「心」シークエンス94~96
○上野公園
K 「……どう思う?」
先生「何がだ?」
K 「……今の俺を、どう思う?……お前は、どんな眼で俺を見ている?……」
先生「この際、何んで私の批評が必要なんだ?」
K、何時にない悄然とした口調で。
K 「……自分の……弱い人間であるのが……実際、恥ずかしい……」
先生、Kを見ず一緒に歩む。先生、黙っている。
K 「……迷ってる……だから……自分で自分が、分らなくなってしまった……だから……お前に公平な批評を求めるより……外に仕方がない……」
先生、Kの台詞を食って。
先生「迷う?」
K 「……進んでいいか……退ぞいていいか……それに迷うのだ……」
先生、ゆっくりと落ち着いて。
先生「……退ぞこうと思へば……退ぞけるのか?」
K、立ち止まる。黙っている。
先生、少し行って止まる。しかし、Kの方は振り返らない。暫くして。
K 「……苦しい……」
先生、振り返る。
K、のピクピクと動く口元のアップ。
先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿(そのままの画面で)
先生「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」
K、微かにびくっとする。間。ゆっくりと先生の方へ歩み始めるK(バスト・ショット。僅かに高速度撮影で、散る枯葉を掠めさせる)。
カット・バックで先生(バスト・ショット、Kよりも大きめ。僅かにフレーム・アップさせながら)。
先生「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ――。」
Kの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。
K 「馬鹿だ……(間)……僕は馬鹿だ……」
K、ぴたりとそこでへ立ち止まる。K、うな垂れて地面を見詰めているのが分かるように背後から俯瞰ショット。
先生の横顔(アップ)。ぎょっとして顔を上げる。何時の間にか先生の前にKの姿はない。カメラ、ゆっくりと回る。先生がさっきの進行方向を向くと、Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。
追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。
K 「……○○……」
[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]
先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。
先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。
Kの悲痛な顏(真正面のフルフェイス・ショット)。
先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフルフェイス・ショット)
K、淋しそうな眼、表情(真正面のフルフェイス・ショット)。
K 「……もう、その話はやめよう。」
対する二人(ミディアム・ショット)。
K 「……やめてくれ。」
先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれって、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」
項垂れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ)。
K 「……覚悟?……」
フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のように(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。
K 「覚悟?!……覚悟なら……ないこともない……」
○上野公園(遠景)
人気のない夕暮れの上野公園を下ってくる先生とK。小さく。
○上野公園(不忍池への下り坂)
これ以降、二人の下駄の音のみ(SE)。魚眼レンズでクレーン・アップ、ティルト・ダウンして、手前から二人、イン。下駄の音。
――カッ! カッ! カッ!
背後から二人の頭部(この映像を下駄の音に合わせて、微かにフレーム・アップ、カット・バック、微かにフレーム・アウト、カット。バックで繰り返す)
地べたにカメラ、右上からインする先生の下駄の足。先生の足止まる。直ぐ向うを下駄履きのKの足が右から左へ抜ける。先生の両足、踏み変えて、振り返る動作の足(アップ。微かに高速度撮影。先生の背後へにじる下駄音。その音がK一人の下駄音と不協和音のように絡む)。
――カッ! カッ! カッ!(Kの下駄音という風であるが、大きなままで微かにエコーを入れる)
何気なく振り返る先生(俯瞰ショット。微かに高速度撮影)。夕日が一閃、眼鏡に反射してハレーションを起こす。その先生をなめて、坂を下る項を垂れたままに下ってゆくKの姿。
――カッ! カッ! カッ!
暮れなずむ薄暗い空(広角)。霜に打たれて蒼味を失った茶褐色の杉の木立が梢を並べて聳えている中空(分かる分からない程度にティルト・ダウンさせるが、地上は映さない)。
先生の右唇を中心にしたフル・フェイス・ショット(魚眼レンズ)。震える、先生の口元!
遠景。坂下の下ってゆくKの後姿。
――カッ! カッ! カッ!
――カ! カ! カ! カ!
先生、Kの方へ走ってゆく(クレーン・アップ。微かに高速度撮影。ここでは二人の下駄の音が不協和音のように絡む)。(F・O・。……だが、その後もSE残る)
――カッ! カッ! カッ!
« 『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十六回 | トップページ | 240000アクセス記念テクストへのヒント »