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2010/07/14

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月14日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十二回

Kokoro15_18   先生の遺書

   (八十二)

 「Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田(ほた)とか云ひました。今では何んなに變つてゐるか知りませんが、其頃は非道い漁村でした。第一(だいち)何處も彼處(かしこ)も腥(なまぐ)さいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剝(む)くのです。拳のやうな大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろ/\してゐるのです。

 私はすぐ厭になりました。然しKは好(い)いとも惡いとも云ひません。少なくとも顏付丈は平氣なものでした。其癖彼は海に入(はひ)るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつたのです。私はとうとう彼を說き伏せて、其處から北條(ほうでう)に行きました。北條と館山は重(おも)に學生の集まる所でしたさういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴塲だつたのです。Kと私は能く海岸の岩の上に坐つて、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下す水は、又特別に綺麗なものでした。赤い色だの藍の色だの、普通市塲(しぢやう)に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれました。

 私は其處に坐つて、よく書物をひろげました。Kは何もせずに默つてゐる方が多かつたのです。私にはそれが考へに耽つてゐるのか、景色に見惚(みと)れてゐるのか、若しくは好きな想像を描いてゐるのか、全く解らなかつたのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしてゐるのだと聞きました。Kは何もしてゐないと一口答へる丈でした。私は自分の傍(そば)に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸(さぞ)愉快だらうと思ふ事が能くありました。それ丈ならまだ可(い)いのですが、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです。すると落ち付いて其處に書物をひろげてゐるのが急に厭になります。私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩(てぬる)い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後(うしろ)からぐいと攫(つか)みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向(うしろむき)の儘、丁度好い、遣つて吳れと答へました。私はすぐ首筋を抑へた手を放しました。

 Kの神經衰弱は此時もう大分可(よ)くなつてゐたらしいのです。それと反比例(はんひれい)に、私の方は段々過敏になつて來てゐたのです。私は自分より落付いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎らしがりました。彼は何うしても私に取り合ふ氣色を見せなかつたからです。私にはそれが一種の自信の如く映りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にそれ丈ならば、Kと私との利害に何の衝突の起る譯はないのです。私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位(くらゐ)なものです。けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振(そふり)に全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひませんでしたけれども。Kは元來さうふ點にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫(だいぢやうふ)といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來たのです。

Line_9

やぶちゃんの摑み:ここから4章分が先生とKの印象的な房州ロケとなる。連載中、作中の季節と読者の時制が最も近似する摑みの時間でもある。――概ねハレーション気味の写真に海の音(おと)蝉や虫の音(ね)のSEが被り――最も鮮烈な「丁度好い、遣つて吳れ」や誕生寺での日蓮絡みのエピソード、旅宿の夜の二人の会話シーン等、何れをとっても写欲をそそる魅力的なシークエンスである。私はこの旅行を明治331900)年の7月下旬か8月と推定している。その行程の概略(推定を含む。その推定根拠となる漱石の実際の房州行は後掲)を見ておこう。

 

霊巌島〔推定〕

↓〈船~三浦半島横須賀・浦賀経由便か〔推定〕〉

保田

富浦

↓〈徒歩(以下同じ)〔推定〕〉

那古(K「丁度好い、遣つてくれ」)

房州の鼻

小湊/鯛の浦/誕生寺(Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という台詞)

銚子

↓〈この間、一部川舟を利用した可能性がある〉

両国(軍鶏を食う)

小石川中富坂町

 

この旅行のモデルとなったのは、漱石23歳、第一高等中学校本科第一学年夏季休業中の明治231889)年8月7日(水)から8月30日(金)迄の23日間に及ぶ房州・上総・下総の旅行である(以下、主に集英社昭和491974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」に拠る)。同行者は複数の学友で豊後出身の川関(イニシャルが「K」である!)や井原市次郎ら。荒氏の推定を含む行程を以下に示す。

 

霊巌島〔推定〕

↓〈船~横浜や三浦半島横須賀・浦賀経由便か。約5時間の行程。〔推定〕〉

保田(数日滞在、海水浴をする。絶句数種を試作、正岡子規から手紙を受け取る)

