『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月29日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十七回
(六十七)
「奥さんの此態度が自然私の氣分に影響して來ました。しばらくするうちに、私の眼(め)はもと程きよろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐つてゐる所に、ちやんと落付いてゐるやうな氣にもなれました。要するに奥さん始め家のものが、僻(ひが)んだ私の眼や疑ひ深い私の樣子に、てんから取り合はなかつたのが、私に大きな幸福を與へたのでせう。私の神經は相手から照り返して來る反射のないために段々靜まりました。
奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風に取り扱つて吳れたものとも思はれますし、又自分で公言する如く、實際私を鷹揚だと觀察してゐたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかつたやうにも考へられますから、或は奥さんの方で胡魔化されてゐたのかも解りません。
私の心が靜まると共に、私は段々家族のものと接近して來ました。奥さんとも御孃さんとも笑談(ぜうだん)を云ふやうになりました。茶を入れたからと云つて向ふの室へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買つて來て、二人(ふたにん)を此方へ招いたりする晩もありました。私は急に交際の區域が殖えたやうに感じました。それがために大切な勉强の時間を潰される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向邪魔にならなかつたのです。奥さんはもとより閑人(ひまじん)でした。御孃さんは學校へ行く上に、花だの琴だのを習つてゐるんだから、定めて忙がしからうと思ふと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に餘裕を有つてゐるやうに見えました。それで三人は顏さへ見ると一所に集まつて、世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに來るのは、大抵御孃さんでした。御孃さんは緣側を直角に曲つて、私の室の前に立つ事もありますし、茶の間を拔けて、次の室(へや)の襖の影から姿を見せる事もありました。御孃さんは、其處へ來て一寸留まります。それから屹度私の名を呼んで、「御勉强?」と聞きます。私は大抵六づかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めてゐましたから、傍(はた)で見たらさぞ勉强家のやうに見えたのでせう。然し實際を云ふと、夫程熱心に書物を研究してはゐなかつたのです。頁(ページ)の上に眼は着けてゐながら、御孃さんの呼びに來るのを待つてゐる位(くらゐ)なものでした。待つてゐて來ないと、仕方がないから私の方で立ち上るのです。さうして向ふの室の前へ行つて、此方から「御(ご)勉强ですか」と聞くのです。
御孃さんの部屋は茶の間と續いた六疊でした。奥さんはその茶の間にゐる事もあるし、又御孃さんの部屋にゐる事もありました。つまり此二つの部屋は仕切があつても、ないと同じ事で、親子二人が往つたり來たりして、どつち付かずに占領してゐたのです。私が外から聲を掛けると、「御這人(おはいん)なさい」と答へるのは屹度(きつと)奥さんでした。御孃さんは其處にゐても滅多に返事をした事がありませんでした。
時たま御孃さん一人で、用があつて私の室へ這入つた序(ついで)に、其處に坐つて話し込むやうな場合も其内に出て來ました。さういふ時には、私の心が妙に不安に冒されて來るのです。さうして若い女とたゞ差向ひで坐つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るやうな不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却つて平氣でした。これが琴を浚(さら)ふのに聲さへ碌(ろく)に出せなかつたあの女かしらと疑はれる位、耻づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供(ことも)ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明かでした。
