『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月7日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十六回
(四十六)
父の病氣は同じやうな狀態で一週間以上つゞいた。私はその間に長い手紙を九州にゐる兄宛で出した。妹へは母から出させた。私は腹の中で、恐らく是が父の健康に關して二人へ遣る最後の音信だらうと思つた。それで兩方へ愈(いよ/\)といふ場合には電報を打つから出(で)で來いといふ意味を書き込めた。
兄は忙がしい職にゐた。妹は妊娠中であつた。だから父の危險が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかつた。と云つて、折角都合して來たには來たが、間に合はなかつたと云はれるのも辛かつた。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「さう判然(はつき)りした事になると私にも分りません。然し危險は何時來るか分らないといふ事丈は承知してゐて下さい」
停車塲(ステーシヨン)のある町から迎へた醫者は私に斯う云つた。私は母と相談して、其醫者の周旋で、町の病院から看護婦を一人賴む事にした。父は枕元へ來て挨拶する白い服を着た女を見て變な顏をした。
父は死病に罹つてゐる事をとうから自覺してゐた。それでゐて、眼前にせまりつゝある死そのものには氣が付かなかつた。
「今に癒つたらもう一返東京へ遊びに行つて見やう。人間は何時死ぬか分らないからな。何でも遣りたい事は、生きてるうちに遣つて置くに限る」
母は仕方なしに「其時は私も一所に伴れて行つて頂きませう」などゝ調子を合せてゐた。
時とすると又非常に淋しがつた。
「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣つてくれ」
私は此「おれが死んだら」といふ言葉に一種の記憶を有つてゐた。東京を立つ時、先生が奧さんに向つて何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であつた。私は笑を帶びた先生の顏と、緣喜(えんぎ)でもないと耳を塞いだ奧さんの樣子とを憶ひ出した。あの時の「おれが死んだら」は單純な假定であつた。今私が聞くのは何時起(おこ)るか分らない事實であつた。私は先生に對する奧さんの態度を學ぶ事が出來なかつた。然し口の先では何とか父を紛らさなければならなかつた。
「そんな弱い事を仰しやつちや不可せんよ。今に癒つたら東京へ遊びに入らつしやる筈ぢやありませんか。御母さんと一所に。今度入らつしやると屹度(きつと)吃驚(びつくり)しますよ、變つてゐるんで。電車の新らしい線路丈でも大變增えてゐますからね。電車が通るやうになれば自然町並も變るし、その上に市區改正もあるし、東京が凝としてゐる時は、まあ二六時中一分もないと云つて可(い)い位です」
私は仕方がないから云はないで可い事迄喋舌(しやべ)つた。父はまた、滿足らしくそれを聞いてゐた。
病人があるので自然家の出入も多くなつた。近所(きんしよ)にゐる親類などは、二日に一人位(くらい)の割で代(かは)る代(がは)る見舞に來た。中には比較的遠くに居て平生(へいせい)疎遠なものもあつた。「何うかと思つたら、この樣子ぢや大丈夫だ。話も自由だし、だいち顏がちつとも瘠せてゐないぢやないか」などと云つて歸るものがあつた。私の歸つた當時はひつそりし過ぎる程靜であつた家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
その中に動かずにゐる父の病氣は、たゞ面白くない方へ移つて行くばかりであつた。私は母や伯父と相談して、とう/\兄と妹に電報を打つた。兄からはすぐ行くといふ返事が來た。妹の夫からも立つといふ報知があつた。妹は此前懷妊した時に流産(りうさん)したので、今度こそは癖にならないやうに大事を取らせる積だと、かねて云ひ越した其夫は、妹の代りに自分で出て來るかも知れなかつた。
[♡やぶちゃんの摑み:以下、注に記すところの、「私」に「云はないで可い事迄喋舌」らせた漱石の意図を考えねばならぬ。それは「云はないで可い事」なのではなく、「云はないで」はおかれない大事なこと、作品の核心に迫るための必要条件であることが分かってくる。
♡「電車の新らしい線路丈でも大變增えてゐます」「三四郎」の「二」には、野々宮が三四郎に『「僕は車掌に敎(をそ)はらないと、一人で乘換が自由に出來ない。此二三年來無暗に殖えたのでね。便利になつて却つて困る。僕の學問と同じことだ」』と言うシーンがあるが、作中時間の前年明治44(1911)年には東京鉄道会社市営化に際しても一番に未完成路線の竣工を急務とされ、内務省の市営化許諾条件には5年後の完成が含まれていた。5年後――奇しくも本連載の年、大正3(1914)年に当たる。
♡「市區改正」明治から大正にかけて東京市が行った都市改造事業。ウィキの「市区改正」より引用する。『江戸時代の都市骨格を引き継いだ維新後の東京市街は道路幅員が狭く、上下水道などインフラ整備が遅れていた。また密集した市街地では大火がしばしば起こり、都市の不燃化が課題であった。こうした状況から識者の間に都市改造の必要性が認識されていった。『「市区改正」とは、この改造事業が、「東京市区の営業、衛生、防火及び通運等永久の利便を図る」ことを目的とするところから名付けられたもので、今日の「都市計画」にあたる』。明治17(1884)年に内務省に東京市区改正審査会なるものが設置され計画案が作られたが、これは実施に至らず、事業の開始は明治21(1888)年の『内務省によって東京市区改正条例(勅令第62号)が公布され、東京市区改正委員会(元東京府知事の芳川顕正が委員長)が設置』されるのを待たねばならなかった。『翌1889年に委員会による計画案(旧設計)が公示され、事業が始まった。