鋸山(眺望絶佳。中腹にある日蓮宗日本寺に参堂して瞑想、漢詩「君不見鋸山」(『木屑録』(ぼくせつろく)本文文中に所収)の吟あり)

↓〈房州南部の旧道を横断したか若しくは

↓ 半島南部を廻ったか若しくは

↓ 船を利用したか〉

小湊/鯛の浦/誕生寺

東金(漢詩「自東金至銚子途上口號」(『木屑録』所収)の吟あり)

犬若(千葉県海上郡神村犬若。銚子附近の村。ここの旅宿「犬若館」に泊る〔推定〕)

↓(舟で利根川を遡る。漢詩「賃舟溯刀水舟中夢鵑娘鵑娘者女名非女也」

↓ (『木屑録』所収)の吟あり)

野田(この地の東方にある旅宿「三堀旗亭」に泊る。漢詩「天明舟達三堀旗亭卽事」

↓  (『木屑録』所収)の吟あり)

関宿

↓(江戸川を南下したか〔推定〕)

東京(牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)の夏目家自宅へ帰る)

 

漱石はこの頃、既に養家塩原家と縁組を解消し、復籍していた。また、これ以前、明治201986)年9月頃迄は自活の意識高く、私塾教師のアルバイトをしながら下宿をしていたが、その不潔な生活のために急性トラホームに罹患し、この頃は実家に戻っていた。

 

――どうです、如何にもKそのものではありませんか?――

 

なお、荒氏によれば、この実際の旅行自体に不明部分が多い。また荒氏は全行程を約360㎞と算定されている。

 

「保田」現在の千葉県安房郡鋸南町保田。ここの海岸には「房州海水浴発祥地」の碑があり、その由来は何と! 房州の海水浴は明治221988)年に夏目漱石が保田海岸で遊泳したのが最初だからだそうである! こんなところに「心」関連碑があるなんて! リンク先(「昭和の思い出・ちょっといい話、投稿募集中!懐かしネットワーク - まぼろしチャンネル」)も引用している『木屑録』から引いておく(底本は岩波版旧全集を用いた)。「心」の本箇所がこの実体験に基づくものであることが如実に分かる。

 

余自遊于房浴日鹹水少二三次多五至六次浴時故跳躍爲兒戲之狀欲健食機也倦卽橫臥熱砂上溫氣浸腹意甚適也如是者數日毛髮漸赭面膚漸黃旬日之後赭者爲赤黃者爲黑對鏡爽然自失

 

○やぶちゃんの書き下し文

 余、房に遊びてより、日々鹹水(かんすゐ)に浴す。少なきも二三次、多きは五六次に至る。浴する時は故(ことさら)に跳躍し、兒戲の狀を爲す。食機を健やかならしめんと欲すればなり。倦まば卽ち熱砂上に橫臥す。溫氣、腹に浸み、意、甚だ適なり。是くのごとき者(こと)、數日にして毛髮漸く赭(あか)らみ、面膚漸く黃ばむ。旬日の後(のち)、赭(しや)は赤と爲り、黃は黑と爲る。鏡に對し爽然として自失す。

 

「海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剝くのです。拳のやうな大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろ/\してゐるのです」ここに1994年刊の岩波版新全集で重松泰雄氏は注して『このような保田での先生の乱暴な海水浴の状況は、作品の冒頭におけるあの繁華で、文明化された海水浴場の光景といかにも鮮やかなコントラストをなす。ここにも、先生やKの時代と「私」など新しい青年たちの時代との明瞭な対比的構図があるといってよいだろう』(底本には「文明化」に傍点「ヽ」がある)とされる。同様に重松氏は第(五十八)回の先生の学生の頃の知人喧嘩沙汰の部分に注され、このような対比の構図は『先生の遺書ではこの後も反復して現れ』『そこには』学生の「私」が生きる『〈現代〉との対比の中で、〈自らの時代〉の固有性を浮かび上らせ、語り伝えんとする先生の姿勢が明瞭である。』と語っておられる。――『〈現代〉との対比の中で、〈自らの時代〉の固有性を浮かび上らせ、語り伝えんとする先生』――実に示唆に富む言葉ではないか。

