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2010/06/18

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月18日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十七回

Kokoro14_4   先生の遺書

   (五十七)

 「私が兩親を亡くしたのは、まだ私の廿歲(はたち)にならない時分でした。何時か妻(さい)があなたに話してゐたやうにも記憶してゐますが、二人は同じ病氣で死んだのです。しかも妻が貴方に不審を起させた通り、殆ど同時といつて可(い)い位に、前後して死んだのです。實をいふと、父の病氣は恐るべき膓窒扶斯(ちやうチブス)でした。それが傍(そば)にゐて看護をした母に傳染したのです。

 私は二人の間に出來たたつた一人の男の子でした。宅(うち)には相當の財產があつたので、寧ろ鷹揚(おうやう)に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時兩親が死なずにゐて吳れたなら、少なくとも父か母か何方(どつち)か、片方で好(い)いから生きてゐて吳れたなら、私はあの鷹揚な氣分を今迄持ち續ける事が出來たらうにと思ひます。

 私は二人の後に茫然として取り殘されました。私には知識もなく、經驗もなく、また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍に居る事が出來ませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さへまだ知らせてなかつたのです。母はそれを覺つてゐたか、又は傍のものゝ云ふ如く、實際父は回復期に向ひつつあるものと信じてゐたか、それは分りません。母はたゞ伯父に萬事を賴んでゐました。其所に居合せた私を指さすやうにして、「此子をどうぞ何分」と云ひました。私は其前から兩親の許可を得て、東京へ出る筈になつてゐましたので、母はそれも序(ついで)に云ふ積らしかつたのです。それで「東京へ」とだけ付け加へましたら、伯父がすぐ後を引き取つて、「よろしい決して心配しないがいい」と答へました。母は强い熱に堪へ得る體質の女なんでしたらうか、伯父は「確(しつ)かりしたものだ」と云つて、私に向つて母の事を褒めてゐました。然しこれが果して母の遺言であつたのか何うだか、今考へると分らないのです。母は無論父の罹つた病氣の恐るべき名前を知つてゐたのです。さうして、自分がそれに傳染してゐた事も承知してゐたのです。けれども自分は屹度(きつと)此病氣で命を取られると迄信じてゐたかどうか、其處になると疑ふ餘地はまだ幾何でもあるだらうと思はれるのです。其上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通つた明かなものにせよ、一向記憶となつて母の頭に影さへ殘してゐない事がしば/\あつたのです。だから‥‥然しそんな事は問題ではありません。たゞ斯ういふ風に物を解きほどいて見たり、又ぐる/\廻して眺めたりする癖は、もう其時分から、私にはちやんと備はつてゐたのです。それは貴方にも始めから御斷りして置かなければならないと思ひますが、其實例としては當面の問題に大した關係のない斯んな記述が、却(かへつ)て役に立ちはしないかと考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に個人の行爲や動作の上に及んで、私は後來(こうらい)益(ます/\)他(ひと)の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです。それが私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へてゐるのは慥(たしか)ですから覺えてゐて下さい。

 話が本筋をはづれると、分り惡(にく)くなりますからまたあとへ引き返しませう。是でも私は此長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、或は多少落ち付いてゐやしないかと思つてゐるのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響きももう途絕えました。雨戶の外にはいつの間にか憐れな蟲の聲が、露の秋をまた忍びやかに思ひ出させるやうな調子で微(かす)かに鳴いてゐます。何も知らない妻は次の室(へや)で無邪氣にすや/\寢入つてゐます。私が筆を執ると、一字一畫(くわく)が出來上りつゝペンの先で鳴つてゐます。私は寧ろ落付いた氣分で紙に向つてゐるのです。不馴(ふなれ)のためにペンが橫へ外(そ)れるかも知れませんが、頭が惱亂して筆がしどろに走るのではないやうに思ひます。

Line_4

 

