『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月26日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十四回
(六十四)
「金に不自由のない私は、騷々しい下宿を出て、新らしく一戶(こ)を構へて見やうかといふ氣になつたのです。然しそれには世帶道具を買ふ面倒もありますし、世話をして吳れる婆さんの必要も起りますし、其婆さんが又正直でなければ困るし、宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、と云つた譯で、ちよくら一寸(ちよつと)實行する事は覺束なく見えたのです。ある日私はまあ宅(うち)丈でも探して見やうかといふそゞろ心から、散步がてらに本郷臺を西へ下りて小石川の坂を眞直に傳通院(でんづうゐん)の方へ上がりました。今では電車の通路になつて、あそこいらの樣子が丸で違つてしまひましたが、其頃は左手が砲兵工廠(はうへいかうしやう)の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向(むかふ)の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り綠が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を橫切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。今日(こんにち)でも好(い)い町になり切れないで、がたぴししてゐる彼(あ)の邊(あたり)の家並は、其頃の事ですから隨分汚ならしいものでした。私は露次を拔けたり、橫丁を曲つたり、ぐる/\步き廻りました。仕舞に駄菓子屋の上さんに、こゝいらに小じんまりした貸家(かしや)はないかと尋ねて見ました。上さんは「左右ですね」と云つて、少時(しばらく)首をかしげてゐましたが、「かし家(や)はちよいと‥‥」と全く思ひ當らない風でした。私は望のないものと諦らめて歸り掛けました。すると上さんが又、「素人(しらうと)下宿ぢや不可ませんか」と聞くのです。私は一寸氣が變りました。靜かな素人屋に一人で下宿してゐるのは、却つて家を持つ面倒がなくつて結構だらうと考へ出したのです。それから其駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を敎へてもらひました。
それはある軍人の家族、といふよりも寧ろ遺族、の住んでゐる家でした。主人は何でも日淸戰爭の時か何かに死んだのだと上さんが云ひました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官學校の傍とかに住んでゐたのだが、厩(うまや)などがあつて、邸(やしき)が廣過ぎるので、其處を賣り拂つて、此處へ引つ越して來たけれども、無人(ぶにん)で淋しくつて困るから相當の人があつたら世話をして吳れと賴まれてゐたのださうです。私は上さんから、其家には未亡人(びばうじん)と一人娘と下女より外にゐないのだといふ事を確かめました。私は閑靜で至極好からうと心の中に思ひました。けれどもそんな家族のうちに、私のやうなものが、突然行つた處で、素性の知れない書生さんといふ名稱のもとに、すぐ拒絕されはしまいかといふ懸念もありました。私は止さうかとも考へました。然し私は書生としてそんなに見苦しい服裝(なり)はしてゐませんでした。それから大學の制帽を被つてゐました。あなたは笑ふでせう、大學の制帽が何うしたんだと云つて。けれども其頃の大學生は今と違つて、大分世間に信用のあつたものです。私は其場合此四角な帽子に一種の自信を見出した位(くらゐ)です。さうして駄菓子屋の上さんに敎はつた通り、紹介も何もなしに其軍人の遺族の家を訪ねました。
私は未亡人に會つて來意を告げました。未亡人は私の身元やら學校やら專門やらに就いて色々質問しました。さうして是なら大丈夫だといふ所を何處かに握づたのでせう、何時でも引つ越して來て差支ないといふ挨拶を卽坐に與(あたへ)て吳れました。未亡人は正しい人でした、又判然(はつきり)した人でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此氣性で何處が淋しいのだらうと疑ひもしました。
[♡やぶちゃんの摑み:本格的に先生の秘密の過去へと入る導入部である。「今日でも好い町になり切れないで、がたぴししてゐる」「隨分汚ならしい」町の「露次を拔けたり、橫丁を曲つたり、ぐる/\歩き廻」る。再び「ぐる/\」と円運動をする先生――そして――太田豊太郎にとってのクロステル街のような、女だけの世界――奥さん・御嬢さん・下女――母性性・女性性・子宮の襞へと入り込んでゆく先生の後姿が見える。
これからの重要な舞台となるこの素人下宿は何処にあったか? 先生の遺書を仔細に読み解いて見ると、それはかなり狭い範囲に絞り込むことが可能である。同定のための絞込み作業の過程は省略するが、私はこの下宿は富坂の中程の北にある中富坂町の中央部から北側を東西に走る堀坂の間にあったと考えている。これは(八十七)で完全にオリジナルに詳細に交渉してある。
