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2010/06/14

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月14日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十三回

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  先生の遺書

   (五十三)

 其日は病人の出來(でき)がことに惡いやうに見えた。私が厠へ行かうとして席を立つた時、廊下で行き合つた兄は「何處へ行く」と番兵のやうな口調で誰何(すゐか)した。

 「何うも樣子が少し變だから成るべく傍(そば)にゐるやうにしなくつちや不可ないよ」と注意した。

 私もさう思つてゐた。懷中した手紙は其儘にして又病室へ歸つた。父は眼を開けて、そこに並んでゐる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々說明して遣ると、父は其度に首肯(うなづ)いた。首肯かない時は、母が聲を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。

 「何うも色々御世話になります」

 父は斯ういつた。さうして又昏睡狀態に陷つた。枕邊を取り卷いてゐる人は無言の儘しばらく病人の樣子を見詰めてゐた。やがて其中の一人が立つて次の間へ出た。すると又一人立つた。私も三人目にとう/\席を外して、自分の室へ來た。私には先刻(さつき)懷へ入れた郵便物の中を開けて見やうといふ目的があつた。それは病人の枕元でも容易に出來る所作には違なかつた。然し書かれたものゝ分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで讀み通す譯には行かなかつた。私は特別の時間を偸(ぬす)んでそれに充てた。

 私は纖維の强い包み紙を引き搔(か)くやうに裂き破つた。中から出たものは、縱橫(たてよこ)に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿樣のものであつた。さうして封じる便宜のために、四つ折に疊まれてあつた。私は癖のついた西洋紙(せいやうし)を、逆に折り返して讀み易いやうに平たくした。

 私の心は此多量の紙と印氣(いんき)が、私に何事を語るのだらうかと思つて驚ろいた。私は同時に病室の事が氣にかゝつた。私が此(この)かきものを讀み始めて、讀み終らない前に、父は屹度(きつと)何うかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか、呼ばれるに極つてゐるといふ豫覺があつた。私は落ち付いて先生の書いたものを讀む氣になれなかつた。私はそわ/\しながらたゞ最初の一頁(ページ)を讀んだ。其頁は下(しも)のやうに綴られてゐた。

 「あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語(ものかた)る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として敎へて上(あげ)る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で噓になります。私は己を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしました」

 私は其處迄讀んで、始めて此長いものが何のために書かれたのか、其理由を明かに知る事が出來た。私の衣食の口、そんなものに就いて先生が手紙を寄こす氣遣ひはないと、私は初手(しよて)から信じてゐた。然し筆を執ることの嫌ひな先生が、何うしてあの事件を斯う長く書いて、私に見せる氣になつたのだらう。先生は何故私の上京する迄待つてゐられないだらう。

 「自由が來たから話す。然し其自由はまた永久に失はれなければならない」

 私は心のうちで斯う繰返しながら、其意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲はれた。私はつゞいて後を讀まうとした。其時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の聲が聞こえた。私は又驚いて立ち上つた。廊下を駈け拔けるやうにしてみんなの居る方へ行つた。私は愈(いよ/\)父の上に最後の瞬間が來たのだと覺悟した。


 

[♡やぶちゃんの摑み:遂に、遺書の冒頭が、我々の前に直に示される。気をつけよ! この遺書の冒頭は繰り返されない! 我々は、先生の遺書の完全なる復元を、心がけねばならない!(伊井弥四郎口調で)

上の通り、この章の最後には飾り罫がなく、縱罫線である。原画像のそれは擦れて汚ないので、本ブログ・システムの水平罫線を使用した。

 