 

「海に入るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつた」Kは背は高いものの不器用である。運動は特に得意な方ではなさそうな印象である(但し、文弱タイプではない)。逆に先生は本作の冒頭やこの部分を見ても、少なくとも水泳は非常に得意である。逆に一見文弱タイプに見えながら、至って健康な肉体の持ち主であることは「こゝろ」の上パートでも十全に分かる。私のように酒を浴びるように呑むこともない。本作に特徴的な腎臓病からは最も遠く、私のような糖尿病からは最遠位にある。

 

「其處から北條に行きました。北條と館山は重に學生の集まる所でした。さういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴場だつたのです。」ここは極めて珍しく単行本では以下のように、大きく書き換えられている。

 

私はとう/\彼を說き伏せて、其處から富浦に行きました。富浦から又那古(なご)に移りました。總て此沿岸は其時分から重に學生の集まる所でしたから、何處でも我々には丁度手頃の海水浴場だつたのです。

 

「北條」は北条町のことで千葉県安房郡にかつて存在した町である。現在の館山市の中部に位置し、現在の内房線館山駅(実は現在の内房線館山駅は旧房総西線時代には安房北条駅であったが、昭和211946)年に改称している)がある地域で、館山町と並ぶ安房地域の拠点の一つであった。ここで先生の言う「館山」の方は館山町で、現在の館山市の中部の館山駅より南側の館山城寄りにあった町のことである。即ち、現在の館山は旧来は北条であり、館山とは別個な町であったのである。現在の館山市は昭和141939)年に新設合併によって誕生した市で、本当の館山町とは全く異なる自治体なのである。その辺りの自治体変更を以下に示す。

 

明治221889)年

町村制の施行により館山町・上真倉村・下真倉村が合併して館山町(初代)が発足した。

 

大正3(1914)年41

豊津村と合併し、改めて館山町(2代目)が新設される。(4月1日で本連載の3ヶ月前になる。即ち本連載時には未だ北条と館山は別個な町であったことが分かる)

 

昭和8(1933)年

北条町と合併、館山北条町が発足。同日館山町(2代目)は消滅した。

 

昭和141939)年

館山北条町が那古町及び船形町と合併し、館山市が新設され、同日北条という町名は消滅した。

 

(以上は主にウィキの「北条町」及び「館山町」の記載を参考にした)。なお、この単行本での書き換えは、この日の新聞連載を読んだ漱石の後輩である第一高等学校英語教師であった畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治4(1871)年~大正121923)年:英語学者・文芸評論家。号は芥州。山形生。仙台二高から東京帝国大学、更に大学院に進み、その在学中に雑誌『帝国文学』に文芸批評を執筆、以降『太陽』『火柱』『明星』といった文芸雑誌に文芸評論を寄稿した。明治31(1898)年から一高の英語教師となり、その間、早稲田・青山学院等でも英語を教えた。明治411908)年以降は「大英和辞典」(昭和6(1931)年完成刊)の編纂に心血を注いだが、完成を見ずにに病没した。以上の事蹟は「朝日日本歴史人物事典」を参考にした。)が、本章の描写に違和感を覚え、漱石に地名の誤りではないかという手紙を出したことによるものと思われる。この連載日当日発信の漱石の以下のような葉書が残されている(底本は昭和421967)年刊の岩波版旧全集「第15卷 續書簡集」を用いた。旧全集書簡番号一八四七である)。

 

七月十四日 火 後一-二 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町十番地畔柳都太郞へ 〔はがき〕

 御注意ありがたう、私の見たのは房州のどこだらう、金谷とか那古とかいふ邊かも知れない。然しあれは想像ではありません、たしかに見たのです。沖の島とか鷹の島とかへ行けばあんなところがありますか一寸敎へて下さい

