『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月19日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十八回
(五十八)
「兎に角たつた一人取り殘された私は、母の云ひ付け通り、此伯父を賴るより外に途はなかつたのです。伯父は又一切を引き受けて凡ての世話をして吳れました。さうして私を私の希望する東京へ出られるやうに取り計つて吳れました。
私は東京へ來て高等學校へ這入りました。其時の高等學校の生徒は今よりも餘程殺伐で粗野でした。私の知つたものに、夜中(よる)職人と喧嘩をして、相手の頭へ下駄で傷を負はせたのがありました。それが酒を飮んだ揚句の事なので、夢中に擲(なぐ)り合(あひ)をしてゐる間に、學校の制帽をとう/\向ふのものに取られてしまつたのです。所が其帽子の裏には當人の名前がちやんと、菱形の白いきれの上に書いてあつたのです。それで事が面倒になつて、其男はもう少しで警察から學校へ照會される所でした。然し友達が色々と骨を折つて、ついに表沙汰(おもてさた)にせずに濟むやうにして遣りました。斯んな亂暴な行爲を、上品な今の空氣のなかに育つたあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿しい感じを起すでせう。私も實際馬鹿々々しく思ひます。然し彼等は今の學生にない一種質朴な點をその代りに有つてゐたのです。其頃私の月々伯父から貰つてゐた金は、あなたが今、御父さんから送つてもらふ學資に比べると遙に少ないものでした。(無論物價も違ひませうが)。それでゐて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず數ある同級生のうちで、經濟の點にかけては、決して人を羨ましがる憐れな境遇にゐた譯ではないのです。今から回顧すると、寧ろ人に羨ましがられる方だつたのでせう。と云ふのは、私は月々極つた送金の外に、書籍費、(私は其時分から書物を買ふ事が好(すき)でした)、及び臨時の費用を、よく伯父から請求して、ずん/\それを自分の思ふ樣に消費する事が出來たのですから。
何も知らない私は、伯父を信じてゐた許りでなく、常に感謝の心をもつて、伯父をありがたいものゝやうに尊敬してゐました。伯父は事業家でした。縣會議員にもなりました。其關係からでもありませう、政黨にも緣故があつたやうに記憶してゐます。父の實の弟ですけれども、さういふ點で、性格からいふと父とは丸で違つた方へ向いて發達した樣にも見えます。父は先祖から讓られた遺產を大事に守つて行く篤實一方の男でした。樂みには、茶だの花だのを遣りました。それから詩集などを讀む事も好きでした。書畫骨董といつた風のものにも、多くの趣味を有つてゐる樣子でした。家は田舍にありましたけれども、二里ばかり隔つた市(し)、―其市には伯父が住んでゐたのです、―其市から時々道具屋が懸物だの、香爐だのを持つて、わざ/\父に見せに來ました。父は一口にいふと、まあマンオフミーンズとでも評したら好(い)いのでせう、比較的上品な嗜好を有つた田舍紳士だつたのです。だから氣性からいふと、濶達な伯父とは餘程の懸隔がありました。それでゐて二人は又妙に仲が好(よ)かつたのです。父はよく伯父を評して、自分よりも遙に働きのある賴もしい人のやうに云つてゐました。自分のやうに、親から財產を讓られたものは、何うしても固有の材幹(ざいかん)が鈍る、つまり世の中と鬪(たしめ)ふ必要がないから不可(いけな)いのだとも云つてゐました。此言葉は母も聞きました。私も聞きました。父は寧ろ私の心得になる積で、それを云つたらしく思はれます。「御前もよく覺えてゐるが好(い)い」と父は其時わざ/\私の顏を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにゐます。此位(くらゐ)私の父から信用されたり、褒められたりしてゐた伯父を、私が何うして疑がふ事が出來るでせう。私にはたゞでさへ誇(ほこり)になるべき伯父でした。父や母が亡くなつて、萬事其人の世話にならなければならない私には、もう單なる誇りではなかつたのです。私の存在に必要な人間になつてゐたのです。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「高等學校」固有名詞としての本郷区向ヶ岡弥生町(現在の文京区弥生一丁目の東大農学部付近)にあった「第一高等學校」を指す。