♡「傳通院」文京区小石川3-14-6にある浄土宗寺院。当時、高等師範学校英語嘱託であった28歳の夏目漱石は明治27(1894)年10月から翌年4月に松山の中学校に赴任する迄、小石川区表町七十三番地(現在の文京区小石川3-5-4)伝通院の西脇に付随した尼寺法蔵院(宝蔵院)に下宿している。この頃の漱石は神経衰弱で関係妄想や幻覚が著しかった時期で、数々の奇行が知られている。また、この3年前の明治24(1991)年7月17日には以前から心惹かれていたある女性と行きつけの眼科医で出会い、衝撃と激しい恋情を催したり(当時の正岡子規宛書簡による。3年後のこの伝通院下宿時期にも毎日のようにこの眼科へ通院していた)、また、この7月下旬には兄和三郎の妻登世(とせ)が重い悪阻のために死去したが、彼女への「悼亡」句を実に十三句も残しており、江藤淳は漱石がこの義姉登世に対しても、ある種の恋愛感情を抱いていたとしている(以上は主に集英社昭和49(1974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」等に依った)。
♡「砲兵工廠」東京砲兵工廠は日本陸軍の兵器製造工場。以下、ウィキの「東京砲兵工廠」より引用する。『1871年(明治4年)から1935年(昭和10年)にその機能を小倉工廠に移転するまで操業し、小銃を主体とする兵器の製造を行った。また、官公庁や民間の要望に応えて、兵器以外のさまざまな金属製品も製造した』。(中略)『1870年3月(旧暦)、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元後楽園遊園地)に建設し、1871年に火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。後に板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場を管下においた』。(中略)『1879年(明治12年)「砲兵工廠条例」(陸軍省達乙第79号達)の制定に伴って、10月10日陸軍省達乙74号より「東京砲兵工廠」となり、1923年(大正12年)4月1日より施行された「陸軍造兵廠令」(大正12年3月30日勅令第83号)によって、大阪砲兵工廠と合併し「陸軍造兵廠火工廠東京工廠」と改称し』ている。その後は『同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けたあと、小石川工場の本格的な復旧には多大な経費が必要なことから、造兵廠長官の直轄であった小倉兵器製造所への集約移転が図られ、1931年(昭和6年)から逐次、小倉へ移転が実施された。1933年(昭和8年)10月、小倉兵器製造所は小倉工廠となり、兵器製造所に加え砲具製造所・砲弾製造所を増設。1935年10月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。跡地は払い下げられ、後楽園球場となった』。『現在、小石川後楽園内には砲兵工廠の遺構がいくつか保存されており、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑も設置されている』。――雨上がりの泥だらけの富坂……Kと靜に出逢う先生……その視線の左手……武器の製造工場……戦争……先生とK……。戦争と「こゝろ」!――私の教え子の「こゝろ」論の一つ「トゥワイス・ボーン」をお読みあれ!
♡「右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐた」ここが何故空地であったかは、江戸時代の切絵図を見ると判然とする。火除け地であったからである。
♡「私は露次を拔けたり、橫丁を曲つたり、ぐる/\歩き廻りました」「心」の中の謎の円運動の一つの写像の内、遺書に表れる先生の実際行動の円運動の初出部分である。
♡「未亡人(びばうじん)」このルビは誤植ではない。この時代は「みばうじん」「びばうじん」両様の読みが用いられていた。因みに「未亡人」と言う語は本来、夫と共に死ぬべき存在なのに未だに死なない女の意で、元来は自称の卑語であった。
♡「主人は何でも日淸戰爭の時か何かに死んだのだ」この駄菓子屋の上さんの言は特に後で補正されないところを見ると、軍人であった奥さんの夫は日清戦争(明治27(1894)年7月~明治28(1895)年3月)で戦死していると断定してよい。
♡「厩などがあつて、邸が廣過ぎる」この叙述から若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」によれば、亡夫は陸軍の佐官級(大佐・中佐・少佐)であったか、若しくは将官(大将・中将・少将)であった可能性もないとは言えないとする。
♡「未亡人は正しい人でした、又判然した人でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此氣性で何處が淋しいのだらうと疑ひもしました」何だか猫の「我輩」か「坊つちやん」の坊ちゃんが出て来たみたようなシーンで、面白い。「正しい人でした」は私には奇異な言葉遣い、「判然した人でした」は女はうじうじして「はつきり」しない人種という女性蔑視、「感服もしたが、驚ろきもし」、「此氣性で何處が淋しい」もんか「と疑ひもし」た――ちょっと息抜きしているように『見える』……いや! 違う……気づかねばならぬ……
奥さんは「正しい人」であり
奥さんは「判然(はつきり)した人」であり
奥さんは果断に富んだ「氣性」の持主
なのである。そんな奥さんに――正しく判然としないこと――など、ない。
……この奥さんこそ本作中にあって鮮やかに唯一「正しい」「判然」とした判断を下している人物なのではあるまいか?
……靜の母=「奥さん」は実は本作中にあって『何もかも総てを知っていて「正しい」「判然」とした判断を下している人物』なのではあるまいか?!……]
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