 

この文面からは、保田上陸の後、北条と館山という完全に隣接する地の殊更な移動への疑問以外に、「赤い色だの藍の色だの、普通市場に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれ」るような「海岸の岩」場はあの辺りの海岸線にはない、という注意をも畔柳は指摘しているようにも思われる。この手紙で漱石が言及している「沖の島」及び「鷹の島」は共に現在の千葉県館山市南方の館山湾(鏡浦)にある。現在の海上自衛隊館山航空基地の西に沖ノ島が、同基地北東の角部分が高ノ島(国土地理院表記)である。沖ノ島は周囲約1㎞の小島で館山湾の南端に位置する砂洲によって繋がったトンボロ(陸繋島)である。但し、この陸繋島化は関東大震災によるものなので、本作の頃は陸から500m程離れた純然たる島であった。現在は海水浴場や約8000年前の縄文海中遺跡、更に世界的にも珍しい珊瑚の北限域の無人島として知られている。高ノ島(「鷹の島」)の方は完全に基地の東北部分に突き出た形で陸化しており、地図上では富士見という地名も与えられているが、これは昭和5(1930)年に大規模な埋立造成によってこの海軍館山航空隊が開隊された結果で、本作の頃はやはり館山港見下ろすような形の湾内に浮かぶ孤島であった。現在も平安時代に祀られたと伝えられる鷹之島弁財天があり、漁師や船員の信仰を集めている。海軍・海上自衛隊というのも故なきことでないという訳か。なお、これら館山周辺の仔細な地名を出しているところを見ると、漱石の実際の明治231889)年の房州行は、所謂、半島南部を廻ったか若しくは船を利用した可能性が高いように見受けられる。

 

「赤い色だの藍の色だの、普通市塲に上らないやうな色をした小魚」これは極めて高い確率でスズキ目ベラ亜目ベラ科 Labridae のベラ類のキュウセンやニシキベラ等であろう。以下、ウィキの「ベラ」より引用する。『日本近海には約130種が生息し、磯やサンゴ礁などで普通に見ることができる』。『ベラ科の魚は体長1030cm程度の比較的小さな種類が多い』(但し、コブダイやメガネモチノウオ(ナポレオンフィッシュ)等は大形種や大形個体が見られる)。『多くは鮮やかな色彩をもち、雄と雌で体色が異なる。成長に伴って性転換を行う種も多い。キュウセンなど一部の種は夜、砂に潜って眠ることが知られている。ソメワケベラの仲間は、他の魚の口の中や体表を掃除するという特異な生態をもっており、掃除魚などと呼ばれる』。『4亜科・60属・500種ほどが知られる大きな科である。全世界の熱帯から温帯に広く分布し、浅い海の砂底、岩礁、サンゴ礁に生息する。日本にも数多くの種類が分布している』。『成魚の大きさは全長10cmほどのホンソメワケベラから、2m以上に達するメガネモチノウオまで種類によって異なるが、ふつう海岸で見られるのは全長20cmほどの小型種が多い。体は細長く側編し、海藻やサンゴ、岩のすき間をすり抜けるのに都合がよい体型をしている。また、種類によっては体をくねらせて砂にもぐることもできる』。『体表はスズキ類やイワシなどにくらべて粘液が多く、ぬるぬるしている。体色は種類によってさまざまで、白、黒、青、緑、橙、赤などの組み合わさった美しい体色の種類もいる。また、性別や成長の度合いによって体色がちがう種類もいて、同種でもオスとメス、幼魚と成魚で別種のようにみえる種類もある』。『雌性先熟の性転換をすることが知られている。性転換して雄になった個体は雌を惹きつける派手な色彩に変化し、縄張り内の複数の雌と繁殖を行う。また、種類によっては生まれながらの雄もいる。前者を二次雄、後者を一次雄と呼ぶ。一次雄は集団産卵やスニーキングやストリーキングにより繁殖を行うが、二次雄と同じ派手な色彩に変化し、縄張りを持つこともある。』とある。この「スニーキング」とは二次雄の縄張りに侵入し、二次雄がいない隙を見て雌とペアリングする生殖行動を、「ストリーキング」は二次雄の縄張りに侵入し、二次雄と雌が産卵するのを見計らって割り込み放精をする生殖行動を言う。『ほとんどの種類が肉食性で、丈夫な歯をもち、ゴカイや貝、甲殻類などを捕食する。また、ほぼすべての種類が昼行性で、夜は岩陰にひそんだり、海底の砂にもぐったりして眠る。同じようにして冬眠をおこなう種類もある』。『春から秋にかけてよく漁獲されるが、冬のコブダイなど一部を除くと漁業価値は低い。特に釣りで多く漁獲されるが、関東では「餌盗り」や「外道」として扱われ、釣ったその場で捨てられることもある。一方、関西では高級魚として扱われ専門の遊漁船も出るほど人気がある。なお夜は休眠するので、あまり漁獲されない』。『身は軟らかいが、刺身、煮付け、唐揚げ、南蛮漬けなど、いろいろな料理で食べられる。キュウセンは関東地方などの東日本では評価が低いが、関西以西、特に瀬戸内海沿岸ではギザミと呼ばれ、美味な魚として評価されている。これは太平洋で育ったものは身が締まらず水っぽく大味になるのに対し、瀬戸内海などで育ったものは早い潮流によって身が引き締まるためである。したがって、個々の地域による文化的、味の嗜好で、価値観の差違が発生しているわけではない』以下、「分類」の項(一部にフォント・記号を追加した)。『ベラ科Labridaeには約500種が含まれ、大きく4亜科に分けられる。また分類が困難な種も多い。

