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2010/06/28

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月28日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十六回

Kokoro14_2   先生の遺書

   (六十六)

 「私の氣分は國を立つ時既に厭世的になつてゐました。他(ひと)は賴りにならないものだといふ觀念が、其時骨の中迄染み込んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する伯父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乘つてさへ隣のものゝ樣子を、それとなく注意し始めました。たまに向から話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加へたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだやうに重苦しくなる事が時々ありました。それでゐて私の神經は、今云つた如くに鋭どく尖つて仕舞つたのです。

 私が東京へ來て下宿を出やうとしたのも、是が大きな源因になつてゐるやうに思はれます。金に不自由がなければこそ、一戶(こ)を構へて見る氣にもなつたのだと云へばそれ迄ですが、元の通り私ならば、たとひ懷中(ふところ)に餘裕が出來ても、好んでそんな面倒な眞似はしなかつたでせう。

 私は小石川へ引き移つてからも、當分此緊張した氣分に寬ぎを與へる事が出來ませんでした。私は自分で自分が耻づかしい程、きよと/\周圍を見廻してゐました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反對に、段々動かなくなつて來ました。私は家のものゝ樣子を猫のやうによく觀察しながら、黙つて机の前に坐つてゐました。時々は彼等に對して氣の毒だと思ふ程、私は油斷のない注意を彼等の上に注いでゐたのです。おれは物を偸(ぬす)まない巾着切(きんちやくきり)見たやうなものだ、私は斯う考へて、自分が厭になる事さへあつたのです。

 貴方は定めて變に思ふでせう。其私が其處の御孃さんを何うして好(す)く餘裕を有つてゐるか。其御孃さんの下手な活花を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手な其人の琴を何うして喜こんで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に敎へて上けるといふより外に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言(ごん)付け足して置きませう。私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから他(ひと)から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平氣で兩立してゐたのです。

 私は未亡人(びぼうじん)の事を常に奥さんと云つてゐましたから、是から未亡人と呼ばずに奥さんと云ひます。奥さんは私を靜かな人、大人しい男と評しました。それから勉强家だとも褒めて吳れました。けれども私の不安な眼つきや、きよと/\した樣子については、何事も口へ出しませんでした。氣が付かなかつたのか。遠慮してゐたのか、どつちだかよく解りませんが、何しろ其處には丸で注意を拂つてゐないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚な方だと云つて、さも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。其時正直な私も少し顏を赤らめて、向ふの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で氣が付かないから、左右御仰るんです」と眞面目に說明して吳れました。奥さんは始め私のやうな書生を宅へ置く積ではなかつたらしいのです。何處かの役所へ勤める人か何かに坐敷を貸す料簡で、近所のものに周旋を賴んでゐたらしいのです。俸給が豐でなくつて、己(やむ)を得ず素人屋に下宿する位の人だからといふ考へが、それで前かたから奥さんの頭の何處かに這入(はいつ)てゐたのでせう。奥さんは自分の胸に描いた其想像の御客と私とを比較して、こつちの方を鷹揚だと云つて褒めるのです。成程そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金錢にかけて、鷹揚だつたかも知れません。然しそれは氣性の問題ではありませんから、私の内生活に取つて殆ど關係のないのと一般(はん)でした。奥さんはまた女丈にそれを私の全體に推廣(おしひろ)げて、同じ言葉を應用しやうと力(つとめ)るのです。

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[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡「私の氣分は國を立つ時既に厭世的になつてゐました。他は賴りにならないものだといふ觀念が、其時骨の中迄染み込んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する伯父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乘つてさへ隣のものゝ樣子を、それとなく注意し始めました。たまに向から話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加へたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだやうに重苦しくなる事が時々ありました。それでゐて私の神經は、今云つた如くに鋭どく尖つて仕舞つたのです」統合失調症の初期症状に似ている。また直後に「私は自分で自分が耻づかしい程、きよと/\周圍を見廻してゐました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反對に、段々動かなくなつて來ました。私は家のものゝ樣子を猫のやうによく觀察しながら、黙つて机の前に坐つてゐました。時々は彼等に對して氣の毒だと思ふ程、私は油斷のない注意を彼等の上に注いでゐたのです。おれは物を偸まない巾着切見たやうなものだ、私は斯う考へて、自分が厭になる事さへあつたのです」とあるのは関係妄想(被害妄想や視線恐怖)や強迫神経症様症状(この遺書の記載時ではなく、当時の先生自身に一定の病識が認められるような感じがする点では統合失調症ではなく、こちらのようにも思われる)が精神医学の症例のように示される。

