『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月1日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十九回
(六十九)
「私は奥さんの態度を色々綜合して見て、私が此處の家で充分信用されてゐる事を確めました。しかも其信用は初對面の時からあつたのだといふ證據さへ發見しました。他を疑ぐり始めた私の胸には、此發見が少し奇異な位(くらゐ)に響いたのです。私は男に比べると女の方がそれ丈直覺に富んでゐるのだらうと思ひました。同時に、女が男のために、欺まされるのも此處にあるのではなからうかと思ひました。奥さんを左右觀察する私が、御孃さんに對して同じやうな直覺を強く働かせてゐたのだから、今考へると可笑しいのです。私は他を信じないと心に誓ひながら、絶對に御孃さんを信じてゐたのですから。それでゐて、私を信じてゐる奥さんを奇異に思つたのですから。
私は鄕里の事に就いて餘り多くを語らなかつたのです。ことに今度の事件に就いて、は何にも云はなかつたのです。私はそれを念頭に浮べてさへ既に一種の不愉快を感じました。私は成るべく奥さんの方の話だけを聞かうと力めました。所がそれでは向ふが承知しません。何かに付けて、私の國元の事情を知りたがるのです。私はとう/\何もかも話してしまひました。私は二度と國へは歸らない、歸つても何にもない、あるのはたゞ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大變感働したらしい樣子を見せました。御孃さんは泣きました。私は話して好(い)い事をしたと思ひました。私は嬉しかつたのです。
私の凡てを聞いた奥さんは、果して自分の直覺が的中したと云はないばかりの顏をし出しました。それからは私を自分の親戚に當る若いものか何かを取扱ふやうに待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。寧ろ愉快に感じた位です。所がそのうちに私の猜疑心が又起つて來ました。
私が奥さんを疑ぐり始めたのは、極些細な事からでした。然し其些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張つて來ます。私は何ういふ拍子か不圖奥さんが、伯父と同じやうな意味で、御孃さんを私に接近させやうと力めるのではないかと考へ出したのです。すると今迄親切に見えた人が、急に狡猾な策略家として私の眼に映じて來たのです。私は苦々しい唇を嚙みました。
奥さんは最初から、無人(ぶにん)で淋しいから、客を置いて世話をするのだと公言してゐました。私も夫を噓とは思ひませんでした。懇意になつて色々打ち明け話を聞いた後(あと)でも、其處に間違はなかつたやうに思はれます。然し一般の經濟狀態は大して豐(ゆたか)だと云ふ程ではありませんでした。利害問題から考へて見て、私と特殊の關係をつけるのは、先方に取つて決して損ではなかつたのです。
私は又警戒を加へました。けれども娘に對して前云つた位の强い愛をもつてゐる私が、其母に對していくら警戒を加へたつて何になるでせう。私は一人で自分を嘲笑しました。馬鹿だなといつて、自分を罵つた事もあります。然しそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに濟んだのです。私の煩悶は、奥さんと同じやうに御孃さんも策略家ではなからうかといふ疑問に會つて始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、萬事を遣つてゐるのだらうと思ふと、私は急に苦しくつて堪らなくなるのです。不愉快なのではありません。絕體絕命のやうな行き詰つた心持になるのです。それでゐて私は、一方に御孃さんを固く信じて疑はなかつたのです。だから私は信念と迷ひの途中に立つて、少しも動く事が出來なくなつて仕舞ひました。私には何方(どつち)も想像であり、又何方も眞實であつたのです。
[♡やぶちゃんの摑み:奥さんへの、
『私の財産が目当ての策略家ではないか?』
という猜疑心が昂まってゆくと同時に、遂にはそれが絶対不可侵神聖至高のはずの御嬢さん自身への共同正犯疑惑、
『御嬢さんもグルではないか?』
という疑心暗鬼にさえ発展してしまう。しかし、同時に御嬢さんへの愛は至高至善神聖不可侵であることに変わりはなく、「私には何方も想像であり、又何方も眞實であつた」と先生は言う。
『御嬢さんもグルではないか?』という「迷い」
↑
〈葛藤状況〉
↓
『御嬢さんを』愛し「固く信じて』いるという「信念」
そのアンビバレントな状況が痙攣的に再び新たな二項対立・二極分化の袋小路へと先生を導いて行ってしまうのである。なお、今回より発表当時の新聞の原文ポイントの比率に近い大きさのタイトル及び飾罫に変更した。より当時の雰囲気が伝わるものと思う。
♡「狡猾な策略家」私は奥さんの意識の中に当然そのような計算は働いたと思う。当時、奥さんが国から貰っていた寡婦扶助料は若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏の本章の注によれば、丁度私が想定している本作中時間である明治31(1898)年頃に極めて近い明治30(1897)年の統計では、受給者が248人、平均受給額は年額145円であったある。実際には亡夫は佐官級以上であったと思われるからもっと高額であると考えられるが、それでも相応の現在の家屋の維持・娘一人の養育費・老後の生活等を考えると経済的には厳しいものと思われる。さればこそ、この現時点で経済的に何らの不安要素のないこの青年、日常の真面目さから認識可能な手堅い生真面目さ、人格的な鷹揚さ(但し、ここはそこに巧妙に隠された猜疑的な性質までは見抜けなかったものとも思われようが、私は奥さんはそこもとっくに見抜いて、しかもそれを容易に外部に向ける惧れはまずない人格の持主であるとまで先生の性格を見切っていたことと私は思うのである)総てを総合的判断して、将来の靜の夫として認識していたと私は思う。そして、それは「策略」でも何でもない。叔父のケースと同様、当時の読者も、今の読者も『フツーに肯んずるところの正当な行為』であると私は思うのである。それは暗黙の内に靜にも了解されていた。この時点ではあくまでまだ二人の暗黙の了解事項であったものと思われるが、これは直ぐに第(七十二)回で馬鹿でも分かる形で明示されることになるのである。
