『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回
(九十八)
「Kの果斷に富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の塲合をしつかり攫(つら)まへた積で得意だつたのです。所が「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだん/\色を失なつて、仕舞にはぐら/\搖(うご)き始めるやうになりました。私は此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊惱(あうなう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼(めつかち)でした。私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが卽ち彼の覺悟だらうと一圖に思ひ込んでしまつたのです。
私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は默つて機會を覘(ねら)つてゐました。しかし二日經つても三日經つても、私はそれを捕(つら)まへる事が出來ません。私はKのゐない時、又御孃さんの留守な折を待つて、奥さんに談判を開かうと考へたのです。然し片方がゐなければ、片方が邪魔をするといつた風の日ばかり續いて、何うしても「今だ」と思ふ好都合が出て來て吳れないのです。私はいら/\しました。
一週間の後(のち)私はとう/\堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。奥さんからも御孃さんからも、K自身からも、起きろといふ催促を受けた私は、生返事をした丈で、十時頃迄蒲團を被つて寐てゐました。私はKも御孃さんもゐなくなつて、家の内がひつそり靜まつた頃を見計つて寢床を出ました。私の顏を見た奥さんは、すぐ何處が惡いかと尋ねました。食物(たべもの)は枕元へ運んでやるから、もつと寐てゐたら可からうと忠告しても吳れました。身體(からだ)に異狀のない私は、とても寐る氣にはなれません。顏を洗つて何時もの通り茶の間で飯を食ひました。其時奥さんは長火鉢の向側から給仕をして吳れたのです。私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持つた儘、何んな風に問題を切り出したものだらうかと、そればかり屈託してゐたから、外觀からは實際氣分の好くない病人らしく見えただらうと思ひます。
私は飯を終つて煙草を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍を離れる譯に行きません。下女を呼んで膳を下げさせた上、鐵瓶に水を注(さ)したり、火鉢の緣を拭いたりして、私に調子を合はせてゐます。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問ひました。奥さんはいゝえと答へましたが、今度は向ふで何故ですと聞き返して來ました。私は實は少し話したい事があるのだと云ひました。奥さんは何ですかと云つて、私の顏を見ました。奥さんの調子は丸で私の氣分に這入り込めないやうな輕いものでしたから、私の次に出すべき文句も少し澁りました。
私は仕方なしに言葉の上で、好(い)い加減にうろつき廻つた末、Kが近頃何か云ひはしなかつたかと奥さんに聞いて見ました。奥さんは思ひも寄らないといふ風をして、「何を?」とまた反問して來ました。さうして私の答へる前に、「貴方には何か仰やつたんですか」と却て向で聞くのです。
[♡やぶちゃんの摑み:先生の致命的誤読と言うクライマックスの主旋律――先生の抜け駆け(と思っているのは先生だけなのだが)のプロポーズの決意と実行行為への着手に入る。なお、今日は明治天皇の祥月命日に当たる。
○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)
長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。
奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。
下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]
奥さん「□□や。膳をお下げして。」
奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。
先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。
火種を差し出す奥さん。
火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。
妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。
先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」
奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」
かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。
奥さん「(同じく)何故です?」
先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」
奥さん「(同じく)何ですか?」
奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。 先生、軽い咳払いをし、暫く、間。
先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」
奥さん「ええ、そうですね。」
先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」
奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」
先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」
奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」
先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]
奥さん、思いも寄らないという表情で。
奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」
♡「懊惱(あうなう)」底本ではルビ「あ」は右を上にして転倒している。
♡「一般を心得た上で、例外の場合をしつかり攫まえたつもり」分かりきったことであるが、高校国語教師としては板書で示しておきたい部分である。
・「一般」=Kが「果斷に富んだ性格」であり、何事も自律的に鮮やかに事を運ぶことを常としているということ
・「例外」=この御嬢さんへの恋情とその実行行為といったことに関しては、その「果斷に富んだ性格」は発揮され得ない
というこれまでの先生の観察と分析を指す。ところが先生はここでその分析結果に疑義を感じ出す。即ち、
↓
『「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうち』~例の先生の『ぐるぐる』の心の円運動
↓「私の得意はだん/\」変容を始め
「仕舞にはぐら/\搖き始め」
↓遂には誤読し
「此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ」至る
↓疑惑
「凡ての」疑惑・煩悶・懊惱といった五月蠅「を一度に」殺戮し尽くす「最後の手段を」「彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうか」
↓「さうした新らしい」誤った黒い「光で覺悟の
↓ 二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろ」く
「私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋し」、「果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが即ち彼の覺悟だらうと一圖に思ひ込んでしまつた」
♡「其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼でした」この部分の叙述は遺書を書いている現在の先生が登場し、自身の致命的誤読を明示している点で興味深い。これは一種の鈍感な読者への見え見えの伏線サービスのつもりのようにも見える如何にもな挿入である。即ち、Kの言った「覺悟」という言葉を遂に読み違えてしまう先生を、
読み違えて《Kは道を捨ててお嬢さんとの恋に走るという意味だ》と一途に思い込んでしまったのであるという事実誤認の認定を事前に言質として読者に求めてしまっている
のである。但し、これは先生の遺書執筆時の現在時制からの『遅れてきた弁明』である。遅れてきている以上、それは完膚なきまでに無化されており、やはり弁解にならない弁解、全く機能しないものと指弾されるべきものである。さとすれば寧ろこれは、この遺書を読む愛する「私」に対して特別に向けられた、血塗られた先生自身の、縋りつかんとするような自己正当化、赦しの懇請のように思われるのである。試みにこのややお為ごかしな挿入を排除したこの部分を読んでみると、その印象に大きな変化が生ずることからも分かる。
《復元開始》
「Kの果斷に富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の塲合をしつかり攫(つら)まへた積で得意だつたのです。所が「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだんだん色を失なつて、仕舞にはぐらぐら搖(うご)き始めるやうになりました。私は此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊惱(あうなう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。私はたゞ一途にKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが卽ち彼の覺悟だと思ひ至つたのです。[やぶちゃん注:せいぜい私なら「と思ひ至つてしまつたのです。」とする程度の伏線は張るかもしれない。しかし、それも私の感覚からは鈍感な読者への厭味であることにかわりはない。]
そこで私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は默つて機會を覘つてゐました。しかし二日經つても三日經つても、私はそれを捕まへる事が出來ません。私はKのゐない時、又御孃さんの留守な折を待つて、奥さんに談判を開かうと考へたのです。然し片方がゐなければ、片方が邪魔をするといつた風の日ばかり續いて、何うしても「今だ」と思ふ好都合が出て來て吳れないのです。私はいらいらしました。
一週間の後私はたうとう堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。……(以下略)
《復元終了》
どうであろう。私にはこちらの方が、先生のこの箇所の遺書の読者としての印象としても、そうして小説の構成としても、よりよいと思うのであるが。
♡「下女を呼んで膳を下げさせた」奥さんと御嬢さん、下宿人の先生とKの四人で食事をする際は、例の先生が進呈した特注の折畳式の卓袱台で食べていたが、小人数の場合は従来の箱膳を用いていたことが分かる。]
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