 

○タキベラ亜科 Bodianinae

○ブダイベラ亜科 Pseudodacinae

○カンムリベラ亜科 Corinae

○モチノウオ亜科 Cheilininae

 

以下、下位分類と主な種のリストを挙げる。

 

○タキベラ亜科 Bodianinae

・イラ Choerodom azurio - 体長25 cm。背中はピンク色で顔と尾は青っぽく、背びれと尻びれは黄色っぽい。成長したオスの額はでっぱる。胸びれの上に黒っぽい斜めの線がある。

・コブダイ Semicossyphus reticulatus - カンダイとも呼ばれる。全長1m。成長したオスは額が出っ張る。幼魚は体が赤く、背びれ、尻びれ、尾びれが黒、目から尾びれまで白い線が走る。成長すると全身が赤褐色になり見た目は全く別の魚になってしまう。冬が旬で高級魚として扱われる。

 

○ブダイベラ亜科 Pseudodacinae

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・ブダイベラ Pseudodax moluccanus

 

○カンムリベラ亜科 Corinae

・ニシキベラ Thalassoma cupido - 全長20 cm。ホンベラによく似ているが腹部が青い。

・ホンソメワケベラ Labroides dimidiatus - 体長12 cm。体側に黒い縦帯がある。他の魚の口や体表の掃除をすることで有名である。

・ムスメベラ Coris picta - 体長18 cm。体側に黒い縦帯がある。

・ホシササノハベラ Pseudolabrus sieboldii - 体長20 cm。以前はアカササノハベラ P. eoethinus と同種と考えられており、ササノハベラ P. japonicus  という名称が与えられていた。両者とも体色は褐色だが、アカササノハベラは名の通り赤みが強い。外洋に面した防波堤などでよく釣れる、釣り人にはおなじみの魚である。

・キュウセン Halichoeres poecilopterus - 日本の本州以南に広く分布し、岩礁と砂底が入り混じったような環境に多い。メスは体長20 cm ほどで体色は黄褐色で、オスは体長30cm 以上になり、体色は黄緑色をしている。成長するにつれメスからオスへ性転換すると考えられている。オスメスとも赤い点線が縦に数本はいり、目から尾びれまでと背びれの根もとに黒い線が走っている。夜や冬は砂にもぐって休眠するため、釣りは日中に行われる。関東ではあまり食用にしないが、関西では好まれ、高値で取引される。特に刺身が珍味であり喜ばれる。