[♡やぶちゃんの摑み:今回の「摑み」には先生の遺書のフェイク私の私小説「御孃さんと私」を入れ込んである。お楽しみあれ。
♡「奥さんは心得のある人」やや分かり難い表現であるが、亡き軍人であった夫の細君として万事に気の利いた内助の功を発揮しててきたと思われるといった生活史から類推されるところの、気配りのある、気の利いた、万事呑み込みが早いタイプの女性であった、という意味であろう。
♡「わざと私をそんな風に取り扱つて吳れたものとも思はれますし、又自分で公言する如く、實際私を鷹揚だと觀察してゐたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかつたやうにも考へられますから、或は奥さんの方で胡魔化されてゐたのかも解りません」……いいえ、先生、絕對に前者なのですよ。奥さんは何もかも分かつてゐる呑み込みの早い「心得のある人」なのです……先(せん)から言つてゐるでせう、あなたは女を見縊り過ぎです……。
♡「時たま御孃さん一人で、用があつて私の室へ這入つた序に、其處に坐つて話し込むやうな場合も其内に出て來ました」この部分、現在の高校生ではややピンとは来ないのではないか、という気もするので一言付け加えておきたい。この私が若き日に「こゝろ」を読んだ時、著作当時の社会道徳・男女観からして、既にしてこの『異常な』行動をする靜や、それを黙認している母である奥さんは、先生を最早、はっきりとした靜の結婚相手として暗に公認していると受け取った(それほどに若き日の私は保守的な男女観を持っていた、という訳では決してないのでご注意あれ)。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏もここに注し、この靜の行為は当時の読者から見て『いささか常軌を逸したものであったと言えるかもしれない』とし、最後に興味深い引用をお示しになられている。『ちなみに間借りした家の娘とのちに結ばれた岩波茂雄の場合も、その娘は「掃除以外にには岩波の部屋にはひつたことはなかつた」(安倍能成『岩波茂雄伝』岩波書店。昭和32)という。ついでに言えば、このことへの安倍のことさらな言及は『心』の先生・Kとお嬢さんの場合を視野に入れてのことであった可能性もある。』(下線やぶちゃん)。先生と靜の結婚を私は明治34(1901)年と推定しているが、岩波茂雄の結婚は明治39(1906)年のことである。
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御孃さんと私 やぶちやん (copyright 2010 Yabtyan)
……私(わたくし)は大學時分、中目黑の素人屋に下宿してゐました。私の部屋の隣には年老いた大屋夫婦の三十に近い未婚のOLの御孃さんの部屋がありました。この御孃さんとは凡そ三年程の間一緒の屋根の下に暮らしたのですが、御孃さんと言葉を交はしたのは數へる程しかありませんでした。
最終學年の十一月の上旬の事、唯一度だけ彼女の部屋の戸を叩いた事が有りました。
私の大學の卒業論文は和綴で是が非でも題箋は筆で記さねばなりませんでした。私の卒論は「咳をしても一人」で知られる『層雲』の俳人を扱つた「尾崎放哉論」でしたが、彼の名前は之何れの字をとつても如何にも配置の難しい字に思はれました。御孃さんが書道を趣味にしてをられることは何時休日になると漂つて來る墨の匂故に入つた先(せん)から知れてゐましたから、其題箋を思ひ切つて彼女に賴んでみることにしました。まともに御孃さんの顏を拜したのも其時が初めてでした。
突然の下宿人の懇請ではありましたが、御孃さんは當初二つ返事で快く請けがつて吳れました。
ところが一週日が過ぎた頃、突然彼女が私の部屋の硝子戶の扉を矢張り初めて叩いたのでした(私の部屋は彼女と姉との昔の子供部屋だつたのです。戶は全面が半透明の硝子障子の引戶で、私は何時もその向かうに夜遲く仕事から歸つて來た彼女のシルエツト許りを目にして過して來たのでした)。
狹い廊下のことですから殆ど彼女の化粧の香が鼻を擽る程數糎(センチ)の距離を置いて顏を見合はせることとなりました。彼女は、
「お書きするのは容易(たやす)いのですけれど、書道を少し齧つて來た私には矢張り貴方の卒業論文の表紙ですもの、御自身でお書きになる方が絕對好(い)いと思ふんです。」
