『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月25日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十三回
(六十三)
「一口でいふと、伯父は私の財產を胡魔化したのです。事は私が東京へ出てゐる三年の間に容易く行なはれたのです。凡てを伯父任せにして平氣でゐた私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊(たつと)い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません。然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。
若し私が伯父の希望通り伯父の娘と結婚したならば、其結果は物質的に私に取つて有利なものでしたらうか。是は考へる迄もない事と思ひます。伯父は策略で娘を私に押し付けやうとしたのです。好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けたのです。私は從妹を愛してゐない丈で、嫌つてはゐなかつたのですが、後から考へて見ると、それを斷つたのが私には多少の愉快になると思ひます。胡魔化されるのは何方(どつち)にしても同じでせうけれども、載せられ方からいへば、從妹を貰はない方が、向ふの思ひ通りにならないといふ點から見て、少しは私の我が通つた事になるのですから。然しそれは殆ど問題とするに足りない些細な事柄です。ことに關係のない貴方に云はせたら、さぞ馬鹿氣(げ)た意地に見えるでせう。
私と伯父の間に他(た)の親戚のものが這入りました。その親戚のものも私は丸で信用してゐませんでした。信用しないばかりでなく、寧ろ敵視してゐました。私は伯父が私を欺むいたと覺ると共に、他(ほか)のものも必ず自分を欺くに違ひないと思ひ詰めました。父があれ丈賞め拔いてゐた伯父ですら斯うだから、他のものはといふのが私の論理(ロヂツク)でした。
それでも彼等は私のために、私の所有にかゝる一切のものを纏めて吳れました。それは金額に見積ると、私の豫期より遙に少いものでした。私としては默つてそれを受け取るか、でなければ伯父を相手取(どつ)て公け沙汰にするか、二つの方法しかなかつたのです。私は憤りました。又迷ひました。訴訟にすると落着迄に長い時間のかゝる事も恐れました。私は修業中のからだですから、學生として大切な時間を奪はれるのは非常の苦痛だとも考へました。私は思案の結果、市に居(を)る中學の舊友に賴んで、私の受け取つたものを、凡て金の形に變へやうとしました。舊友は止した方が得だといつて忠告して吳れましたが、私は聞きませんでした。私は永く故鄕を離れる決心を其時に起したのです。伯父の顏を見まいと心のうちで誓つたのです。
私は國を立つ前に、又父と母の墓へ參りました。私はそれぎり其墓を見た事がありません。もう永久に見る機會も來ないでせう。
私の舊友は私の言葉通りに取計らつて吳れました。尤もそれは私が東京へ着いてから餘程經つた後の事です。田舍で畠地などを賣らうとしたつて容易には賣れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取つた金額は、時價に比べると餘程少ないものでした。自白すると、私の財產は自分が懷にして家を出た若干の公債と、後から此友人に送つて貰つた金丈なのです。親の遺產としては固より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした。此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷し入れたのです。
[♡やぶちゃんの摑み:先生がここで始めて明言する叔父による財産横領への私(やぶちゃん)の疑惑(否定ではない)の提示とその分析は前章までに十分に尽くした。ただ付け加えるならば、私は叔父による財産横領(先生の確認を得ずに行われた財産流用及びそれによる損失の不補填)が実際にあったとして(逆に1円たりとも全くなかった可能性も私は少ないように思う)、叔父自身も他の親族も含めて、それが横領であるという意識はなかったのではないかと考えている。「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」と私が言う以上、当時の民法が規定していた最低年一回の親族会への報告義務など、田舎のことであるから酒の席のなあなあで済まされていたと考えてよいし、叔父のみならず親族会も、財産状況報告どころか、財産管理運用に関しては万事叔父の裁量に任せておけばよい、幾許かの金銭ならば一時的に流用してそれが増えれば悪いこっちゃない、ぐらいな理解であったと私は思うのである(これは現在の民法上の訴訟でも「面倒見てやってんだから」という幾等も見受けられる事例であろう)。即ち、犯罪としての罪障感などは、叔父ら(家族及びそれを知っていて黙認していた親族)の内心には微塵もなかった、と私思うのである。そう考えた時、私は、この場面での親族の動きも自然に納得されるのである。だいたいが、東京に行って好き勝手し、夏には帰ってへらへら遊び、そのくせ、従妹との結婚は厭です、あなた方はグルになって私を欺した、「策略で娘を私に押し付けやうとした」「好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けた」のだ、なんどと言い出す、頭でっかちの生意気な青書生に味方する人は、田舎でなくても、先生の親族には全くいなかったと断言出来るように思われるのである。更に言えば、民俗的運命共同体としての「ムラ」としての意識が未だ色濃く残っていた当時にあって、こういう人物は「ムラ」を危くする異人として認識され、排除・抹殺されても仕方がない存在であったと言ってもよい。先生は自分から故郷を出たが、実際には故郷を追われたと言ってもよいのである。ここに私が授業で先生を故郷喪失者とする真の所以がある。
♡「然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」私はこの台詞を、
