『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月16日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十五回
(五十五)
「‥‥私は此の夏あなたから二三度手紙(てかみ)を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位(くらゐ)の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何うすれば好(い)いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足(かけあし)で絕壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一步進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口(ここう)の資(し)、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何(ど)うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騷ぎでなかつたのです。私は狀差へ貴方の手紙(てがみ)を差したなり、依然として腕組(うでぐみ)をして考へ込んでゐました。宅(うち)に相應の財產があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻搔(もが)き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾(ぶしつけ)な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覽になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあたなの前に謝したいと思ひます。
其後私はあなたに電報(でんはう)を打ちました。有體(ありてい)に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語(ものかた)りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙(てかみ)を寄こして吳れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退(そつちの)けにして、何であなたが宅(うち)を空けらるものですか。その御父さんの生死(しやうし)を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫(あつはく)する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我(が)を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。
あなたの手紙(てがみ)、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己(や)めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、己(や)めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。
[♡やぶちゃんの摑み:何よりも先生の遺書の冒頭の復元が大切である。「私」の叙述を素朴に信ずるなら、その遺書は、次のようになる(「‥‥」を連続した文章の前略表示とするならば直に改行せず続けてもよいと思われるが、実際にテクストとして表示してみると、明らかな息継ぎが見られるので、改行とした。漢字は正表記に直した)。
《冒頭復元開始》
あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として敎へて上る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で噓になります。私は已を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしました。
私は此の夏あなたから二三度手紙を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。
實をいふと、私はこの自分を何うすれば好いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…
其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足で絕壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。
遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一步進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騷ぎでなかつたのです。
私は狀差へ貴方の手紙を差したなり、依然として腕組をして考へ込んでゐました。宅に相應の財產があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻搔き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。
私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覽になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思ひます。
其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして吳れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。
私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の腦髓よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。
あなたの手紙、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。
《復元終了》
但し、これはおめでたく「私」を信じた場合の復元案である。「‥‥」この箇所には、「私」が読者に示さなかった省略部分がある可能性がある。例えば、素朴な疑問としてこんなことをあなたは考えないか? これは遺書である。遺書は死にゆくものがその死を表明し、思いを残すためのものである。さすれば、死はそこで最重要表明である。死、特に自殺の場合、その表明は最優先される(Kの遺書を見よ)。死を最初に明言しない遺書と言うのは、何より、それを読むものにとって『不親切』であり、道徳的にも頗る悖る。特に本件のように異様に長い場合、その最後まで読みきらなければ実は執筆者が自殺することが分からないという『遺書』は『不親切』どころか『悪い遺書』の例となる。複雑な理由があって説明を要する場合でも、単刀直入に自死することを冒頭に述べることは遺書としての当然の体裁ではないか? ところが先生の遺書の場合、その冒頭で示されるのは、せいぜい「其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として教へて上る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で嘘になります。私は己を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしまし」や、次章の「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立(たち)割つて、温かく流れる血潮を啜らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です」という言辞だけである。勿論、先生が自死を「私」に『止められたくない』という絶対的意思はある。さればこそ、先生はそれを避けたとも言い得るかも知れない。しかし、送られた手紙(「私」が遺書としてこれを厳しく意識する以前には飽くまで手紙である)をどう読むかは「私」の自由であって、実際に「私」はその末尾を読んで当たり前のこと乍ら、先生の自死を直覚し、東京へと旅立つのである。ところが、ここに新聞小説読者と単行本読者の大きな違いが生じてくることになる。即ち当時の読者には、その遺書の最後を読むすべがない――只管、読み進む外は、先生の死の意味を知ることは出来ないのである。ここで初めて我々は真っ正直に馬鹿正直にゆっくらと最初から先生の覚悟の遺書を読み進める「私」となる他はない――「私」と一体になる――恒星を食べて生きているバルンガが太陽と一体になるように――のである。だからこそ遺書を読んだ後のシーンに客観的に「私」を描く展開は不要となる。既にあなたは「私」となりきった後だからである――。