財政難のため事業は遅々として進まなかったが、都市化の進展から事業の早期化が必要になり、1903年(明治36年)に計画を大幅に縮小(新設計)した。日露戦争後の1906年(明治39年)には外債を募集し、日本橋の大通りなどの整備を急速に進め、1914年(大正3年)にほぼ新設計どおり完成した。主に路面電車を開通させるための道路拡幅(費用は電車会社にも負担させた)、及び上水道の整備が行われた。現在の日本橋もこの事業で架け替えられた』(下線部やぶちゃん。本連載時である)。『市区改正は都市全体を構想したもので、日本の都市計画史上の画期となる事業であったが、建築物の規制などは』行われず、『神田・日本橋・京橋付近では、従来の土蔵造の商家に交じって、木造漆喰塗の洋風建築が思い思いに建てられ、「洋風に似て非なる建築」と評された』。『その後も、日本の社会構造の変化や都市への人口集中を背景に、都市や建築の統制が必要という機運が高まり、1919年(大正8年)、市街地建築物法(建築基準法の前身)と合わせて都市計画法(旧法)が制定され、翌年施行された。これに伴い市区改正条例は廃止された。』『なお、市区改正条例は東京のほか、1918年(大正7年)に横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市(5大都市)にも準用された』。「三四郎」の「二」の冒頭、『三四郎が東京で驚いたものは澤山ある。第一電車のち/\鳴るので驚いた。それからそのちん/\鳴る間に、非常に多くの人間が乘つたり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤も驚いたのは、どこまで行つても東京がなくならないと云ふ事であった。しかも何處をどう非步いても、材木が放り出してある、石が積んである、新しい家が徃来から二三間引つ込んで居る、古い藏が半分取崩されて心細く前の方に殘つてゐる。凡ての物が破壞されつゝある樣に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつゝある樣に見える。大變な動き方である。』と描写し、そうして次のような、興味深い印象的感懐を引き出す。『三四郎は全く驚いた。要するに普通の田舍者がはじめて都の眞中に立つて驚くと同じ程度に、また同じ性質に於て大に驚いて仕舞つた。今迄の學問は此驚きを予防する上に於て、賣藥程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚きと共に四割方減却した。不愉快でたまらない。』(改行)『この劇烈な活動そのものが取りも直さず現實世界だとすると、自分が今日迄の生活は現實世界に毫も接觸していないことになる。洞(ほら)が峠(とうげ)で晝寐をしたと同然である。それでは今日限り晝寐をやめて、活動の割り前が拂へるかと云ふと、それは困難である。自分は今活動の中心に立つてゐる。けれども自分はたゞ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置き易へられたと云ふ迄で、學生としての生活は以前と變る譯はない。世界はかやうに動搖する。自分は此動搖を見てゐる。けれどもそれに加はることは出來ない。自分の世界と現實の世界は、一つ平面に並んで居りながら、どこも接觸してゐない。さうして現實の世界は、かやうに動搖して、自分を置き去りにして行つて仕舞ふ。甚だ不安である。』(改行)『三四郎は東京の眞中に立つて電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黑い着物を着た人との活動を見て、かう感じた。けれども學生生活の裏面に橫たわる思想界の活動には毫も氣がつかなかつた。――明治の思想は西洋の歷史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰り返してゐる。』この三四郎を通した漱石の語りは、「心」を理解する上で、極めて重要な示唆を含むものだと私は思うのである。――「心」に戻ろう。このように見てきた通り、正に「私」が言うように「東京が凝としてゐる時は、まあ二六時中一分もない」のである。――そしてそれは、天皇が死のうが、何が起ころうが「東京が凝としてゐる時は」「二六時中一分もない」のである。……「新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、何んなに暗いなかで何んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控へてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。」(四十一)……という叙述部分を想起するがよい。『それ』は凡て「動く」――そして「凝つと」していることなく――瞬く間に転変し、消え去ってしまうものなのである。]
*
昨日第(六十八)回分迄総て「♡やぶちゃんの摑み」を添えて自動更新システムに保存した。とり敢えず今月一杯の本ブログでの連載は心配されずとも好い。因みにKの存在への言及(「男」と表記)は7月4日の第(七十二)回、「K」に関わる本格的言説(ディスクール)の開始はその翌日、7月5日の第(七十三)回からである。今少し、お待ちあれ。
« 『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月6日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十五回 | トップページ | 『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月8日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十七回 »