「心」シークエンス98~99
○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)
長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。
奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。
下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]
奥さん「□□や。膳をお下げして。」
奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。
先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。
火種を差し出す奥さん。
火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。
妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。
先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」
奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」
かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。
奥さん「(同じく)何故です?」
先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」
奥さん「(同じく)何ですか?」
奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。
先生、軽い咳払いをし、暫く、間。
先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」
奥さん「ええ、そうですね。」
先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」
奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」
先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」
奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」
先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」
[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]
奥さん、思いも寄らないという表情で。
奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」
先生 「あっ……いいえ……(間)……その、ここ数日、互いに忙しくて、ろくに話も出来なかったから、また例の調子で黙りこくっているのかと、ちょいと聞いてみただけのことです。別段、彼から何か頼まれたわけじゃありません……これからお話したいことは彼に関わる用件ではないのです。」
奥さん「(笑顔に戻って)左右ですか。」
後を待っている。間。
先生 「(突然、性急な口調で)奥さん、御孃さんを私に下さい!」
それほど驚ろいた様子ではないが、少し微苦笑して、暫く黙って唇を少し開いては閉じ、黙って先生の顔を見ている。やや間。
先生 「下さい! 是非下さい!……(間)……私の妻として是非下さい!」
奥さん「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか?」
先生 「急にもらいくたくなったのです!」
奥さん、笑ひ出す。笑いながら、奥さん「よく考えたのですか?」
先生 「もらいたいと言い出したのは突然ですけれど……いいえ! もらいたいと望んでいたのはずっと先(せん)からのことで……決して昨日今日の突然などでは――ありません!」
茶の間の対話の映像はままで。
先生のナレーション「……それから未だ、二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞いました。男のように判然した所のある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。……」
奥さんのバスト・ショット。
奥さん「よござんす、差し上げましょう。……差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってやって下さい。御存じの通り、父親のない憐れな子です。」
先生のナレーション「……話は簡単で、且つ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞いまでに、恐らく十五分とは掛らなかつたでしょう。……奥さんは何の条件も持ち出さなかつたのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だと言いました。本人の意向さへ確かめるに及ばないと明言しました。……そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥するぐらいに思われたものです。……」
先生 「……親類の方は兎に角、ご当人には、あらかじめ話をして承諾を得るのが……筋では、ありませんか?」
奥さん「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやる筈がありませんから。」
見上げる満面の自信と笑みの奥さん(俯瞰のバスト・ショット)。
« 『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月31日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十九回 | トップページ | では一つ »