この特殊性は新聞小説として読者を最後まで読ませるに、実に意地悪く巧妙にして憎い手法である。しかし、作中の先生は、飽くまで漱石ではない。小説として遺書を書いているのでは、毛頭ない。とすれば、ここ、この遺書の冒頭に、何か――私の自殺を止めようとすることは最早不能であることを語る言葉――省略された言辞があったのではないか?――何より、私が先生であったならば、必ずそれを書いて、要らぬ無駄な「私」の心配を――「お止めなさい」――と「私」に優しく語りかけるであろう、と思うのである。但し、これは相応の死の覚悟の中で書いているその冒頭部であり、「それ所の騒ぎでなかつた」直後の死の決断の中で書かれている端緒であるから、そんな「私」への配慮は働かぬとも言われるかも知れない(しかし、そのような配慮は実際に「私」への謝罪として本章に表れているのだ)。だから必ずや省略されているのだ、とは言い切れぬ。しかし、このように検証してくると、逆にその可能性は寧ろ高いとさえ言い得る気が私にはしてくるのである。
以上、そのような「私」による先生の遺書の恣意的な省略の可能性を我々は射程に入れて先生の遺書を読み解かなくてはならない、ということである。
それは「こゝろ」を初めて読んだ際、誰もが感じる、ある不審にも基づく。
この(五十)の冒頭は引用を表わす通常の鉤括弧(「こゝろ」では二重鉤括弧)で始まりながら、章末には、閉じるための鉤括弧がない。実は最終章(百十)を除いて総てがそうなっている事実に着目せねばならぬ(最終章のみは全体が「 」で括られている)。これは何を意味するか? 勿論、最初の鍵括弧は、これが『遺書であること』を常に読者に喚起する必要上のものであり、更に最後の鍵括弧の消失は逆に連載小説として次回に『続いていること』を同じく喚起する必要上のものであるとも言われるであろう。しかしその手法は同時に次のような可能性を強く示唆するものでもある。即ち、
遺書は全文ではない、その途中に、「私」が施した恣意的な省略部分が存在する可能性があるという事実を示している可能性である。
私は「省略がある」と言っているのではない。
私は「省略の可能性を常に射程に入れるような批判的な注意深いテクストの読みが不可欠である」ということを、ここから教訓としなくてはならない
と言いたいのである。これは私には過去30年以上、常に本作に向かう時の、自戒の言葉でもあり、私が「こゝろ」のテクスト論的解釈へ許容する外延であると言ってよい(言っておけば、この外延には秦恒平のような「私」と靜の結婚という仮定は微塵も含まれない)。
以下、私の推定する先生の最期の時系列を以下に示しておく。但し、(四十九)の「♡やぶちゃんの摑み」に記した漱石がやらかした齟齬を無視したものである。
明治45(1912)年 35歳
7月30日(火) 明治天皇崩御。
9月13日(金) 乃木大将殉死の報に触れる。同日、私へ電報を打つ。
「チヨツトアヒタイガコラレルカ」
9月14日(土)か 私からの電報を受け取る。同日、再び私へ電報を打つ。
15日(日) 「コナイデモヨロシイ」
9月16日(月)か 自殺を決意、遺書の執筆を始める。
17日(火)
9月25日(水)~26日(木) 遺書を書き上げる。
9月26日(木)~27日(金) この間に遺書郵送。
9月26日(木)~28日(土) この間に自殺。
但し、先生には乃木大将殉死の報に触れた際に、漠然としたもの乍ら、自死へのスイッチが入っていた。でなければ「私」に逢って秘密の過去を告白する気になるはずがないからである。自死と過去の告白はそのような不可分のものであることは、最早、言うまでもないことだ。であるから、実際に遺書を書き終わる頃の先生には自分が自殺を決意したのは乃木の殉死の日である、という意識が刷り込まれたはずである。だから先生は遺書の最後で「私が死なうと決心してから、もう十日以上になります」という言い方をしているのである。そういう意味に於いて私の推定には齟齬はないと考えている(後述する(四十九)の「♡やぶちゃんの摑み」の注も必ず参照のこと)。
♡「二三度手紙を受け取りました」三度である。一通目は、
①(四十)で帰郷後、7月20日(土)~29日(金)の間、恐らくその前半の何処かで書いた「原稿紙へ細字で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つた」もの。「その手紙のうちには是といふ程の必要の事も書いてないのを、私は能く承知してゐた。たゞ私は淋しかつた。さうして先生から返事の來るのを豫期してかゝつた。然しその返事は遂に來なかつた」書簡。
であり、次は、
②(四十三)で、8月中下旬、「私」が「父や母の手前」社会での相応の「地位を出來る丈の努力で求めつゝある如くに裝ほはなくてはならな」くなり、仕方なく、しぶしぶ「先生に手紙を書いて、家の事情を精しく述べた。もし自分の力で出來る事があつたら何でもするから周旋して吳れと」依頼する書状である。その時、「私は先生が私の依賴に取り合ふまいと思ひながら此手紙を書いた。又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙を書いた。然し私は先生から此手紙に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた」ものであったが、やはり遂に先生からの来信はなかった書簡。
である。最後の三通目は、
③乃木大将殉死の翌日である9月14日(日)、先生より「チヨツトアヒタヒガコラレルカ」との電報に対し、「出來る丈簡略な言葉で父の病氣の危篤に陷りつゝある旨も付け加へたが、夫でも氣が濟まなかつたから、委細手紙として、細かい事情を其日のうちに認めて郵便で出した」書簡。
の以上三通を指す。
♡「あたな」勿論、「あなた」の誤植。
♡「此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから」これは遺書の最後に表われる遺書を書くための一人の時間の確保を言う。即ち、遺書が長いものとなることが分かっていた先生は丁度、靜の「叔母が病氣で手が足りないといふ」渡りに舟――その渡し守はカロン――の話を耳にし、自分から「勸めて遣」ることで、落ち着いて遺書執筆するための時間を確保し得た。叔母のところに自然に靜を送り出すための仕儀に、一日二日が必要であったことを言うのである。
♡「私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です」繰り返さないが、この叙述はおかしい。先行する(四十九)の「♡やぶちゃんの摑み」の私の恨みの注を是非ご覧あれ。]
« 夏目漱石 心 先生の遺書(三十七)~(五十四)――(単行本「こゝろ」「中 兩親と私」相当パート) 附♡やぶちゃんの摑み | トップページ | 230000アクセス突破記念 尾形亀之助編輯『月曜』第一卷第一號 編輯後記 »