『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月20日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十九回
(五十九)
「私が夏休みを利用して始めて國へ歸つた時、兩親の死に斷(た)えた私の住居には、新らしい主人として、伯父夫婦が入れ代つて住んでゐました。是は私が東京へ出る前からの約束でした。たつた一人取り殘された私が家にゐない以上、左右でもするより外に仕方がなかつたのです。
伯父は其頃市(し)にある色々な會社に關係してゐたやうです。業務の都合から云へば、今迄の居宅に寢起する方が、二里も隔つた私の家に移るより遙かに便利だと云つて笑ひました。是は私の父母が亡くなつた後(あと)、何(ど)う邸(やしき)を始末して、私が東京へ出るかといふ相談の時、伯父の口を洩れた言葉であります。私の家は舊い歷史を有つてゐるので、少しは其界隈で人に知られてゐました。あなたの鄕里でも同じ事だらうと思ひますが、田舍では由緖のある家を、相續人があるのに壞したり賣つたりするのは大事件です。今の私ならその位の事は何とも思ひませんが、其頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家は其儘にして置かなければならず、甚だ處置に苦しんだのです。
伯父は仕方なしに私の空家へ這入る事を承諾して吳れました。然し市の方にある住居も其儘にして置いて、兩方の間を往つたり來たりする便宜を與へて貰はなければ困るといひました。私に固より異議のありやう筈がありません。私は何んな條件でも東京へ出られゝば好(い)い位(くらゐ)に考へてゐたのです。
子供らしい私は、故鄕を離れても、まだ心の眼(め)で、懷かしげに故鄕(ふるさと)の家を望んでゐました。固より其處にはまだ自分の歸るべき家があるといふ旅人の心で望んでゐたのです。休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は、いくら東京を戀しがつて出て來た私にも、力强くあつたのです。私は熱心に勉强し、愉快に遊んだ後(あと)、休みには歸れると思ふその故鄕の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、伯父は何んな風に兩方の間を往來してゐたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一つ家の内に集まつてゐました。學校へ出る子供などは平生恐らく市の方にゐたのでせうが、是も休暇のために田舍へ遊び半分といつた格(かく)で引き取られてゐました。
みんな私の顏を見て喜こびました。私は又父や母の居た時より、却つて賑やかで陽氣になつた家の樣子を見て嬉しがりました。伯父はもと私の部屋になつてゐた一間(ひとま)を占領してゐる一番目の男の子を追ひ出して、私を其處へ入れました。座敷の數も少なくないのだから、私はほかの部屋で構はないと辭退したのですけれども、伯父は御前の宅(うち)だからと云つて、聞きませんでした。
私は折々亡くなつた父や母の事を思ひ出す外に、何の不愉快もなく、其一夏を伯父の家族と共に過ごして、又東京へ歸つたのです。たゞ一つ其夏の出來事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、伯父夫婦が口を揃へて、まだ高等學校へ入つたばかりの私に結婚を勸める事でした。それは前後で丁度三四回も繰り返されたでせう。私も始めはたゞ其突然なのに驚ろいた丈でした。二度目には判然(はつきり)斷りました。三度目には此方(こつち)からとう/\其理由を反問しなければならなくなりました。彼等の主意は簡單でした。早く嫁を貰つて此所の家へ歸つて來て、亡くなつた父の後を相續しろと云ふ丈なのです。家は休暇になつて歸りさへすれば、それで可(い)いものと私は考へてゐました。父の後を相續する、それには嫁が必要だから貰ふ、兩方とも理窟としては一通り聞こえます。ことに田舍の事情を知つてゐる私には、能く解ります。私も絕對にそれを嫌つてはゐなかつたのでせう。然し東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡(とほめがね)で物を見るやうに、遙か先の距離に望まれる丈でした。私は伯父の希望に承諾を與へないで、ついに又私の家を去りました。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「子供らしい私は、故鄕を離れても、まだ心の眼で、懷かしげに故鄕の家を望んでゐました。