♡「中から出たものは、縱橫に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿樣のものであつた。さうして封じる便宜のために、四つ折に疊まれてあつた。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して讀み易いやうに平たくした」当時、漱石が用いていた原稿用紙は、特注で200字詰のものであった(例えば芥川龍之介が遺書に用いているものも200字詰で、200詰原稿用紙は当時は極めてポピュラーなものである)。先生の遺書は、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏の試算(同書185p)によればB4原稿用紙(400字詰)で約330枚とある。さすれば200詰原稿用紙であれば、単純計算で660枚(実際にはそれ以上に増える可能性の方が高いと思われる)、現在、私の所持するさる出版社から貰った原稿執筆用の比較的厚みのある200詰原稿用紙は100枚で凡そ9㎜弱である。先生の手紙は「西洋紙」とあるから、インディアン・ペーパーのような極薄い素材であったと考えて仮に7㎜としても、「封じる便宜のために、四つ折に疊まれてあつた」(660枚を纏めて四つ折にはし得ないが、とりあえず単純計算すると)となれば、7㎜×6.6×4=184.8㎜≒18㎝、分冊して封入、包装した「纖維の強い包み紙」(防水を考えていると思われ、それなりに厚いものであろう)も計算に入れれば、有に厚さ20㎝になんなんとする小包のようなものが出来上がってしまう。こんなものは「袂」(!)には勿論(五十四)、「懷」(!)にだって入りはしない。漱石はこの時点で、もうオムニバス方式は考えていなかったものの、先生の遺書を凡そ現在の1/2から2/3弱ぐらいの想定、連載回数にしてせいぜい二十数回から四十回分程度を考えていたのではあるまいか。だとすれば、その厚みは半分以下、恐らく10数㎝から8㎝以下には抑えられ、かろうじて懷には入る気がする(いずれにせよ、袂は重くて無理、袂が切れちゃう)。――と、そんなことを考えていたら――ふと気がついたのだ――連載の終了は「彼岸過迄」の由来で分かるように新聞社が決めていたはずであるから、漱石にはこの連載が8月上旬まで続くことは分かっていたわけだ。仮に切りのいい100回分だったとしても、残りは45回もある――すると――もしかすると、漱石は現在の「こゝろ」の「先生の遺書」パートの後に十数回から数回分の『遺書でないパート』――遺書を読み終えた後の「私」のパート――既に先生亡き先生の家に駆け込む「私」のパート――いや、必ずしもそうではないかも知れない場面――を想定していたとは考えられないだろうか?……

 

♡「あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります」「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、この「世間的の自由」に注して、『結末まで読み進むと、これが奥さんを親類の元へやったことを指していたとわかるようになっている』と記されるが、これはとんでもない誤読であろう。この「世間的」とは、正に「現世的」という意味である(先生は仏教用語染みたものとして誤読され易いこの語を嫌ったのであろう。その気持ちは分かる)。即ち、私は「あなた」に私の「過去」を「明白に物語る」「勇氣」、その「自由を得た」。「然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又」「永久に」「失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないの」だ、と言っているのである。先生は最早、「世俗的」現世的に限られた時間しか生きられない、そう決意した、即ち、この言明そのものが、己の命の引き換えの秘密の過去の告白である、と先生は言っているのである。

 

♡「私は己を得ず」勿論、「已」の誤植。やっちゃった――って感じだ。この大事な遺書に、このとんでもない致死的誤植である。私自身、今回、このプロジェクトに取り掛かってみて、これ程ひどい校正ミスが連続しているとは、正直、思わなかったほどある。今まで読んで来られてお分かりの通り、この「已」と「己」の、所謂、校正係は烏焉馬の誤りとして最も気づかねばならぬ凡ミスが、驚くばかりに連発しているのである。――処置なしである――次章の最後の注も参照されたい。

 

♡「何うしてあの事件を斯う長く書いて、私に見せる氣になつたのだらう」ここは若き日に「こゝろ」を読んだ折りから引っ掛かった個所である。この手記執筆時の現在の「私」が――手記執筆時の『既に遺書を読んでしまった、先生の秘密の過去を既知である現在の「私」』が、この作中の過去の時間の「私」の内心を表明しているという、変な叙述になっているからである。これはしかし、漱石の確信犯的描写のようにも思われてくるのである。そっと遺書の中に現われる「あの事件」――それは今、読者であるあなたには闇に包まれている……いや、その暗がりには……忌まわしい血塗られた「あの事件」がある――という確信犯である――。]

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