[♡やぶちゃんの摑み:先生の生年が語られていない。一気に17歳から先生は書き出したのか? 自分の過去を学生にのみ確かに語ることへの非常な拘りを持っている先生の書き方としては唐突な気がする。この頭に実は簡単な出身地新潟に関わる叙述と生年及び生家の梗概等が簡単にでも語られるのが私は『普通』であると思う。そして先生が、それを省いてここから書いた、とは思われない。そうした年譜的事実の省略は文章に不自然さを齎さない。だから、今まで気づかなかったのだ。しかし、こうして指摘すると、あたかも源氏が11歳から17歳の青年になるまでが描かれないのと同じく、妙に不満なのである。私は少なくともおかしいと思うのである。私が先生で遺書を書くとしたら、こんなは書き方は絶対しない。数行でいいのだ。必ず生年と家柄を述べるであろう。生家への言及は実際、(五十九)で「私の家は舊い歷史を有つてゐる」と現われる。先生は財産が相応にある自家の家系について決して無関心ではなかったはずだ。その財産のルーツについて語るべき義務もあると思われるし、先生は『語ったはずである』。――だとすれば、やはり、その部分は「私」によって省略されたものと私には思われるのである。次回で「私は東京へ來て高等學校へ這入」ったという叙述が出現する。これが、先生の出生年の根拠になる。高等学校が明治の学制の中に置かれるのは明治27(1894)年6月の高等学校令公布によってである。従って、先生の出生は明治8(1875)年が限界値で、それ以前には遡ることは出来ない。尋常中学校での留年等を想定すれば可能だが、先生とKは同級生で大学も同時に入学している。Kも先生も相当に優秀であったと考えてよいし、先生は至って健康体であることもよく語られる。従って留年の可能性は消去される。初めて新制の3年制である高等學校の1回生や2回生であったならば、その特異性(初めての学制や先輩が一つ上しかいない)から必ずや、それが語られるはずであろう。それを語らないのは、彼が入学した時、既に上級生が揃ってことを示すと私は考える。そこで私は、先生の生年を、

 

明治10(1877)年前後

新潟に生まれる

 

とするものである。

 

 更にこの章以降、実は第(六十九)回に至るまで、看過出来ない誤りが、ずっと続くことを言っておかなくてはならない。先生を騙した(とする)人物である。次の(五十六)にはっきりと「父の實の弟」と語られている訳で、これらは総て「叔父」の誤植である。それが正されるのは、郷里を捨てたエピソードも終わり、下宿の奥さんへの猜疑心が起こるところ、「叔父に欺された私は」という第(七十)回の、最後の一文である。同時に「叔母」であるべき部分も総て「伯母」となっているので要注意。それにしても、ここまで徹底してしまうと、読者は、嘗て私が指摘したように、俄然(五十一)で学生の「私」と兄が、父亡き後の実家の管理を頼む相手が「叔父」ではなく「伯父」だったからこそ、彼に頼もうと考えていることと重ね合わせ易かった、誤りを感じ難くしてしまったものとは思われるのである。