固より其處にはまだ自分の歸るべき家があるといふ旅人の心で望んでゐたのです。休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は、いくら東京を戀しがつて出て來た私にも、力强くあつたのです。私は熱心に勉强し、愉快に遊んだ後、休みには歸れると思ふその故鄕の家をよく夢に見ました」穢れを知らぬ少年の先生が見える印象的なシーンである。また、(五十七)で先生の過去の開示が始まってから、最初に独立使用される語としての「心」(こころ)が現われる部分でもある。「休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は」「力强くあつたのです」の「ならない」は、休みになったら故郷に帰らねばならないという平板な義務・責任の用法ではなく、必ず自ずから故郷へ帰るべきはずである、必ず自律的に故郷へ帰るに決まっている、という「力強」い意思表示の用法であることに注意したい。「休みには歸れると思ふ」という可能と期待の助動詞「る」を見ても明白である。故郷と先生との短い蜜月の、美しくも儚いロマンティックな描写となっている。私の好きな部分である。但し、この「子供らしい」という形容は戴けない。漱石が先生の遺書の中でのみ特異的に用いている語で、この後も複数回出現するが、これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏によれば、英語の“innocent”の直訳的な用法と思われ、『この頃の日本語表現としてはどちらかと言えば熟さない言い方』であると批評している。同感である。私も初回「こゝろ」を読んだ際、極めて奇異に感じた用語の一つである。意味としてはそれぞれの箇所で、純真無垢な、汚(けが)れなき少年のような、汚れを知らぬ、素直な、純真な、純情な、素朴な、真っ正直な、馬鹿正直な、とっちゃん坊やの、等の訳語に置き換えれば概ね文意が通じる。
♡「伯父夫婦が口を揃へて、まだ高等學校へ入つたばかりの私に結婚を勸め」「其突然なのに驚ろいた」「彼等の主意は簡單で」「早く嫁を貰つて此所の家へ歸つて來て、亡くなつた父の後を相續しろと云ふ丈」という部分を、その昔の私も含めた愚かな国語教師は、特にここで解説もせず(ひどい教師は教科書に載らないことをいいことに読みもせずに)、叔父の財産横領を隠蔽するための明々白々な策略として通り過ぎ、遂には純真な若々しい高校生たちに本作をとんでもない誤読に導いて来た。この時代に、この田舎で、且つ、相応な素封家の一人息子の遺産相続人であった先生のような若者の場合、高等学校入学前後(数え二十歳前後)に結婚を考えるのは、決して異例のことではない。いや、極、当たり前であったという事実を、現代の高校生にちゃんと認識させなくてはならぬのだ。そもそもが、そのためにこそ本書の第一章の友人のエピソードはさりげなく配されてさえあったのである! この叔父夫婦がここで結婚話を持ち出すのは、当たり前のコンコンチキチキチキバンバンイチゴ白書なんだということを伝えなくてはならぬ! 現代の小便臭いモラトリアム・ゴブリン共とは訳が違うのだ(その代り、今のような過酷な受験地獄もなかったが)。社会的人間としての成長期待と成人としての社会的要請度が格段に異なるのだということを教えなくてはならぬ。そのようなものであるということは、先生自身が直ぐ後でも言っている。「父の後を相續する、それには嫁が必要だから貰ふ、兩方とも理窟としては一通り」どころでない至極尤もなことなのである! それは先生にも心底分かりきったことであったことは、更に直後に先生が「ことに田舍の事情を知つてゐる私には、能く解ります。私も絕對にそれを嫌つてはゐなかつた」とダメ押しのように述べていることからも明白なのだ(「絶對にそれを嫌つてはゐなかつた」とは、何も生理的にそうした提案や結婚を嫌悪していた訳では毛頭ない、と言ったニュアンスであろうか)。にも拘わらず、端折った誤った国語授業が、叔父の裏切りと財産横領を厳然たる事実として読者の意識に定着させてしまったのだ。――私は実はこの、これから先生の口から語られる『叔父の裏切り』『叔父による財産横領』なる事実が本当にあったかどうか、疑わしいとかなり以前から考えてきた。――これは殆んど都市伝説の類い、先生の病的な関係妄想(但し、一見正当に思われるような理路が総てに付けられた偏執狂的関係妄想)の結果であると、今はほぼ確信していると言ってよい。これ以降の《叔父の裏切り》《叔父による財産横領》に拘わる私の摑みはそうした傾向性を強く持っているということを押えておいてお読み頂きたい。]