・ホンベラ Halichoeres tenuispinnis - 体長13cm。体色は緑が主体でニシキべラに似ているが、色が薄くまた、赤い色をしている。ベラのなかではキュウセンやニシキべラと並んで温帯域に適している。

この種群は、私が富山に住んでいる時、キスの外道で結構釣れたものである。色が鮮やか過ぎて逆に食をそそらない嫌いがあるが、実際食ったが、キュウセンやニシキベラはやや身が柔らかいが、結構美味いと私は思う。色からも形からも――私は頗る女性的に感ずる種群である――私がこのシーンを撮るなら、彼らの登場して貰う。

 

○モチノウオ亜科 Cheilininae

・メガネモチノウオ Cheilinus undulatus - インド洋から太平洋のサンゴ礁に分布する巨大魚で、ナポレオンフィッシュともよばれる。成長したオスは全長2mを超え、カンダイのように額がでっぱる。メスは全長1m以下で、額はでっぱらない。

・テンス Xyrichtys dea - 全長30cm。体色は赤っぽく腹びれと尻びれは黄色っぽい。海底の砂地に生息しており、危険を感じると一瞬で砂に潜り込む。

 

なお、ここら辺り、『木屑録』本文に、保田から一里ばかりのところに在る半月型の湾に大きな岩礁があり、そこから海を臨むと海藻が茂り「游魚行其間錦鱗尾忽去來」という描写がある。

 

♡「私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです」実際の漱石の旅行では冒頭に一部を示したように『木屑録』に多量の漢詩が詠まれている。この夕日に向かって(にしよう)喚くシーンは正に青春ドラマの一齣、そう言えば千葉県の県知事は正にそのクサいドラマの主役をはっていた大根役者じゃあ、ねえか……これも「心」の因縁かのう……

 

「ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向の儘、丁度好い、遣つて吳れと答へました。私はすぐ首筋を抑へた手を放しました」ここは「心」を考える際に私にとって極めて大切なワン・シーンである。それはここが、これから続く漱石の確信犯行為

 

★『Kの眼を見逃す先生(1)』

 

という象徴的シチュエーションの最初のシーンだからである。このシーンを先生の目線で実際の映像として撮ってみれば分かる。

 

○カメラ、急速に背後から岩場の突先に座り込んでいるKに近づき、Kの頭の後ろまで一気に迫って画面の上からインした先生の手首がKの襟首を、グイ! と摑む。

先生(オフで)「こうして海の中へ突き落としたら……どうする――」

摑みながら微かに震える先生の手首――微動だにしないKの伸びきってほつれた後ろ髪、焼けた首筋、垢の浮いた太陽光を透過した薄赤い耳介――それをなめて向うの眩しく輝く海、白く遠い波頭――

K(後ろ向きのそのままに)「ちょうどいい――やってくれ――」

はっとしたようにKの襟首を離れる先生の手。はっきりと震える先生の指――ゆっくり画面右上へ消え――同じくKの微動だにしないKの伸びきってほつれた後ろ髪、焼けた首筋、垢の浮いた太陽光を透過した薄赤い耳介――それをなめて向うの眩しく輝く海、白く遠い波頭――

(ホワイト・アウト)

 

先生は、この時――「丁度好い、遣つて吳れ」と言う、そのKの眼も表情も見落としている。見ることが出来ないのである。これこそ私は漱石が仕組んだ

 

Kの眼を見逃す=Kの真意を見逃す=Kの心を見落とす先生

 

という分かり易い伏線であると考えて止まないからである。これは私が「こゝろ」の全文授業を始めた教員1年目、実に31年前からのオリジナルな解釈なのであるが、第(百三)回(=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十九)の「Kの死に顔が一目見たかつた」先生が「見る前に手を放してしまう」というシーンまで、この『Kの眼を見逃す先生』は実に5回も出現するのである。そして――私のここでの謂いは

 

