『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月3日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十二回
(四十二)
八月の半ごろになつて、私はある朋友から手紙を受け取つた。その中に地方の中學敎員の口があるが行(ゆ)かないかと書(かい)てあつた。此朋友は經濟の必要上、自分でそんな位地を探し廻る男であつた。此口も始めは自分の所へかゝつて來たのだが、もつと好(い)い地方へ相談(さうたん)が出來たので、餘つた方を私に讓る氣で、わざ/\知らせて來て吳れたのであつた。私はすぐ返事を出して斷つた。知り合ひの中には、隨分骨を折つて、教師の職にありつきたがつてゐるものがあるから、其方へ廻して遣つたら好からうと書いた。
私は返事を出した後で、父と母に其話をした。二人とも私の斷つた事に異存はないやうであつた。
「そんな所へ行かないでも、まだ好(い)い口があるだらう」
斯ういつて吳れる裏に、私は二人が私に對して有つてゐる過分な希望を讀んだ。迂濶な父や母は、不相當な地位と收入とを卒業したての私から期待して居るらしかつたのである。
「相當の口つて、近頃ぢやそんな旨い口は中々あるものぢやありません。ことに兄さんと私とは專問も違ふし、時代も違ふんだから、二人を同じやうに考へられちや少し困ります」
「然し卒業した以上は、少くとも獨立して遣つて行つて吳れなくつちや此方も困る。人からあなたの所の御二男は、大學(たいがく)を卒業なすつて何をして御出ですかと聞かれた時に返事が出來ない樣ぢや、おれも肩身が狹いから」
父は澁面(おふめん)をつくつた。父の考へは古く住み慣れた鄕里(きやうり)から外へ出る事を知らなかつた。其鄕里の誰彼(たれかれ)から、大學を卒業すればいくら位(ぐらゐ)月給が取れるものだらうと聞かれたり、まあ百圓位なものだらうかと云はれたりした父は、斯ういふ人々に對して、外聞の惡くないやうに、卒業したての私を片付けたかつたのである。廣い都を根據地として考へてゐる私は、父や母から見ると、丸で足を空に向けて步く奇體な人間に異ならなかつた。私の方でも、實際さういふ人間のやうな氣持を折々起した。私はあからさまに自分の考へを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚だしい父と母の前に默然(もくねん)としてゐた。
「御前のよく先生々々といふ方にでも御願したら好(い)いぢやないか。斯んな時こそ」
母は斯うより外に先生を解釋する事が出來なかつた。其先生は私に國へ歸つたら父の生きてゐるうちに早く財產を分けて貰へと勸める人であつた。卒業したから、地位の周旋をして遣らうといふ人ではなかつた。
「其先生は何をしてゐるのかい」と父が聞いた。
「何もして居ないんです」と私が答へた。
私はとくの昔から先生の何もしてゐないといふ事を父にも母にも告げた積でゐた。さうして父はたしかに夫(それ)を記憶してゐる筈であつた。
「何もしてゐないと云ふのは、また何ういふ譯かね。御前がそれ程尊敬する位(くらゐ)な人なら何か遣つてゐさうなものだがね」
父は斯ういつて、私を諷(ふう)した。父の考へでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相當の地位を得て働いてゐる。必竟やくざだから遊んでゐるのだと結論してゐるらしかつた。
「おれの樣な人間だつて、月給こそ貰つちやゐないが、是でも遊んでばかりゐるんぢやない」
父はかうも云つた。私は夫でもまだ默つてゐた。
「御前のいふ樣な偉い方なら、屹度何か口を探して下さるよ。賴んで御覽なのかい」
と母が聞いた。
「いゝえ」と私は答へた。
「ぢや仕方がないぢやないか。何故賴まないんだい。手紙でも好(い)いから御出しな」
「えゝ」
