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2010/06/02

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月2日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十一回

Kokoro13_2   先生の遺書

   (四十一)

 父の元氣は次第に衰ろへて行つた。私を驚かせたハンケチ付の古い麥藁帽子が自然と閑却(かんきやく)されるやうになつた。私は黑い煤けた棚の上に載つてゐる其帽子を眺めるたびに、父に對して氣の毒な思ひをした。父が以前のやうに、輕々と動く間は、もう少し愼んで吳れたらと心配(しんはい)した。父が凝と坐り込むやうになる、矢張り元の方が達者だつたのだといふ氣が起つた。私は父の健康に就いてよく母と話し合つた。

 「全たく氣の所爲(せゐ)だよ」と母が云つた。母の頭は陛下の病と父の病とを結び付けて考へてゐた。私にはさう許りとも思へなかつた。

 「氣ぢやない、本當に身體が惡かないんでせうか。何うも氣分より健康の方が惡くなつて行くらしい」

 私は斯う云つて、心のうちで又遠くから相當の醫者でも呼んで、一つ見せやうかしらと思案した。

 「今年の夏は御前も詰らなからう。折角卒業したのに、御祝もして上げる事が出來ず、御父さんの身體もあの通りだし。それに天子樣の御病氣で。ーいつその事、歸るすぐに御客でも呼ぶ方が好かつたんだよ」

 私が歸つたのは七月の五六日で、父や母が私の卒業を祝ふために客を呼ばうと云ひだしたのは、それから一週間後であつた。さうして愈(いよ/\)と極めた日はそれから又一週間の餘(よ)も先になつてゐた。時間に束縛を許さない悠長な田舍に歸つた私は、御蔭で好もしくない社交上の苦痛から救はれたも同じ事であつたが、私を理解しない母は少しも其處に氣が付いてゐないらしかつた。

 崩御の報知が傳へられた時、父は其新聞を手にして、「あゝ、あゝ」と云つた。

 「あゝ、あゝ、天子樣もとう/\御かくれになる。己(おれ)も‥‥」

 父は其後を云はなかつた。

 私は黑いうすものを買ふために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひら/\を付けて、門の扉の橫から斜めに往來へさし出した。旗も黑いひら/\も、風のない空氣のなかにだらりと下つた。私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあつた。雨や風に打たれたり又吹かれたりした其藁の色はとくに變色して、薄く灰色を帶びた上に、所々の凸凹さへ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黑いひら/\と、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構へは何んな體裁ですか。私の鄕里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた。

 私は又一人家のなかへ這入(はいつ)た。自分の机の置いてある所へ來て、新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本(につぽん)一の大きな都が、何んなに暗いなかで何(か)んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火(とうくわ)の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控へてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。

 私は今度の事件に就いて先生に手紙(てかみ)を書かうかと思つて、筆を執りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已めた。書いた所は寸々に引き裂いて屑籠へ投げ込んだ。(先生に宛てゝさう云ふ事を書いても仕方がないとも思つたし、前例に徴して見ると、とても返事を吳れさうになかつたから)。私は淋しかつた。それで手紙(てかみ)を書くのであつた。さうして返事が來れば好(い)いと思ふのであつた。

Line_2

 

 

[♡やぶちゃんの摑み:田舎に帰った私の最初の重要な摑みの部分である。「中 兩親と私」は「上 先生と私」以上に不当に省略されて授業されることが多いが、例えば、この章の検証の中で得られる作品解釈に関わる強力な最終武器を手しないままに、先生の遺書と格闘することは、戦車に竹槍で向かうのと同じいとさえ、私は思っているのである。まず第一に天皇の死の捉え方である。そこでは父と私の落差が著しい。父は心情的には『直ぐ御後から……』なんどと言いそうな極ウェットな雰囲気(一介の百姓としてそれは憚られる謂いとでも思ったのであろう)であるのに対して、「私」は文字通り、それを一つの「事件」として客観的に捉えており、感情的な変化は殆んど認められない。先日の卒業式で実見した人物であるが、そこには何らの個人的思い入れは全くと言ってよい程認められないドライさを示している。では先生はどうであったのか? 勿論、読者である我々には、今は分からぬ。分からぬが、「私」の推測を通して、我々も『先生にとっても大した関心事ではあるまい』と、無意識の内に推測している、知らぬ内にそう思い込まされている、という事実に気づかねばならぬのだ。

 

♡「父が凝と坐り込むやうになる、」は「父が凝と坐り込むやうになると、」の脱落である。

 

♡「私が歸つたのは七月の五六日」以前にも述べた通り、これは事実にはそぐわない。この明治451912)年の東京帝国大学の卒業式は7月10日(水)であった。漱石は作中設定としては7月1日(月)から3日(水)頃に卒業式を設定しているものと思われる。

 

♡「崩御の報知が傳へられた時」明治天皇は7月30日未明午前0時43分に崩御した。底本には資料として以下の官報号外が掲げられている。

 

 ○告示

天皇陛下今三十日午前零時四十三分崩御アラセラル

 明治四十五年七月三十日

   宮   大  臣 伯爵 渡邊 千秋

   内閣總理大臣 侯爵 西園寺公望

 

 ○宮内錄事

○天皇陛下御體 昨二十九日午後八時頃ヨリ御病狀漸次增惡シ同十時頃ニ至リ、御脈次第ニ微弱ニ陷ラセラレ御呼吸ハ益々殘薄トナリ、御昏睡ノ御狀態ハ依然御持續アラセラレ終ニ今三十日午前零時四十三分心臓麻痺ニ依リ崩御遊アラセラル洵ニ恐懼ノ至リニ堪ヘズ。(岡侍醫頭、靑山東京帝國大學醫科大學教授、三浦東京帝國大學教授、西鄕侍醫、相磯侍醫、森永侍醫、侍醫田澤敬輿、侍醫樫田龜一郎、侍醫高田參拜診)