と言ふのです。卒論は既に書き上げて餘裕で芥川龍之介全集の全卷通讀なんどに現をぬかしてゐた當時の私には晴天の霹靂でした。
「私、實は筆が大の苦手なもんですから」
と聊かはにかんで答へたのですが、
「失禮ですけれど下手でも御自身でお書きになるのが好いと思ふんです。私が書いたら、將來屹度失望なさると思ふんです」
御孃さんは「將來屹度失望なさる」といふところに妙に力を込めて言ふのでした。私はそれでもなほ、
「決して失望しませんから」
と決まりの惡い笑みを浮かべ乍らも實際本氣でさう思ひつつ食ひ下がつては見ました。が、
「いゝえ。屹度、失望なさいます」
と何故か少し焦点を外した目をし乍ら、請けがつて吳れませんでした。
私は甚だ殘念に思ひつつ、禮を言ふと自室の戶を閉めやうとしました。
すると其時、彼女が私の部屋のベツドを指さして、
「その、二段ベツド、狹いでしやう。小學生の頃、姉が下私は上に寢てゐたのよ」
と笑ひ乍ら訊きました(この子供部屋の姉妹の爲の二段ベツドは据付だつたのです)。
「えゝ、頭が突つかえるので此の三年の間ずつと斜めになつて寢てました」
と私は剽輕に答へた。お孃さんは大袈裟に體を震はせて如何にも可笑しくてならないといふ感じで笑ひました。それは私には少女のやうな可愛らしい笑ひに見えました。
實は私は其時初めて彼女が斯くも綺麗な方だつたのだと今更乍ら氣づいたのでした。さうして内心何うして結婚されないのだらうなんどと訝しんだのさへ覺えてゐます。
数カ月の後(のち)、私は首尾良く卒業し、神奈川縣の公立高校に赴任することとなつて其下宿を引き拂つたのでしたが、その間際、何時ものやうに夜遅くに歸つて來た御孃さんに廊下でばつたり出食はして別れの挨拶をせねばならぬ羽目に陷りました。
「御卒業お目出たう」
と彼女が言ひました。何か二言三言儀禮上の言葉を交はしたとは思ひますがすつかり忘れてしまひました。只最後に、私はもう此の御孃さんとも二度と會ふこともなからうと思ふと少し許り大膽な氣持になつてゐましたから、
「あの‥‥何故御結婚なさらないんですか。‥‥お美しいのに‥‥」
と如何にも失禮な問を御孃さんにかけて仕舞ひました。その頃の私は傍(はた)から見れば富山の田舍から出て來た垢抜けない書生位(くらゐ)にしか思はれてゐなかつたものと思ひます。御孃さんも例外ではありませんでしたらう(私の生まれは實は鎌倉で小學校を卒業するまでは其處に居たのですが、其のやうな話を大屋夫婦に話したのは卒業も間近になつてのことでしたから)。だから逆に御孃さんも質朴なる愚か者の問と受け流して氣障な嫌味とは取らずにゐて吳れたものか(勿論私の述懷は眞正直なものでしたが)、惡戯つぽく微笑んだ後(のち)、
「‥‥お世辭でも嬉しいわ。私はね、一寸體が丈夫ではないの。老いた父や母の面倒も私が見なくてはならないし。‥‥私ね、諦めてゐるの。‥‥でもね、結婚ばかりが人生ではないわよ」
と判然(はつきり)言ふと「お休みなさい」と笑顏の儘御孃さんは颯爽と自分の部屋の方に消えて行つたのでした。
――もう三十年以上前のことになりますが、私は今も時々あの御孃さんの最後の笑顏を思ひ浮かべるのです。すると何故か少し後ろめたいやうな不思議に哀しく懷しい心持が私の心を過(よ)ぎるのを常としてゐるのです。 (二〇一〇・六・六)
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♡「御這人(おはいん)なさい」勿論、「入」の誤植。
♡「さういふ時には、私の心が妙に不安に冒されて來るのです。さうして若い女とたゞ差向ひで坐つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るやうな不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却つて平氣でした。これが琴を浚ふのに聲さへ碌に出せなかつたあの女かしらと疑はれる位、耻づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明かでした」青年期に読んだ際、一読、忘れ難いシーンだ……無意識か意識してのことの媚態か……読者である私が判断に苦しみ、そして、手にアセが滲み……心の臟が高鳴ってくるシーン……御嬢さんの体から“Femme fatale”ファム・ファータルの匂いが漂ってくるのだ……。]
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