『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月16日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十四回
(八十四)
「斯んな風にして步いてゐると、暑さと疲勞とで自然身體(からだ)の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他(ひと)の身體の中へ、自分の靈魂が宿替(やどかへ)をしたやうな氣分になるのです。私は平生(へいせい)の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又步行のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰も道づれになつた行商のやうなものでした。いくら話をしても何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。
我々は此調子でとう/\銚子迄行つたのですが、道中たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊といふ所で、鯛の浦を見物しました。もう年數も餘程經つてゐますし、それに私には夫程興味のない事ですから、判然(はんぜん)とは覺えてゐませんが、何でも其處は日蓮(につれん)の生れた村だとか云ふ話でした。日蓮(にちれん)の生れた日に、鯛が二尾(び)、磯に打ち上げられてゐたとかいふ言傳へになつてゐるのです。それ以來村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦には鯛が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭(やと)つて、其鯛をわざ/\見に出掛けたのです。
其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮の方を頭の中で想像してゐたらしいのです。丁度其處に誕生寺といふ寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍でした。Kは其寺に行つて住持に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝(なり)をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠(すげがさ)を買つて被つてゐました。着物は固より雙方とも垢じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會ふのは止さうと云ひました。Kは强情だから聞きません。厭なら私丈外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度(きつと)斷られるに違ひないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて吳れました。其時分の私はKと大分考へが違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いてゐたやうです。日蓮は草(さう)日蓮と云はれる位で、草書が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙(まづ)いKは、何だ下らないといふ顏をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何うかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向つて日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥(くたび)れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫も面倒になつてしまひには全く默つてしまつたのです。
たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寢やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠(わだか)まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。
[♡やぶちゃんの摑み:2010年の今日、7月16日(金)の風光は正に先生とKが見上げたのと同じ夏の空である――「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」の初出にして日蓮に強く惹かれているKが印象的に描写される。それにしても、この冒頭一段落は読者に先生の御嬢さんへの恋のKへの告白を予想させるに十分な内容で、「急に他の身體の中へ、自分の靈魂が宿替をしたやうな氣分」になった「私は平生の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうにな」った、「彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつた」、「つまり二人は」「在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來た」、「何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題」ではなく、旅に出る前から蟠っていた御嬢さんへの思いをKに語ってKに対する疑心暗鬼を払拭してしまおうという存分の「心」の丈を吐き出すに相応しい状態にあったと言っているのである。そして――漱石はそれを美事に裏切るのである。
