのうちに昏睡が來た。例の通り何も知らない母は、それをたゞの眠(ねむり)と思ひ違へて反つて喜こんだ。「まああゝして樂に寢られゝば、傍(はた)にゐるものも助かります」と云つた。
父は時々眼を開けて、誰は何うしたなどと突然聞いた。其誰はつい先刻(さつき)迄そこに坐つてゐた人の名に限られてゐた。父の意識には暗い所と明るい所と出來て、その明るい所丈(たけ)が、闇を縫ふ白い絲のやうに、ある距離を置いて連續するやうに見えた。母が昏睡狀態を普通の眠りと取り違へたのも無理はなかつた。
そのうち舌が段々縺(もつ)れて來た。何か云ひ出しても尻が不明瞭に了(をは)るために、要領を得ないで仕舞ふ事が多くあつた。其癖話し始める時は、危篤の病人とは思はれない程、强い聲を出した。我々は固より不斷以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるやうにしなければならなかつた。
「頭を冷やすと好(い)い心持ですか」
「うん」
私は看護婦を相手に、父の水枕を取り更へて、それから新しい氷を入れた氷嚢(ひようなう)を頭の上へ載せた。がさ/\に割られて尖り切つた氷の破片が、囊(ふくろ)の中で落ちつく間、私は父の禿げ上つた額の外(はづ)れでそれを柔らかに抑へてゐた。其時兄が廊下傳(づたひ)に這入て來て、一通の郵便を無言の儘私の手に渡した。空いた方の左手を出して、其郵便を受け取つた私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べると餘程目方の重いものであつた。並の狀袋(じやうぶころ)にも入れてなかつた。また並の狀袋に入れられべき分量でもなかつた。半紙で包んで、封じ目を鄭寧(ていねい)に糊で貼り付けてあつた。私はそれを兄の手から受け取つた時、すぐその書留である事に氣が付いた。裏を返して見ると其處に先生の名がつゝしんだ字で書いてあつた。手の放せない私は、すぐ封を切る譯に行かないので、一寸それを懷に差し込んだ。
[♡やぶちゃんの摑み:遂に先生の遺書が「私」に送られて来た。以下、次の次の章で「私」が危篤の父を置いて東京へと出立するまでは、凡て半日程度のうちに起きる出来事である。私はこれを「私」満23歳の夏、明治45(1912)年9月28日(土)から30日(月)頃と推定している。
因みに、『大阪朝日新聞』では理由不明で、またまた一日遅延して、これは二日ずれて6月15日月曜版に掲載となっている。即ち、当時の西日本の読者は、先生の死や「私」が末期に近い父を置いて上京してしまう事実、先生の遺書の始めの方を二日遅れで知ることなったのである(これは「遺書」の六回目の(六十)まで続く。(六十一)は『東京朝日新聞』が一回休載(『大阪』とのズレを少しでも補正するためか?)して、ズレは一日遅れに戻って、その状態で終わりの方の(九十八)までその状態が維持されるものの、ところがどっこいギッチョンチョン! 大事な大事な「私」=「先生」が「靜さん」を「下さい」という(九十九)で、やはり理由は判らぬが、『大阪』が致命的に五日遅れ(実質スパンは四日)になってしまい、次の(百)が六日遅れ((百二)でKが自死する)、(百三)で七日遅れとなって最終回(百十)までこの一週間のズレが維持されてしまうのである。即ち、当時の日本の西日本の読者は「先生」の告白を知るのが、東日本の読者とは致命的に有意に遅れていたということになる。馬鹿な東日本の輩が西遊し、そちらの未だ読めぬ読者に、「先生」の遺書の結末を自慢げに話している情景なんどを思い浮かべると、これ、甚だ悲しいことと私には思われるのである。
♡「お光」数少ない固有名詞で、且つ「私」の母の名である以上、何らかの思い入れがあるようにも思われる。因みに明治天皇の側室の第一に挙げられる女性の名は光子である。権典侍(緋桃典侍・初花典侍とも)葉室光子(嘉永6(1853)年~明治6(1873)年)は明治天皇の最初の宮稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)を明治6(1873)年9月18日出産したが死産、光子も4日後の9月22日に逝去している。
♡『「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」と兄が私の顏をみた。』以下、「二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた」辺り、私が兄の出身が法科というのには、躊躇してしまうところなのである。
♡『伯父も首を傾けた。/「云ひたい事があるのに、云はないで死ぬのも殘念だらうし、と云つて、此方(こつち)から催促するのも惡いかも知れず」』この伯父なる者の助言に、私はある疑惑を感じる。即ち、それは後に明らかにされる先生の叔父の作為と同じ性質の臭いである。この伯父は、もしかすると「私」の父の遺産管理を、計算ずくで期待しているのではなるまいか? そもそも兄は(そして「私」も)、この叔父に頼もうと思っている以上、それはこの伯父とても気がついているはずである。だとすれば、父が奇妙な遺言をして、万一、財産管理が出来なくなったり、それが著しく制限されるような遺言がなされることは、望ましくない。そうした意識がこの何とも玉虫色の伯父の言葉になって現われたと、悪意を以って見ることは、十分に可能である。
♡「狀袋」封筒。
♡「一寸それを懷に差し込んだ」次章で検証するが、この先生の遺書は、懐にすっと「差し込」められるような分量のものではないはずである。]
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