東京帝國大學(明治10(1877)年4月12日に東京開成学校と東京医学校が合併して「東京大學」が創立され、明治19(1886)年3月の帝国大学令により「帝國大學」と改称、明治30(1897)年年6月の京都帝国大学の設置に伴って「東京帝國大學」と改称後、昭和22(1947)年9月に再び「東京大学」に戻された)に入学するための予備門に相当する。先生の頃は、一部を除いて成績が劣悪でない限りは無試験で第一高等學校から東京帝國大學に入学することも可能であった。「私」も同じ学制であるから(但し、彼の頃は第一高等學校成績優秀者のみが無試験であったものと思われる)、ここで確認しておくと、現在の小学校と同様の就学年齢(数え7歳以下同様、)により義務教育尋常小学校6年制の後、中等学校に13歳で入学(5年制)を経、18~19歳で高等学校(3年制)入学、順調に進学したなら、大学(この頃は3年制。4年は医学部のみ)入学は21~22歳。卒業時で24~25歳(満で23~24歳)となる。実際には明治後期の東京帝國大學卒業生の平均年齢は27歳前後であったらしい。
♡「二里ばかり隔つた市」先生の実家と叔父の家のある市の距離であるが、7.8㎞は相応に離れている。未だ人力車の時代であることに注意。なお、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は次章に示される「二里も隔たつた私の家」に注して『二里=約四キロメートル』とされているのだが、これ、一里と勘違いされたのであろう。そんなに近いものを(私は4㎞は近いと思う)田舎住まいの叔父なら係助詞の「も」さえ使わないであろう。
♡「詩集」新体詩なんどを想起してはいけない。漢詩集である。
♡「マンオフミーンズ」“a man of means”で、“means”は常に複数形で資産・財産の意味となるから、ここは資産家・素封家・財産家の謂い。既に(二十七)の郊外の植木屋のシーンで、「私」の家の財産の話に先生が問いかけ、それに対して「私」が、
「先生は何うなんです。何の位の財産を有つてゐらつしやるんですか」
と尋ねたシーンで先生の口から直接「財産家」の語が語られている。そこで先生は「私」に、
「私は財産家と見えますか」
と訊ね、「私」が、
「左右でせう」
と答えると、
「そりや其位の金はあるさ。けれども決して財産家ぢやありせん。財産家ならもつと大きな家でも造るさ」
と小金持ちであることは認め、しかし今は「財産家」ではないと言う。この直後、先生は例の謎の円をステッキで描き、それを(恐らく真ん中に)突き立てて、
「是でも元は財産家なんだがなあ」
と半ば独り言のように言った上、更に科白として再度、
「是でも元は財産家なんですよ、君」
と、わざわざ確認するように言い直してから「私の顏を見て微笑」するのである。この「財産家」というこ、の二人の会話から最も遠く感じられる単語の連発シーンをこうしてここに並べてみると、ある点に気付く。先生は自身を元財産家であると明言しているのである。これは叔父に卑劣にも奪われたが私は元財産家だった、という『だけ』の即物的な意味であろうか? 普通は、そう、とるであろう。しかし、ここに私は実の父と自分を重ね合わせている先生を見るのである。先生の実父はここ以外では具体的に描かれないが、少なくとも「私」が父に感じているような、決定的懸隔を感じているようには思われない。寧ろ、上品な趣味人、田舎紳士として「先祖から讓られた遺産を大事に守つて行く篤實一方の」父像に先生はとても共感しているのだと言ってよい。そして、続く『「御前もよく覺えてゐるが好い」と父は其時わざ/\私の顏を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにゐます』という部分を見るまでもなく、その父を見つめる少年の先生の眼差しは素直な尊敬と愛に満ちている。植木屋でのシーンでも先生は、実は無意識にこの父と自分を殆んどぴったりダブらせているように思われ、そこでの物謂いも、ここからフィード・バックすると、そのような先生の中にある無意識的な内実(潜在的古典的「家」意識)を伝えるているように思われるのである。また、こうした溝のない父子関係は、本作中では希有であり、それが先生の考える理想的な男=強権を発動しない誠実な父権者として先生に実は深く意識されていた――先生の中の至福の父存在であった――と考えてよいのではなかろうか。
♡「濶達」闊達、豁達とも書く。心が大きく、小さな物事に拘らない性格で、度量の大きい人物を評する語。
♡「材幹」才幹。物事を成し遂げるための知恵や能力。手腕。
♡「鬪(たしめ)ふ」「鬪(たゝか)ふ」又は「鬪(たたか)ふ」のルビ誤植。]
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