 

♡「私が東京へ來て下宿を出やうとしたのも、是が大きな源因になつてゐるやうに思はれます」続く遺書を読んで見て、初めて了解されることであるが、この時、先生はKと同じ部屋に一緒に下宿している(場所は不明であるが、漱石の場合は東京人であるが東京大学予備門予科に入学(明治171884)年9月)後の翌年前後に十人程の友人と神田区猿楽町(現在の千代田区猿楽町)の末富屋に下宿しているのが一つのヒントとなりそうではある。ここからなら富坂辺りにぶらりと貸し家探しに来れる近距離である)。第(七十四)回で「私が東京へ來て下宿を出やうとした」時と同時間のシーンがやや違ったアングルから描かれる。

 

私の郷里で暮らした其二ヶ月間が、私の運命にとつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽鬱と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入つて又Kに逢ひました。すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました。彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、此方から自分の詐(いつはり)を白狀してしまつたのです。(以下略)

 

この後、Kの養子縁組解消から復籍迄が、凡そ年1年弱の期間で描写される。その間、Kとの絡みの中での先生の行動は示されるものの、そのKの復籍事件間のどの時点で、先生がKと別れてここに住まいを移したかは語られない。先生の物謂いから判断するに、感触では東京へ帰ってKの変調を知った直後(1~2ヶ月以内)のようには見受けられる。一見、窮地に陥ったKへの思いやりに欠けるように見受けられる行動ではあるが、Kの独立独歩自律自戒の禁欲的精神からも、またそれをよく理解していた先生――そして先生自身も疑心暗鬼から来る激しい人間不信(厭人傾向)に陥っていた――を考えれば、互いに少し一人になって考えてみる必要もあろうと考えて不思議ではない。また、先生としても小説としても、ここでKの存在を持ち出してしまうと、却って分かり難くなるから避けたと考えてよい。Kは経済状況が急迫し、直ぐにでもアルバイトを始めなければ生活が立ち行かなくなっていたから、生活時間も悩める小金持ちの先生とは真逆となり、二人で生活することは物理的に難しくなったものと容易に判断もされるのである。

 

♡「元の通り私ならば」「元の通りの私ならば」の「の」の脱字。

 

♡「貴方は定めて變に思ふでせう。其私が其處の御孃さんを何うして好く餘裕を有つてゐるか。其御孃さんの下手な活花を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手な其人の琴を何うして喜こんで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に教へて上けるといふより外に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言付け足して置きませう。私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから他から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平氣で兩立してゐたのです」我々はアンビバレントな感情がコンプレクス(心的複合)として心に共時的に両在することを殊更に他者に説明することは不可能である。逆にそのような二律背反の共存は通常の人間一般にとって当たり前に存在し、それは決して異常で理解不能なことでは、ない、はずである。にも拘らず、先生はそれに理由付けを必要とした(それは「私」の持つ違和感を深読みし過ぎたとも言える。「私」という人間を見損なっているとも言えるように私は思う)。その理由が問題である。

 

私は『金』に対して人類を疑ぐった。最早、決して信頼することはない。

 

が、

 

私は『愛』に対しては未だ人類を疑ぐってはいなかった。

 

である。いや、直ちにこの命題は以下の発展命題の真であることを証明する。即ち、

 

私は『愛』に対しては未だ人類を疑ぐってはいなかったし、今、この遺書を書いている現在も私は『愛』に対して疑ってはいないのだ――だから愛する『人』を私は信頼している。即ち――現在の靜も、そして誰よりも君を――。