♡「膓窒扶斯」腸チフスは真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科サルモネラ属の一種チフス菌 Salmonella enterica var.enterica serovar Typhi によって引き起こされる感染症。以下、ウィキの「腸チフス」より引用する。『感染源は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は7~14日間ほど。衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病であり、発展途上国を中心にアフリカ、東アジア、東南アジア、中南米、東欧、西欧などで世界各地で発生が見られる。日本では感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律で三類感染症に指定されており、感染症病院での治療が義務付けられている。また、以前は症状が似ているため発疹チフスや腸結核と同一の病気と考えられてきていた。だが、病原菌が全く違ったため別の病気だとわかった。一方、腸チフスと類似した疾患であるパラチフスは、チフス菌と同じサルモネラの一種であるパラチフスA菌ならびにパラチフスBSalmonella enterica serovar Parathyphi serovar ParatyphiB)による』。『日本において「チフス」と呼ばれる疾患には、この腸チフスの他、パラチフス、発疹チフスの3種類が存在する。このうち腸チフスとパラチフスはともにサルモネラに属する菌株による疾患であるが、発疹チフスはリケッチアの一種である発疹チフスリケッチアRickettsia prowazekii)による疾患である。これらの疾患は、以前、同一のものであると考えられ、いずれもチフスと呼ばれていた』。『チフスという名称はもともと、発疹チフスのときに見られる高熱による昏睡状態のことを、ヒポクラテスが「ぼんやりした、煙がかかった」を意味するギリシア語 typhus と書き表したことに由来する。以後、発疹チフスと症状がよく似た腸チフスも同じ疾患として扱われていたが、1836年に W. W. Gerhard が両者の識別を行い、別の疾患として扱われるようになった。それぞれの名称は、発疹チフスが英語名 typhus、ドイツ語名 Fleck typhus、腸チフスが英語名 typhoid fever、ドイツ語名 Typhus となっており、各国語それぞれで混同が起こりやすい状況になっている。日本では医学分野でドイツ語が採用されていた背景から、これに準じた名称として「発疹チフス」「腸チフス」と呼び、一般に「チフス」とだけ言った場合には、これにパラチフスを加えた3種類を指すか、あるいは腸チフスとパラチフスの2種類のことを指して発疹チフスだけを別に扱うことが多い。ただし、英語に準じて腸チフスを「チフス熱」という呼ぶこともまれにある』以下、「感染経路」について。『無症状病原体保有者や腸チフス発症者の大便や尿に汚染された食物、水などを通して感染する。これらは手洗いの不十分な状態での食事や、糞便にたかったハエが人の食べ物で摂食活動を行ったときに、病原体が食物に付着して摂取されることが原因である。ほかにも接触感染や性行為、下着で感染する。胆嚢保菌者の人から感染する場合が多い。ネズミの糞から感染することもある。上下水道が整備されていない発展途上国での流行が多く、衛生環境の整った先進諸国からの海外渡航者が感染し、自国に持ち帰るケース(輸入感染症)も多く見られる』。以下、「発症病理」について。『腸チフスは、サルモネラの一菌型(血清型)であるチフス菌の感染によって起こる。食物とともに摂取されたチフス菌は腸管から腸管膜リンパ節に侵入してマクロファージの細胞内に感染する。このマクロファージがリンパ管から血液に入ることで、チフス菌は全身に移行し、菌血症を起こす。その後、チフス菌は腸管に戻り、そこで腸炎様の症状を起こすとともに、糞便中に排泄される』。以下、「症状」について。『腸チフスの症状の推移。グラフは体温の変化感染後、714日すると症状が徐々に出始める。腹痛や発熱、関節痛、頭痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、鼻血を起こす。34日経つと症状が重くなり、40度前後の高熱を出し、下痢(水様便)、血便または便秘を起こす。バラ疹と呼ばれる腹部や胸部にピンク色の斑点が現れる症状を示す。腸チフスの発熱は「稽留熱(けいりゅうねつ)と呼ばれ、高熱が1週間から2週間も持続するのが特徴で、そのため体力の消耗を起こし、無気力表情になる(チフス顔貌)。また熱性せん妄などの意識障害を起こしやすい。2週間ほど経つと、腸内出血から始まって腸穿孔を起こし、肺炎、胆嚢炎、肝機能障害を伴うこともある』。『パラチフスもこれとほぼ同様の症状を呈するが、一般に腸チフスと比べて軽症である。』以下、現在の予防及び治療について。『弱毒生ワクチン(4回経口接種)と注射ワクチン(1回接種)が存在するが、日本では未承認。そのため日本国内でワクチン接種する際は、ワクチン個人輸入を取り扱う医療機関に申し込む必要がある。経口生ワクチンを取り扱っている医療機関は非常に少なく、輸入ワクチンを取り扱っている医療機関の多くは不活化である注射型のものを採用している。有効期間は経口ワクチンが5年、不活化Viワクチンが2~3年間程と言われている。そのほかは手洗いや食物の加熱によって予防できる。治療はニューキノロン系抗菌剤が多く用いられている。耐性菌を押さえるためにはシプロフロキサシンやトリメトプリムスルファメトキサゾール(ST合剤)を使用する。近年、バングラデッシュを中心に、治療耐性腸チフスが発生しているため、ワクチン接種が重要と思われる。ワクチンの効力が出るのは接種完了後2週間ほどしてからなので、現地での接種は賢明ではなく、国内で接種を完了することが薦められる。なお、経口生ワクチンを選択した場合、経口のコレラワクチン(新型コレラワクチン)の同日接種は6時間間隔をあけてからの服用が望ましいので注意が必要である』。なお、『治療後も1年間ほどチフス菌を排出する』とある。

 

♡「鷹揚」鷹が空を悠然と飛ぶようなさまから、人柄が、小さなことにこだわらずゆったりとしているさま、人品がおっとりとして上品なさまを言う。この評は後の(六十六)で下宿の奥さんの先生への評言としても再生される重要な先生の人格を表象する語である。

 

♡「だから‥‥然しそんな事は問題ではありません」このリーダの復元が必須である。まず、整理してみよう。まず関連事実を「○」で、リーダに関わると思われる先生の感懐を「●」で纏めて見る。

 

○先生は父母の死の後、茫然と知識も經驗も分別もない状態で取り残された。

 

○母は父の死に目に立ち会っていない。それどころか母は自分が死ぬ際に父の事実を伝えていなかった。

 

●しかし、死の床にあって母が暗に父の死を悟っていたか、回復期に向いつつあるものと信じていたかは、分からない。傍で看病した者が言うことにはそう信じていたというが、それが真実である言い得るかどうかは、甚だ疑問である。

 

○母は万事、伯父(実際には叔父)を信頼していた。

 

○殆んど死の床にあった母は私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分」「東京へ」と言ったが、それは、私が既に以前から両親の許可を得て、東京の高等学校へ進学する手筈になっていたことを主に指す内容であったと判断してよい。その言葉だけで、伯父(叔父)は母の懇請を理解したかのように、「よろしい決して心配しないがいい」と答えた。

 