更に天皇崩御を伝える『東京朝日新聞』の記事も孫引きする。典礼書式の改行もそのまま用いている。


 哀 辭


掛卷くも畏き

天皇不豫、日を經て大漸億兆の虔禱、遂にに其効なく、明治四十五年七月三十日龍駁登遐、奄ち人天を隔てたまひぬ遠近臣民考妣を喪するが如く、地を搶き天を呼びて號働已まず、嗚呼哀しきかな、恭しく惟みるに

大行天皇は、乃ち神乃ち聖、至仁至勇にまし/\て、夙に大統を承け、否を轉じて泰と爲し、中興前を光し、皇基以て固く、立憲後を啓き、國勢用て張り、敎育の詔は祖訓を紹述し、典章の制は精華を集成し、益文明に進み、既に强富に躋れり、是を以て宇を拓き疆を開き、遠を柔け、邇を能くし、恩威を並施したまふと、啻に覆載のみならず聖德神功、遠く百王に軼ぎ、鴻猷駿烈、比倫す可き旡し、蓋し乾綱獨運して、道は君師を兼ね、一日萬機、曾て暇逸せず、躬行精勤、臣庶を率勵したまひしかば、庶績咸熈りて既に至治に臻り、兆民永く賴りて、共に太平を享しに一朝遽に膽依を失ひて、四海同く遏密を悲む、四十五年の深恩未だ報いまつらず、六旬萬壽の佳節も亦空しくなりぬ、宮禁慟哭、率土悲號するも

靈駕廻し難く、追攀及ぶ美莫し、鳴呼哀しきかな小民等言を以て職と爲すも、猝に大喪に遘ひ、痛を五中に結びて、言ふ所を知らず、悲を銜んで筆を執り、涙を灑ぎて詞を陳ね、虔んで哀衷を展べて

昭鑒を冀ひ奉る。

こりゃ……凄いね……聞いたことのない熟語が一杯じゃ……。注する気も起こらんぜ。どうか御自分で、どうぞ……悪しからず(メンドクサイ訳では、ない。やるのが厭、なのである。この注を附している私の思想的立場を推し量って頂き御寛恕願いたいと思う)。なお、崩御の号外について、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注に『大坂毎日新聞』が告示のあった午前1時15分の『直後に刷り出した号外を朝刊と一緒に配達したために遅れをとったのに対し』、『大阪朝日新聞』は午前2時10分『に号外だけを発行、配達し、評価を高めた。なおその際、『大阪朝日』は「謹慎」の意を表して鈴を廃し、深夜に一軒ごとにたたき起こして配達をしたという(『朝日新聞販売百年史(大坂編)』)』とある。……

♡「私は黑いうすものを買ふために町へ出た。……」以下、この段落全体が摑みである。まず先に片付けておく必要があるのは、「私」の実家の地理的位置である。『私はかつて先生から「あなたの宅の構は何んな體裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事』があったと言う。この先生の謂いは『私の実家である雪深い新潟や曲家(まがりや)に代表されるような東北地方の造りとは大分趣が違っているのでしょうね』という含意がある。従って、「私」の実家は東北や北日本は排除されるということである。それ以上の詮索については、既に(二十一)試みているのでそちらを参照されたいが、私は中央線沿線しかないと踏み、諏訪・松本辺りの山間部を想定しているのである。さて問題はこの頗る映像的な「私」の家の描写と、それをランドスケープとする私の心情にある。そしてそこに配された日の丸が弔旗であることにも着目せねばならぬ。「私」の家の変色した凸凹の藁葺き屋根の古い伝統的農家の門(これは武家風の豪華な長屋門ではあるまい。しかし、藁葺きの門を持つことで相応な富農と考えてよい)が中景である――描写はないが、そこを通してやはり藁葺きの相応な実家の母屋が見えている――前景には風がないために見苦しくだらりと日の丸が縊死者のようにぶら下がっている――それが藁の変色した藁の色の中で奇態に際立っている――それを暫く眺める私は、先の先生の言葉を思い出し、先生に見せたくもあり、見せるのが恥ずかしくもあると感じるのである。それは明らかに自身の魂や肉体の中に遺伝しているところの、内なる日本的なるものの総体である――それは封建的残滓のみでは毛頭ない――それは「私」にとってどこか懐かしく、先生のような故郷喪失者には決して味わえないであろうと考えられる(この時点では先生が故郷喪失者であることは「私」には明確には理解されていないが、少なくとも鈍感な「私」に比べれば我々読者はその悲哀を何処かで先生から感受してしまっている)――自らを優しく受け入れてくれる原初の里山や日本の原風景としての故郷の印象である。――しかし、先生に幾分か洗脳され、近代的都会人としての心性をも持ち合わせている――もう一人の「私」が「私」の中にはいる――彼はそこにある種の、田舎者の持つ精神の肥溜めの臭いと前近代的閉鎖的人心の腐臭をも嗅ぎ出してもいるのである。このアンビバレンツな感情こそ本作の核心への用意された入り口であることは間違いない。後は、昼なお暗いその扉の奥の後架にはまり込まぬよう、注意して探ることが大切だ。答えを教えろって? 済まんな。私も未だ「私」の家の土間から上がってもいないのだよ。――

♡「私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控えてゐるのだとは固より氣が付かなかつた」(三十五)の私の冒頭注を参照されたい。私は頗る付きでこの章が「心」の中でも最も忘れ難い一章であることを告白する。ここを映画に撮りたい欲求に駆られるのである。それ程に鮮烈でビジュアルなのである。]

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