 

と先生は言っているのである。いや、この発展命題を厳密提示するなら、そこに必要条件が見えてくる。

 

『金』という概念から君たちが完全に遮断されていること、別乾坤にあることを条件として、私は現在の靜も、そして誰よりも君を『愛』する。

 

という命題である。これは厳しい言明であり、物凄い枷である。いや、それは先生自身にとってもである。先生は何事もこのような二項対立の中に自身を追い込んでしまう。そのように考えることが自他に対して分かりよいと安易に考える傾向にある。それが先生を生地獄へと導く導火線であるように私には思われるのである。

 

そして漱石と『金』に纏わる精神変調と言えば、ズバリ、ロンドン留学帰朝後4日目(1月28日か)に漱石がやらかした異常行動が直ぐに浮かぶ。火鉢にあたっていた満4歳にもならぬ長女の筆を、いきなり殴りつけたのである。コンパクトに纏められた平井富雄「神経症夏目漱石」(福武書店1990年刊)から引用する(「漱石の思い出」の引用は底本では全体が二字下げ)。

 

   《引用開始》

 

 この事件について、鏡子夫人は次のように説明している。

 「ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると一乞食が哀っぽく金をねだるので一銅貨を出して手渡してやりましたそうです。するとかえって来て便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのっているというではありませんか。小癪(こしゃく)な真似をする、常々下宿の主婦(かみ)さんは自分のあとをつけて探偵のようなことをしていると思ったら、やっぱり推定通り自分の行動を細大洩らさず見ているのだ。しかもそのお手柄を見せびらかしでもするように、これ見よがしに自分の目につくところへのっけておくとは何といういやな婆さんだ。実に怪しからん奴だと憤慨したことがあったそうですが、それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦(ばか)にした怪(け)しからん子供だと思って、一本参ったというのですから変な話です。私も妙なことをいう人だなと思いましたが、それなり切りでこの事は終ってしまいました」(『漱石の思い出』)

 これを、そのまま素直に受けとるなら、漱石は「被害的追跡妄想」に襲われていた、ということになる。しかし、愛する子供が火鉢にあたり、そこに銅貨一枚があったとしても、ここは日本の自分の家庭だという現実認識が働いたなら、娘を唐突に「一本参らせる」ことはまずあるまい。

 したがって、漱石はロンドンの異常体験を、東京へも持ちこんでしまい、両者の区別が現実に出来ていなかったほど頭が混乱していた、と取るのがまず妥当と言うべきであろう。あとは、陰うつ、悔恨、自罪感、空白感、不機嫌などの抑うつ的気分が、つい抑え切れなかったあげくの病癖と解して良いのではあるまいか。乞食や銅貨について云々のところは、後に漱石が自らの奇行を弁明するために鏡子夫人に語った事のように思われてならない。それほど、帰朝直後、漱石はロンドン生活における悪い体験を、漠然とでもなおかかえ続けていたのであろう。そうして、それほど、当時の漱石の気分は、抑うつが深く、かつ罪責感情の拡がっていたことを、この事件からぼくら知るのである。

 

   《引用終了》

 

なお、平井氏はロンドン時代の漱石を神経衰弱から進行した鬱病であったのではないかと推定されておられる。

 

♡「鷹揚」鷹が高い空を悠然と飛ぶ様から、小さなことに拘らず、ゆったりとしている様。おっとりとして上品な様。挙止動作が落ち着いていて、寛大な心の持主である様を言う。大らか。

 

♡「這入(はいつ)てゐた」の「つ」のルビは底本では上を左にして転倒している。

 

♡「奥さんはまた女丈にそれを私の全體に推廣げて、同じ言葉を應用しやうと力るのです」……先生、あなたは女を見縊り過ぎてゐますよ……特に奥さんを……奥さんはそんな単純じゃありません……そのようにお目出度く単細胞に振舞っているだけですよ……。]

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