「心」第(八十七)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像
先生の遺書パートに入ったので、フライングのメーキングはもうやめにしようと決心していたのだが、こればかりはどうにもたまらなくなった!
昨日、僕はスリリングに体験したのだ!
先生が雨上がりの道でKと靜に出逢ってしまう、あの強烈なシーン――僕は遂に! このシーンのロケ地を正しく発見したのだ!
*
――そして私は遂にネット上で誰もが自由に拡大縮小して見られる明治時代のここの地図を発見した!
「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治16(1883)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵記号番号:YG/1/GC67/To ・002275675-0015)である。
これを拡大して見ると、
蒟蒻閻魔源覚寺の東は斜面に茶畑が広がる広大な個人の邸宅
であることが分かる。私が想定している本作中時間は明治31(1898)年頃であるが、明治42(1909)年の東京1万分の1地形図でも依然としてこの邸宅は残っている(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」付録地図等参照)。更に拡大してこの明治16年地図を仔細に見ると、
「寺覚源」の「寺」の字の右、墓の西に標高7.8 m
のマークがあり、そこから南へ大邸宅の茶畑の下の小路を南へ移動すると、
邸宅の垣根の東南の角に出、ここは標高9.2m、ここがこの道の最高地点
であることが分かる。先生はここを通った。だから「細い坂路を上つて」と言っているのである。この地点から南の方には先生の下宿はない。何故か? さっき言った通り、ここが最高地点で、ここから南のルートは坂を下る(砲兵工廠方向へ)からである。先生は
「細い坂路を上つて宅へ歸りました」
と言っているのであってみれば、更に
邸宅の垣根の東南の角標高9.2 m地点から西の坂を登ったすぐの南辺りに下宿はあった
(北は大邸宅の石垣又は壁であるからあり得ない)と考えるべきではあるまいか。この地図上の等高線を見ても、ここはかなりの高台となっており、源覚寺の南の善雄寺から西に伸びる坂の頂点、この大邸宅の西南の角の部分(既に小石川上富坂町内になる)は標高が21.2mもある。
先生の下宿――それは例えば、この地図の
標高17.0mマーク近辺、大邸宅の石垣の向かい辺り、「小石川中富坂町」と書かれた地名の「中」の字の辺りにあった
と想定してみても決して強引ではないのではあるまいか。
♡「坂の勾配が今よりもずつと急でした」上記の地図上で中富坂町から南に下った地点
「坂富西」の「坂」の字の右上の地点で標高15.77m
(因みに、そこからもう少し登った標高20.05mの北にある荒地は第(六十四)回で故郷を捨てた先生が住むための家を探して立ったあの場所である。「其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を横切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。」に現れる場所である)で、
旧富坂の次の下った標高地点は9.7m
であるから、実に
標高差6.07m
である。道路標識にある斜度を示す『%』は高低差(垂直長)÷地図上の距離(水平長)でされるが、
この両地点間を仮に約50mとして12%(この斜度はもっとある可能性がある)
となる。非舗装道路で、しかも雨上がりのこの斜度の坂を高下駄で歩くとなると、かなりしんどい。
♡「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間が非道かつた」上記「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」を拡大してみると、旧富坂(地図では西富坂と地名表示あるところ)を下ったところにある
標高6.63m記号表示の東に小さな流れに架かる橋
がまずある。しかし更にこの道を東に辿ったところ、
憲兵隊屯所の南方、荒地の只中にも同様な橋
が認められる。
先の標高6.63m記号表示のある橋からこの橋までの間は120m程
で、南側には
砲兵工廠の鰻の寝床のような建物
が認められ、これが先生の言う
「其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐる」
であることは間違いない。ということはこの後に続く
「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間」とは、この憲兵隊屯所の南方に位置する橋と柳町交差点の間を指している
と同定してよい。この
橋から柳町の間は約60m
であるが、実はここで気がついた!
よくこの地図を拡大して見て頂きたい!
橋のすぐ東に標高5.6mのマーク
があるが、
柳町交差点中央地点は6.2m
なのである! ここは
高低差60㎝で、この道が東の柳町交差点に向かって既に東方の小石川の台地の裾野にかかっていて逆にやや登り勾配であったことが分かるのだ!
私は若き日にここを読んだ際、坂を『下っている』先生が幾ら近視だったとは言え、Kや御嬢さんを目の前に来るまで視認出来なかったことを永く不審に思っていた。
しかし、これで眼から鱗だ!
即ち、先生はやや登り勾配であったから、足に気をとられていたからだけではなく、先生の視野には、向うから『下ってくる』形になる二人が入らなかったのである!
ここでは先生は道を下っていたのではなく『上っていた』のである!
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