●母はチフスの引き起こす高い熱に堪え得る――論理的な思考を鈍らせずにはっきりと遺言として認識して口頭で示すことの出来る――体質の女性であったかどうかは、分からない。

 

○ところが、伯父(叔父)は「確かりしたものだ」と私に母の事を褒めた。

 

●「然しこれが果して母の遺言であつたのか何うだか、今考へると分らない」、甚だ疑問である。

 

○母は勿論、父の罹患した病気が腸チフスであること、それが看病している自分に伝染し、重い腸チフスの場合、接触感染した患者も同様の重症に陥るという事実も知っていた。

 

●「けれども」母が「自分は屹度此病氣で命を取られると迄信じてゐたかどうか、其處になると疑ふ餘地はまだ幾何でもあるだらうと思はれる」。

 

●「其上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通つた明かなものにせよ、一向記憶となつて母の頭に影さへ殘してゐない事がしば/\あつた」程である。

 

以上の「●」を辿ってゆけば、「だから‥‥」のリーダの復元は容易である。即ち、

 

「だから、『母が法的な意味に於いて、この伯父(叔父)を以って民法で言うところの私の後見監督人としての指定をした』という言明及びそう主張して後見監督者となった伯父(叔父)の見解とその後の後見監督権の行使には甚だ以って疑義がある。」

 

ということである。『しかし、それは今、この遺書を書く「今の私」にとっては』」「然しそんな事は問題ではありません」と言うのである。これは先生が思ったより――論理的に物事を冷静にちゃんと見ている、お目出度いとっちゃん坊やなんかではない――という厳然たる事実を示すものである。先生のいう私は「鷹揚」な性格だという言葉に、読者は欺されてはならないのである。それにまた気づくようにと、漱石はこうした巧妙な仕掛けを配しているのだとも言えるのである。

 

♡「たゞ斯ういふ風に物を解きほどいて見たり、又ぐる/\廻して眺めたりする癖は、もう其時分から、私にはちやんと備はつてゐたのです。それは貴方にも始めから御斷りして置かなければならないと思ひますが、其實例としては當面の問題に大した關係のない斯んな記述が、却て役に立ちはしないかと考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に個人の行爲や動作の上に及んで、私は後來益他の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです。それが私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へてゐるのは慥ですから覺えてゐて下さい」これは意味深長な初期注記である。ここで漱石は、遺書の書き手である先生に、自分と同じような神経質な傾向、病的な関係妄想様の思い込みや強迫傾向があることを事前に注記しているのである(実際にそれは随所に現れることになる)。そうして、そのような認識(病識に近い謂いで私は用いている)の元に先生は遺書を書いている、従って、そのようなものとして遺書を読み解くように心掛けねばならぬ、という警告まで発しているというべきである。我々は先生の遺書を鵜呑みにしてはならないのである。――そしてもう一つの大事な点――「ぐる/\廻して眺めたりする癖」である。先生の心の動きが既にして円運動であることが示される。ここに最も分かり易い「心」の謎の円運動の解答の選択肢が示された。しかし、如何にもな分かり易い選択肢が必ずしも正解でないことは最早、高校生諸君の方が自明であろう。というよりも、これは「心」の中の謎の円運動の一つの写像に過ぎないのではないかということである。

 

♡「是でも私は此長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、或は多少落ち付いてゐやしないかと思つてゐるのです」授業でよく質問をしたもんだ。こんな当たり前のことにさえ、ろくに達意で答えられない高校生がいる。「私と同じ地位に置かれた他の人」とは、どんな人ですか? 勿論、自死を決意して遺書を書く「他の人」ですね。

 

♡「世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響きももう途絕えました。雨戶の外にはいつの間にか憐れな蟲の聲が、露の秋をまた忍びやかに思ひ出させるやうな調子で微かに鳴いてゐます。何も知らない妻は次の室で無邪氣にすや/\寢入つてゐます。私が筆を執ると、一字一畫が出來上りつゝペンの先で鳴つてゐます。私は寧ろ落付いた氣分で紙に向つてゐるのです。不馴のためにペンが橫へ外れるかも知れませんが、頭が惱亂して筆がしどろに走るのではないやうに思ひます」遺書の中で特異的に遺書を執筆している先生の姿が髣髴と描かれる印象的なシーンである(他にこのようなシーンは妻を伯母の家に看病に行かせ、時々帰ってくる妻、その際にこの遺書を隠したというやや説明的な最終章以外にはない)。如何にもロマン的だ。そこには先生のペンの音と共に、遠い電車――汽車ではない。あのレールの音だ――そして、隣室の靜の静かな寝息の音(ね)さえ聴こえてくるではないか。私には靜を愛する先生の優しさが、ここに感じられる。『先生だけの靜』の寝息である。]

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