□Kの実家=浄土真宗の寺院~親鸞~浄土三部経~作善否定・絶対他力・肉食妻帯(非僧非俗)・悪人正機
↑
↓
■Kの興味=日蓮~法華経~「立正安国論」~他宗を排撃、国教化し正法(しょうぼう)の仏国土を実現する~強烈な排他主義と独立独歩の自律性
なお、私はこのKの実家が浄土真宗で、その息子が強烈に日蓮に関心を向けているという関係が、後の宮沢賢治の父親と賢治との実際の関係を髣髴とさせていて極めて興味深いと考えている者である。
♡「小湊」旧千葉県安房郡小湊町大字内浦。現在、合併により鴨川市。
♡「鯛の浦」千葉県鴨川市旧安房小湊町の内浦湾から入道ヶ崎にかけての沿岸部の海域をこう呼称している。日蓮絡みで妙の浦とも呼ばれ、奇瑞に事欠かぬ日蓮の伝説を元とする。次注で見るようにここ小湊は日蓮誕生の地であるが、日蓮誕生の貞元元(1222)年2月16日には、この浦に近い淵に青蓮華が咲き、浦に大小の鯛が無数に集まったという。また、立宗後の日蓮が祖霊の供養に帰郷した折り、この浦に舟で漕ぎ出し、海に対して南無妙法蓮華経の題目を唱えたところ、波の上にその字が現れたかと思うと、無数の鯛が群れ寄って来、その題目の字を厳かに食べ尽くした。漁民はその奇瑞を畏敬して向後、鯛を日蓮上人の写し身として尊崇、この浦を殺生禁断の聖地としたという。この鯛の浦は水深10mから30mの浅海域であって、通常の深海性回遊魚であるスズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ Pagrus major がこのような海域に固定して生息する例は世界的にも稀であり、永く魚類学会でも謎とされ、文化庁は昭和42(1967)年にはこの浦の鯛を特別天然記念物に指定している。最近の研究により、この浦のマダイが鯛の浦一帯から外延の小湊湾一円にかけての限定された浅海域で特異的に孵化・成長・産卵のライフ・サイクルを形成していることが分かってきた(以上は主に「鯛の浦遊覧船(南房総・鴨川小湊)」HP内の記載を参考にした)。私は小学校の4、5年生の時に祖母を連れた両親との御宿への旅の途中で訪れている。40年以上の少年の日の記憶であるが――この遊覧船に乗って、船端を叩いただけで(餌を投じる前に)青い海のそこから、紅色に虹の色を交えて輝くマダイが正に舞い踊るように何匹も何匹も湧き上がって来る――私は、その様をその際の驚きと共に昨日の事のように覚えているのである。だから私にはこの「其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました」という先生に恐らく誰よりも同一化出来るという自信があるのである(なお、この先生の描写は勿論、漱石自身の実体験としての驚きであった。『木屑録』に詳しい)。その頃から、海の生物は好きだった。序でに言うと、その遊覧船から戻って鯛の浦の岩場で父と磯の生物観察をしたが、妙に父が私のために張り切って、小さなバケツを片手にエビやら貝やらを探している内に、漁協の人に密漁者と疑われてしまったのであった。僕の前で、漁師にお灸を据えられている父が、僕の人生の記憶の中で、最も同情し、可哀想に思った父の姿であった。
♡「誕生寺」小湊山誕生寺。現在の千葉県鴨川市小湊183に所在する日蓮宗大本山。『1276年(建治2年)10月、日蓮の弟子の日家が日蓮の生家跡に、高光山日蓮誕生寺として建立。しかし、その後、1498年(明応7年)、1703年(元禄16年)の2度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転された』。『その後、26代日孝が水戸光圀の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称したが、1758年(宝暦8年)に、仁王門を残して焼失し、1842年(天保13年)に49代目闡が現存する祖師堂を再建した』。『江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰』している。先生が立派な伽藍と言っているが、現在も古形を残す仁王門と祖師堂を指して言っているものと推測される。仁王門は『1706年(宝永3年)建立。平成3年大改修。入母屋造二重門、間口8間(柱間は五間三戸)。宝暦の大火の際焼け残った誕生寺最古の建造物。両側の金剛力士(仁王)像は松崎法橋作。楼上の般若の面は左甚五郎作とされる。千葉県指定有形文化財』で、祖師堂は『1842年(天保13年)建立。入母屋造、総欅造り雨落ち18間4面(柱間は正面7間、側面6間)。高さ95尺。建材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し、譲りうけたもの。日蓮像が安置される。聖人像が安置される御宮殿は明治皇室大奥の寄進による。堂内右側の天井には南部藩の相馬大作筆による天女の絵が描かれ』ている、とある(以上はウィキの「誕生寺」より引用)。最初に建立されたのは日蓮生誕の邸の跡地で、現在より鯛の浦にもっと近い位置であったと考えられている。
