「藪の中」最後のやぶちゃんの摑み
「藪の中」の授業を終えるに当たって、今回オリジナル授業に更に付け加えた。これは〈やぶちゃんのオリジナル授業ノート=『「藪の中」殺人事件公判記録』〉には記載していない新たな内容である。
――どうしても聞きたかったと言いつつ僕のこの話を聞くことなく、試験を受ける前に一家転住でオーストラリアに旅立ってしまった女生徒Oさんに、このブログを捧げる――
●多襄丸ハ斬首ニナラザル語(こと)第一
【歴史的真実】本件殺人事件の真犯人でなかったとしても昨年の秋の鳥部寺二女性強殺事件(幼女強姦殺人が含まれている可能性があり、現在の裁判でも死刑が宣告される可能性は十分ある)によって検非違使は多襄丸に斬罪の判決を下すかも知れないが、その場合でも彼は流罪となる。
○死刑停止 弘仁9(818)年 嵯峨天皇による死刑を停止(ちょうじ)する宣旨「弘仁格」が公布
これによって、死刑相当の罪に対して死罪の判決が下されても、死刑執行権限を持つ天皇の名において流罪への減刑が適用された。その主意は、
・処罰とはいえ人を殺すという仏教上の殺生戒に抵触する恐怖
・平安貴族が極度に忌避したところの「穢れ」に接触する恐怖
・被告人の精神的肉体的に強力な御霊(ごりょう)に対する恐怖
によるものであった(但し、これは平安人の主たる世界であるところの京都御府内での日常適用であって、地方に於ける反乱等の首謀者等は斬首梟首とされた)。
○死刑復活 保元元(1156)年 保元の乱鎮定後に藤原信西の進言によって御白河天皇が崇徳院側についた源為義らを斬罪に処す
↓
☆実に本邦では平安時代、約340年間に亙って公的な意味での死刑は執行されなかった。これは世界の法制史上、稀有の事実なのである。
●芥川ハ当初武弘ノ死霊(しれい)ノ物語ヲ真相トセントセン積ナランカト思ハルル語第二
【芥川龍之介の不倫相手秀しげ子の影としての「真砂」】
○秀しげ子に対して芥川はその不倫当初から既にその動物的性癖(具体は不明であるが、芥川は彼女の中にある種の性的嗜好の異常性や後のストーカー行為に繋がるような偏執性を見抜いていたものと思われる)に生理的違和感を感じていた。後に「或阿呆の一生」等で「狂人の娘」と表現するように激しい嫌悪の対象となるに至る。不倫関係を解消後(芥川の中国行は彼女からの逃避をも目的としていたことは周知の事実である)も、終生そのストーカー行為に悩まされていた事実。
○現存する親友の画家小穴隆一宛遺書にも彼女は登場し、芥川龍之介の自死の要因の一つに確実に彼女の存在を挙げる事が出来る事実。
○本作執筆の前年大正10(1921)年、既に縁が切れていた(と芥川は言っている)秀しげ子と龍門の四天王と呼ばれた芥川龍之介の弟子格の作家南部修太郎が待合(現在のラブホテル)から出て来るのに出食わしてしまい、芥川が激しい衝撃を受けた事実があり、小穴が、小穴に生前に渡していたとされるプレの遺書(先の遺書ではなく、現存しない)には、一人の不倫相手を友人と共有していたことに恥じて死ぬという言葉があったと自書で証言している点(但し、彼の芥川関連の著作での発言については多くの疑義が持たれてはいる)。
○高宮檀「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社2006年刊)の探求によれば、芥川龍之介と秀しげ子との不倫の最初、大正8(1919)年9月15日、彼らが使った深川の待合の名は――「真砂」――であった。……
●然レドモタカガ藪ノ中ハサレド藪ノ中ニシテ小刀ヲ抜キ取リシ者ハ多襄丸ニテモ真砂ニテモ木樵ニテモアラザルト言フ藪野ガ説ノ語第三
【武弘の証言で最後に小刀を抜き取った人物は古畑任三郎ならぬ芥川龍之介】(今回、ここで教壇で古畑任三郎を演じ、やや受けた)
○芥川はしばしば作品中に登場したり(「羅生門」)、作品主題をレクチャアしてしまったりする(「鼻」)事実。
○芥川の本家新原家は過去を遡ると「藪田」姓を名乗っていた時期がある事実。
○デウス・エクス・マキナ“Deus ex machina”(機械仕掛けの神)としての芥川龍之介の最後の登場
ギリシャ劇のように楽屋落ちで(作者=神)が超法規的に登場し、(武弘=芥川龍之介自身)の死を(和らげる=救う)若しくは登場人物(真砂=秀しげ子・多襄丸=南部修太郎)総ての魂を救い上げた上、更に作品に謎を残して、多様な真相への解釈の余地を残すために……登場したのでは……あるまいか?……
*
追伸:更に今回の授業では、オリジナルに作品構造全体のシチュエーション設定を問題としたり(真砂と武弘の死霊(しれい)の物語は検非違使庁の御白洲での「証言」ではないという認識)、大正11(1922)年当時の読者に武弘の死霊の証言が多襄丸や真砂と等価に信じられた傍証として大正心霊ブームの解説もした。これらはまたの機会にお話致そうと存ずる――。
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