実はそんなことより気になるのは、陳述する側の先生の言葉遣いである。叔父と穏やかならざる『日淸談判破裂して』(「欣舞節」若宮萬次郎作詞作曲)を思わせる「談判」を開き、この新しい戦線では敵方の「策略」による巧妙な心理戦を蒙って(いると思って)激しく「先生」の兵力は殺がれている。
――そうである。戦争である。――
そして「策略」というこの語は、忌まわしくも先生自身の良心が悪意の先生へと鏡返しで用いることになる語であることに注意せねばならぬのである。順に見ておこう。
「策略」と言う語は実は既に叔父との談判一戦の際に出現している。初戦は第(六十三)回「一口でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです」に始まる
『新潟実家の乱』
での一場面2段落目「伯父は策略で娘を私に押し付けやうとしたのです。好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けたのです。私は從妹を愛してゐない丈で、嫌つてはゐなかつたのですが、後から考へて見ると、それを斷つたのが私には多少の愉快になると思ひます。胡魔化されるのは何方にしても同じでせうけれども、載せられ方からいへば、從妹を貰はない方が、向ふの思ひ通りにならないといふ點から見て、少しは私の我が通つた事になるのですから」(下線部やぶちゃん。以下同じ)という部分である。叔父の「策略」に乗せられて敗北して知らずに居るところであったが、従妹の首を掻いた局地戦だけでも復讐相当にはならぬものの溜飲を下げた戦いであったと言うのである。
第2ラウンドがご覧の通りのこの
『東京下宿の変』
での心理戦による膠着状態で、相手方の推定戦術として奥さんに対して「策略」の語が用いられ、更にはその特命「策略」を奉じた別働隊とも疑われる特別攻撃隊「靜」隊にも「策略」が疑われたのである。そして
『第九十五次対 K 戦争』
では
『私は丁度他流試合でもする人のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼、私の心、私の身體、すべて私といふ名の付くものを五分の隙間もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪のないKは穴だらけといふより寧ろ明け放しと評するのが適當な位に無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管してゐる要塞の地圖を受取つて、彼の眼の前でゆつくりそれを眺める事が出來たも同じでした。/Kが理想と現實の間に彷徨してふら/\してゐるのを發見した私は、たゞ一打で彼を倒す事が出來るだらうといふ點にばかり眼を着けました。さうしてすぐ彼の虛に付け込んだのです。私は彼に向つて急に嚴粛な改たまつた態度を示し出しました。無論策略からですが、其態度に相應する位な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先づ「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云ひ放ちました。是は二人で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使つた言葉です。私は彼の使つた通りを、彼と同じやうな口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讐ではありません。私は復讐以上に殘酷な意味を有つてゐたといふ事を自白します。私は其一言でKの前に橫たはる戀の行手を塞がうとしたのです』
と禁断の最終兵器である策略核を、突然、同盟していたK国の首都の宮殿にスパイを送り込んで、美事に起爆させ、粉砕してしまうのであった(しかもおぞましいことにその核物質はその同盟国が心血注いで開発した「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」物質という強力特殊な原子爆弾の覚悟の材料であったのだ)。
このように先生は逸早い索敵を行い、勝利を収めたと確信する。ところが、その結果は予想外の惨憺たるものとなった。
『第百二次対 K 戦争』
に向けて最強の隣国奥さん抜け駆けで決定的な同盟条約即日締結という策略に成功した先生は、実は自分の裏切り行為の策略を既に何日も前にKが知っていた事実を知り、驚愕するのである。先生は
『勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日餘りになります。其間Kは私に對して少しも以前と異なつた樣子を見せなかつたので、私は全くそれに氣が付かずにゐたのです。彼の超然とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遙かに立派に見えました。「おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ」といふ感じが私の胸に渦卷いて起りました。私は其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧らめました。然し今更Kの前に出て、耻を搔かせられるのは、私の自尊心にとつて大いな苦痛でした』
と自国の完全敗北を自覚したものの、手を拱き、遂に手遅れとなってK国は自から滅亡してしまうのである。
先生は「心」の総ての戦争で勝つことが出来なかった――
それは何故か?
それは――戦争をしていると思っていたのは、実は何を隠そう、先生だけだったからである――。
今一度、言う。「こゝろ」とは一種の戦争論である。人間にとって、人間である以上、決して避けられぬ己のエゴイズムとの、戦争の話なのである――是非とも私の教え子の「こゝろ」論の一つ「トゥワイス・ボーン」を再読されたい。]
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