♡「字の拙いK」「其癖彼は海に入るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつた」(八十二)の不器用さのように、先生は時々さりげなくKの短所を小出しするので注意して拾っておきたい。そしてこの叙述により、逆に先生は達筆であることが暗に示されているとも言えよう。
♡「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」Kの『絶対』の信条であり、これが後にKに対する致命的な先生の最終兵器としておぞましくも使用されることになる以上、本作最大のキー・ワードの一つとして記憶しなくてはならぬ台詞である。さて、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに注して以下のように述べておられる。
≪引用開始≫
こうした言葉を吐けるからには、まだこの時のKは、情にゆさぶられることで「確然不動の精神」を目指すみずからの智的・自力的修養にヒビが入ったとは思っていないようだ。また客観的にも、まだこの時点ではヒビを証するなにものもないことも確か。いつもとは少し様子の違うKのこうした攻撃的な態度から、先生だけでなくKも、非日常的な雰囲気の中で気持ちが高ぶっていたらしいことがうかがわれる。
≪引用終了≫
最初に注意しておくと、ここで藤井氏が「確然不動の精神」と鍵括弧で示しておられるのは「こゝろ」(「心」)の本文からの引用ではない。これは氏が第(七十六)回相当の「意志の力を養つて強い人になるのが自分の考だ」の部分に注した際、Kのこの考え方に近いとして引用されている浄土真宗(というのはちと皮肉な気が私はするが)の僧前田慧雲の「修養と研究」(井洌堂明治38(1905)年刊)の中に現れてくる言葉である。そこだけを引用すると、『前田は、収容・求道によって、どんな時にも心が微動だにすることのない「確然不動の精神」に到達することを最終目標としているが、修養の方法は智的(自力)修養と情的(他力)修養とに分けられるとしており、前者のスタイルがそれに近い。「お互各自に其智識を研いて、宇宙万有の真理を達観し、自己日常の行為を真理の定規から脱しない様に当て嵌めて其無限絶大の真理に合体せんと力める」というのが前田が下した智的修養の定義』であると纏められている、その「確然不動の精神」であるから、お間違いなく。
話を本筋に向ける。私はこの藤井氏に見解に微妙に異義を唱えたいのである。私は既に前章で述べた通り、この時点で
Kの御嬢さんへの恋情は芽生えている
その結果として、
Kの心中での求道と恋愛の葛藤は既にして始まっている
と判断している。勿論、藤井氏の言う通り、先生の叙述を見る限りに於いては『「確然不動の精神」を目指すみずからの智的・自力的修養にヒビが入ったとは思っていないよう』に見え、『また客観的にも、まだこの時点ではヒビを証するなにものもないことも確か』なように見える。しかし、それは見た目の、それも極めて物証として心もとない先生の見た目の、数少ない客観的描写部分のみから(先生の疑心暗鬼に少しでも関わる部分は証拠価値がない)推測されることでしかなく、私は藤井氏のように『確か』と言い切ることは逆立ちしても出来ないと断言出来る。確かに「ヒビ」は入れていないかもしれない――入れていないが、寧ろ、既にそうした恋愛感情が自己の内に実在することがKの信念に――微細な揺さぶりをかけ始めている――が故にこそ、Kは「丁度好い、遣つて吳れ」=「――実は――正しく今の自分は――このままこの断崖をお前に突き落とされて死んでもいいぐらいに、己れの信条を裏切りしつつあるのかも知れぬな――だから――ちょうどいい――やってくれ――」という台詞が吐かれたのではなかったか?!――「足がある以上、歩け!」と自己を叱咤したのではなかったか?!――小蠅のように彼の脳髄に纏わりつくオジョウサンバエを激しく振り払おうとして「孤高の人! 日蓮! 日蓮! 日蓮!」と心に唱え続けたのではなかったか?!――藤井氏の言葉を逆手に使わせて頂くならば、『いつもとは少し様子の違うKのこうした攻撃的な態度』とは『非日常的な雰囲気の中で気持ちが高ぶっていた』からではなくて、既ににしてこの解決不能の二項対立にKが気がつき、その自己の求道を裏切りしている、恋情を抱きつつある認められざる対自己へ向けての処罰性・批判性・攻撃性が、御嬢さんへの恋情を是が非でも払拭するためでもあるKの日蓮の談話に乗ってこない先生へと代償的に向けられたものと解する方が、私は自然であると思うのである。何より、Kの御嬢さんへの恋情が、この房州行以降で突如として勃興するという設定自体が、非現実的で、何より非小説的で、面白くなく、私には在り得ないこととしか感じられないのである。これは単に私が惚れっぽい性格だからだ、お前みたいなフニャフニャした男は逢う前から御嬢さんが好きになるだろうよ! と言われれば、はい、それまでのことでは、ある……]
« 『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月15日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十三回 | トップページ | 『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月17日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十五回 »