『「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」この「私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません」。が、「記憶して下さい、」これからお話する秘密の過去に纏はる一件を經てしまった後の私、「あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」が、「然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです」。』
という意味でとってきた――そして今後もそういう意味で取り続ける。ところが、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」では、どうもそのようには取っておられないように思われる。藤井氏は「塵に汚れた後の私」を(五十九)の「子供らしい私」を“innocent”の訳語的用法とし、ここはそれに対応して、『innocentでなくなった私、というほどの意味だろうか。すぐその前では、innocentであった時代を指して「純な尊い男」とも言っている。』と注されている。即ち、藤井氏は、
『「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」この「私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません」。――そして私は、叔父に裏切られることによつて「子供らしい」「生れたままの」「純な尊い」「姿」を完全に失ひました。――「記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は」叔父に裏切られて人を信じられなくなつた「塵に汚れた後の私です」。遂に「金に対して人類を疑」(六十六)うようになった――人間を信じられなった――「きたなくなつた」のです「きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」。』
という風に、座標軸をこの郷里出奔の時点に置いた前後として認識しているように読める。……言われてみると、書かれた文章をここだけ取り出して本作を全く知らない人に読ませれば、そのように読むのが自然だとも言えるようにも見える……
……が……しかし、果たして、そうだろうか?
もう一度「記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」を、実際に声に出して味わってみて欲しい。
するとやはりそのような解は不能であるという強い思いが湧いてくるのである。そもそも叔父に騙されたここまでの一件は〈秘密の過去」でも何でもない。それは幼馴染みのKも、奥さんも、靜も知っていることだ。そんなものを「記憶して下さい」なんどと先生が言うこと自体、おかしい。私には「塵に汚れた後の私」という語は、もっと先生の人生総体の、非常に重い「過去」として、「私」にのしかかって「壓迫」(三十一)してくるのである。
それは何故か?
それは正に『ここ』が先生の遺書の核心部である秘密の過去へ開かれる『門』であるからである。
実際にこの章の最後の一文「此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷し入れた」という一文がそのことを如実に示している。
そして何より――「記憶して下さい」――である。
私は「こゝろ」というと先ずこのフレーズが思い起こされるのである。このフレーズは御承知の通り、もう一度出現する。それが閉じられるもう一つの『門』である――
記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。
最終章の一つ前第(百九)章の終り近くの下りである。これは極めて重要な部分である。この次の段落で明治天皇が崩御し、乃木の殉死があって、その中で先生の自死が慌しく決せられるのである。この「記憶して下さい」というフレーズは、それが始まる(六十二)の『ここ』から、この(百九)の『ここ』までに係るのだと私は思うのである。即ち、「記憶して下さい」こそが「先生の秘密の過去」という先生の生き血で描いた絵の、荘厳な「額縁」なのである。先生は私に、
○これから語り出すことこそ大事だ! ここに、ここまで書かれた秘密の私の過去を記憶せよ!
と命じているのであって、間違えても、
×「下卑た」「叔父」に騙されて汚れてしまった私を記憶せよ!
なんどと言っているのでは毛頭『ない』!
♡「親の遺産としては固より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした」前注では藤井氏の注に難癖(謂われなきと反論されるかも知れない)をつけたが、「漱石文学全注釈 12 心」の本章の注では特に「公債」や「それから出る利子」について詳細なデータが示されていて素晴らしい。詳細な計算は該当書を見て欲しいが、ここで藤井氏は、この時点で先生が手にした財産を24,000円と推定されている(月々の生活費を50円とした試算。一般的な標準から考えるともう少し生活費を下げて考えてもよいようにも思われる)。因みに先生は結婚後に、靜の実家の財産と寡婦扶助料(日清戦争で戦死した亡父の未亡人である奥さんに支払われいたと考えられるもので藤井氏の別な箇所の注によれば平均年額145円とある)等に加え、奥さんが持っていた可能性が高いと思われる国債(靜の亡父は軍人であるから海軍公債等)などを合わせ、そこから得られた利子(公債の殆んどが年5分で、償還期間も極めて長かったと藤井氏注にある)をまた新たな公債購入に当てたりし乍ら、財産を膨らまして高等遊民としての元金にしていったものと考えられる。ともかくもここでは、かなりとんでもない小金持ちの――高級マンションに住むような(住めるようなの謂いである)――お洒落でやや気障でさえある(先生は「その時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いて」(八十)いる)帝大生の先生をイメージしなくてはならない。]
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