「心」第(八十一)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像
♡「傳通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました」この「植物園」は小石川植物園のこと。恐らく当時は正式には「東京帝國大學理科大學附屬植物園」であったか(現在は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」である)。古くは江戸幕府の小石川御薬園(おやくえん)で、更に八代将軍吉宗が享保7(1722)年に町医師小川笙船の目安箱投書を受け、園内に小石川養生所を設けた。明治20(1877)年の東京帝国大学開設と共に同大学理科大学(現・理学部)の附属植物園となって一般にも公開されるようになった。本作内時間当時は既に明治30(1897)年に本郷の大学敷地内にあった植物学教室が小石川植物園内に移転、講義棟が作られて本格的な植物学講義が行われていた(以上ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」を参照した)。私は先生の下宿を中冨坂町(現在の北部分、現在の文京区小石川二丁目の源覚寺(蒟蒻閻魔)から南西付近に同定しているが、そこから北の善光寺坂通りに出て横断、現在の小石川三丁目を北西に横切って行くと伝通院裏手になる。そこから北東に向かうと小石川植物園のすぐ脇を南東から北西に抜ける通りに出られる。植物園の西の角で北東から南西に走る網干坂にぶつかって現在の営団丸ノ内線茗荷谷駅方向へ湯立坂を南へ登り、現在の春日通り(但し当時は旧道で現在より南側に位置していた)へ出、南東に下れば冨坂から冨坂下へ至り、そこから北へ下宿に戻るルートと思われる。これは地図上で大雑把に実測しても実動距離で5㎞は確実にある。当時の散歩の5㎞は大した距離ではないが、夕食後の腹ごなし散歩としては45分から1時間は短かくはない。私がこのルートに拘るのは、一つは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏が「このコースはせいぜい二、三キロメートルの距離』で『当時としてはむしろ短い距離とも言える』から、『あるいは、先生にとっての話題も重要性と、要領を得ないKの返答ぶりとが、実際以上に長く感じさせたということか。』と注されているのが納得出来ないからである。漱石がこんな心理的時間を「散歩としては短かい方ではありませんでしたが、其間に」という文脈で用いるとは思われない。尚且つ、ここ伝通院は漱石が実際に下宿した先でもあるのである。藤井氏のルートは恐らく私の考えているルートとは違い、もっと南西寄り(植物園から離れた通り)に出て、尚且つ、植物園も西の角まで至らずにすぐのところで春日通りに抜ける吹上坂か播磨坂を通るコースを考えておられるのではないかと思われるが、私はこの推測に異議を唱えるのである。
――何故か――
それは私がもう一つ、このコースに拘る理由があるからである。それは――このコースが、実はあるコースの美事な対称形を――数学でいう極座標の方程式 r2 = 2a2cos2θ で示されるlemniscate レムニスケート(ウィキ「レムニスケト」)若しくは無限記号を――成すからである。もうお分かり頂けているであろう。そうだ。あの御嬢さんを呉れろというプロポーズをしてから先生がそわそわしつつ、歩いたあの「いびつな圓」の、美事な対称形である(第(百)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十六)。後に地図で示したいと思ってはいるが、あの距離も凡そ5㎞で、更に稽古帰りの御嬢さんとプロポーズ直後の先生が出逢うのが「富坂の下」=0座標である。ここからほぼ北西に今回のルートが、南東に後の「いびつな圓」ルートが極めて綺麗な対称が描かれてゆくのである。私はこれを漱石の確信犯であると思うのである。新しい私の謎である。――いや!――そこに今一つのルートが加わるであろう――勿論、お分かりだろうが……しかし、それはまた、そこで……。
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