見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生

 

という意味でカタストロフへと直進してゆく原動力となっていることを意味している。即ち、分かり易く言えば私は、

 

★この時点でKには既に靜への恋愛感情が芽生えており、その感情と自己の求道の信条との矛盾に早くも悩み始めている

 

と解釈するのである。ここでKが座っている岩場が如何程のものかは分からない。しかし、水泳で飛び込むことが可能な数メートルのものでないことは明らかだ。これは突き落とされれば死ぬるかも知れぬような、いや、死ぬであろう断崖絶壁鋭利奇岩の岩礁であればこそ、この先生の「斯うして海の中へ突き落したら何うする」という語は生きてくる。そしてそれに間髪を入れぬKの「丁度好い、遣つて吳れ」という答えが慄然と迫るのだ。

 ここの解釈は二様に考え得るであろう。

 一つはこれが一種の禪問答のパロディとして機能するという解釈である。在り得ぬことではない。ニヒルを気取るのが好きな私(やぶちゃん)がKなら、先生のこうした悪戯(冗談)に対してこんな風に「ちょうどいい――やってくれ――」と答える可能性はないとは言えぬ。いや、高い確率でニヒルな笑みを浮かべて、友人の先生にそう答えると言ってもよいという気さえする。

 しかし、私にはこの前後のKと御嬢さんとの絡みの展開からみて、このKが所謂、精進一途の道にあって、肉を鞭撻すれば精神の光輝がいや高まるとういう意味で肉体を卑しみ、だからここでは、

 

×「――こんな肉体? 俺の求道的人生に、肉体なんて、そんなものに未練などは金輪際ないね――ちょうどいい――やってくれ――」

 

とやや先生の売り言葉に軽くいなした買い言葉、先生の如何にも軽い冗談に余裕の禪気で応酬したに過ぎない――なんどという解釈は私には逆に誠心にして重厚な宗教的に真面目であるKにとって『Kらしくない下らぬ冗談』としか思われないのである。Kはこんな軽い冗談は吐かぬ。少なくとも、どうも近頃、求道的に精進しているとは全く思われない先生なんぞにこんなことを言われたなら、私がKならいつものフンといった調子で無視すると言ってもよい。

 されば、もう一つの解釈しか、ない。即ち、この「丁度好い、遣つて吳れ」とは、

 

○「――実は――正しく今の自分は――このままこの断崖をお前に突き落とされて死んでもいいぐらいに、己れの信条を裏切りしつつあるのさ――だから――ちょうどいい――やってくれ――」

 

という謂い以外にはないのである。これを私は私の大事な「こゝろ」解釈の基底部に据えて動かすつもりはないということを、ここに言明しておく。なお、ここら辺りも『木屑録』本文の、例の保田から一里ばかりのところに在る半月型の湾にある15m程の巨人の掌のような断崖があり、その絶壁の端に平坦な数人がやっと座れる場所があったと書き、そこに「欲墜不墜」という言葉が記されている。これがこのシーンのルーツであろう。

 

「Kの神經衰弱は此時もう大分可くなつてゐたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になつて來てゐたのです」繰り返すまでもないが、再度確認しておくが、Kは神経衰弱ではない。至って健全である。勿論、前注で示した通り、私は自己心内の葛藤のためにややアンビバレントな感情は心内にあると考えているが、それは健全な青年の『理想と現実』の悩みの範囲内――正にこの時点ではKの中ではのっぴきならない肥大した大きな対立項としては生育していないと言っても私には正しいと思われる――である。むしろ、このシーンの前後を見るに、先生の方が例の関係妄想と被害妄想の傾向が先鋭化してきつつあり、正常な状態から逸脱しつつあるように読める。それを先生は確かに「私の方は段々過敏になつて來てゐた」と叙述するのだが、これも、遺書を書いている際の先生が当時を回想して自己分析した結果なのか、当時の先生にそのような『病識』がその頃既にあったのかという点は留保せざるを得ない曖昧な書き方である。私は『病識』はなかった、という立場を採る。それによって本作は近代日本文学史上最初の本格的に多層的心理分析的手法を採った小説となるからである。