私は生返事をして席を立つた。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「兄さんと私とは專問も違ふ」「問」は「門」の誤植。「私」の専門が不明なため、この謂いも同定に苦しむところであるが、「私」を文科と考えてよいことから、「專問も違ふ」を広義にとれば、一つは兄は理科、それも医学・薬学系や生物・化学系ではない(父の病気について知識が全くなく、症状の観察もいい加減で、所謂、その方面の客観的認識眼はまるでない)、理学・工学・土木・建築系が考え得る。そう考えても、後述される「學校へ這入てからの專門の相違も、全く性格の相違から出てゐた。大學にゐる時分の私は、殊に先生に接觸した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思つてゐた」(五十)という兄の人間像はそれほどおかしいとは思われない。気をつけるべきは「動物的」という語で、これは「殊に先生に接觸した私」との対比構造の中で、極めて「私」の個人的な特殊な謂いとして用いられているという点である。この「動物的」とは「情愛」や「デリカシー」を欠いた傾向の強い、極めて冷徹に現実的実利的――弱肉強食的と附して故に「動物的」としてもよい――人生を生きるさまを言っているものと思われる。そうした観点で、理系を選択肢から外すのであれば、文化でも法科出身の、現在、九州地方の役所に勤務する役人である可能性が浮上してくる。若草書房2000年刊「漱石文学全注釈 12 心」では藤井淑禎氏もそのような可能性を示唆しておられる(同書p177「中」十四の注)。しかし、(五十)では 「一體家の財産は何うなつてるんだらう」という「私」の言葉に、「おれは知らない。御父さんはまだ何とも云はないから。然し財産つて云つた所で金としては高の知れたものだらう」とそっけなく答えている辺りは、いくら民法上で長男優遇措置がとられていたからとしても、法科出身者の物謂いにしては、かなりいい加減な感じがする。しかし、それは法科卒業は役人へのステップ程度にドライに考えていた、故に法制度への興味関心は実は余りないという、正に出世志向の「動物的」人物ででもある故、ととるならば不自然ではあるまい。
♡「澁面(おふめん)」のルビは「じふめん」の誤植。
♡「まあ百圓位なものだらうか」底本注では、まず「値段の明治大正昭和風俗史」から以下の初任給(諸手当を含まない基本給)が示されている。
○明治44(1911)年時の公務員(高等文官試験に合格した高等官)
55円
○大正元(1912)年時の巡査
15円
○大正7(1918)年時の小学校教員
12~20円
続いて、以下の個人の初任給が編者によって示されている。
○夏目漱石 明治28(1895)年愛媛県尋常中学校英語教諭赴任時の初任給
80円
○森田草平 明治40(1907)年中学校教諭就任時の初任給
20円
○芥川龍之介 大正5(1916)年海軍機関学校英語教官就任時の初任給
60円
岩波版新全集の重松氏の注には、
○多々良三平 「我輩は猫である」に登場する法学士で「六つ井物産」社員の初任給
30円
○「坊つちやん」の主人公の初任給
40円
とある。漱石の80円は破格の特異点であり、通常の教師の初任給は20~55円程度であった。「百圓」とは如何にも田舎者の非現実的な謂いであることが分かる。
♡「諷した」仄めかした。遠回しに言う。当てこすった。
♡「やくざ」三枚歌留多(1から10までの札40枚からなり、順にめくって手札との3枚の合計の末尾の数字が9に最も近い者を勝ちとする賭博用歌留多)という賭博の手で八(や)と九(く)三(さ)の3枚の組み合わせが最悪の手であったことを語源とし、役に立たないこと、価値のないことの意となり、語源との絡みもあって博打打ちや暴力団員といった、正業に就かず、法に背いて暮らすような連中の総称となった。ここでは両義的で「正業に就かず役に立たないこと」の意で用いている。
♡『「御前のいふ樣な偉い方なら、屹度何か口を探して下さるよ。賴んで御覽なのかい」/と母が聞いた。』この改行は特異である。後に引用の格助詞「と」を伴う会話文では本作では漱石は会話文に続けたままとして、改行をしないのが通例。実際単行本「こゝろ」ではここはそのように『「御前のいふ樣な偉い方なら、屹度何か口を探して下さるよ。賴んで御覽なのかい」と母が聞いた。』と繋がっている。
♡「おれの樣な人間だつて、月給こそ貰つちやゐないが、是でも遊んでばかりゐるんぢやない」実家の雰囲気から見て小作人に農地を貸しており、その山林・農地管理や小作料徴収、更にその小作人への貸付による利子徴収等を指して言っているものと思われる。]
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