 

「私は自分より落付いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎らしがりました。彼は何うしても私に取り合ふ氣色を見せなかつたからです。私にはそれが一種の自信の如く映りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にそれ丈ならば、Kと私との利害に何の衝突の起る譯はないのです。私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位なものです。けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振(そふり)に全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひませんでしたけれども。Kは元來さうふ點にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫(だいぢやうふ)といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來たのです」この一連の心理分析中、「けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなる」という箇所が、始めて先生とKと靜の三角関係、お嬢さんをはっきりと掲げた三角関係の明示となっている点で、極めて重大な箇所である。ここでの先生=「私」の分析過程の病的状況を整理しよう。

 

・私は最近のKが精神的に明らかに自分より落付いたように観察された。

   ↓(その結果)

・私は精神的余裕の中で自分よりも豊かな精神生活を送っているものと類推し、Kを羨ましく思うようになった。

   ↓(同時に)

・私には、私のことをKが軽くあしらい、何となく馬鹿にして取り合わないように見え始め〈←先生の被害妄想部分〉、それが却って『そうした精神の安定をお前に与えてやったのは他ならぬ私なのに』という不満から、憎たらしく思うようにさえなった。

   ↓(同時に)

・『私のことをKが軽くあしらい、何となく馬鹿にして取り合わないように見え』る様子が、別な角度から見れば、一種のKの揺ぎない自信のポーズの如く見えもした(その結果としてますます普段からあったKへの劣等感が昂まった)。

   ↓(取り敢えずその人生への「Kの自信」

   ↓ は認めてやってもよいと思ったものの)

・私の疑いはそこで満足して留まらず、その「自信」や「変化」の理由を明らかにしないでは済まなくなった。〈←先生の関係妄想と強迫観念

   ↓(その疑問)

・彼は学問や人生上の生き方などに就いて、これから自己の進んで行くべき求道的精進に満ちた前途の光明を再び取り返した心持になったのか?

   ↓(現在の余裕と安定がそれだけの理由によるもなら)

○「Kと私との利害に何の衝突の起」らないから「私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位」である。

   ↓(しかし)

×K「の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば」「私は決して彼を許す事が出來な」い!〈←関係妄想=それは結果として事実であり、妄想ではなかったことになるのだが、これは病的な妄想の過程で実は偶然、後の結果的事実に至ったに過ぎないのである。それが如何に病的なものであるかは、この「私は決して彼を許す事が出來な」い、という言辞を取り上げるだけで十分である。自分で勝手に妄想を肥大させ、仮想の目に見えない壁を相手に唾を吐きかけ、痛罵する先生の怒号が聴こえてくるではないか?!〉

 

……そして先生はこの最後の病的なネガティヴな答え(先生にとって)を知らず知らずの内に選び取ってしまうことになる。

 

「不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振に全く氣が付いてゐないやうに見えました」これは事実。Kは全く気付いていない。「無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひま」わなかったせいもあるが、「Kは元來さうふ點にかけると鈍い人」であることは完璧な事実である。先生が「最初からKなら大丈夫といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來た」という告白も、私のイメージするKでも、さもありなんという気がする。ここで確認しておく必要があるのは、この遺書を読む者の中に形成されるK像は殆んど個人差が生じないように先生によって描かれている点である。勿論、その心の動きを先生は大きく致命的に誤解してゆき乍らも、一方では、読者がイメージするK像には大きな印象のブレがないように、ある種絶妙な客観的視点でもに描かれているという驚異的な漱石の筆致を味わう必要がある。これは先生がKをそのように理解させようとする悪意、少なくとも意識的悪意ではない。無論、先生がKを恋敵と意識する、人生の致命的失敗の起点にKが立っていることを告解する際には、無意識的な悪意の発露はあっても、そうした悪意によって読者のK像を意図的に歪めようとする意識は微塵も働いていないという点を押えておくべきであろう。]

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