『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十六回
(九十六)
「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位(くらゐ)に思つてゐたのです。然し私にも敎育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語(さゝや)いて吳れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘(たしな)めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。
Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。
「もう其話は止めやう」と彼が云ひました。彼の眼にも彼の言葉にも變に悲痛な所がありました。私は一寸挨拶が出來なかつたのです。するとKは、「止めて吳れ」と今度は賴むやうに云ひ直しました。私は其時彼に向つて殘酷な答を與へたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食ひ付くやうに。
「止めて吳れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もと/\君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」
私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る强情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、―覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。
二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。我々は夕暮の本鄕臺を急ぎ足でどしどし通り拔けて、又向ふの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。私は其頃になつて、漸やく外套の下に體の温か味を感じ出した位です。
急いだためでもありませうが、我々は歸り路には殆ど口を聞きませんでした。宅へ歸つて食卓へ向つた時、奥さんは何うして遲くなつたのかと尋ねました。私はKに誘はれて上野へ行つたと答へました。奥さんは此寒いのにと云つて驚ろいた樣子を見せました。御孃さんは上野に何があつたのかと聞きたがります。私は何もないが、たゞ散步したのだといふ返事丈して置きました。平生から無口なKは、いつもより猶默つてゐました。奥さんが話しかけても、御孃さんが笑つても、碌な挨拶はしませんでした。それから飯を呑み込むやうに搔き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室へ引き取りました。
[♡やぶちゃんの摑み:
○上野公園。(続き)
Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。
追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。
K 「……○○……」
[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]
先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。
先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。
Kの悲痛な顏(真正面のフル・フェイス・ショット)。
先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフル・フェイス・ショット)
K、淋しそうな眼、表情(真正面のフル・フェイス・ショット)。
K 「……もう、その話はやめよう。」
対する二人(ミディアム・ショット)。
K 「……やめてくれ。」
先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれつて、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」
項垂れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ)。
K 「……覚悟?……」
フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のやうに(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。
K 「覚悟?!……覚悟なら……ないこともない……」
○上野公園(遠景)
人気のない夕暮れの上野公園を下ってくる先生とK。小さく。
○上野公園(不忍池への下り坂)
これ以降、二人の下駄の音のみ(SE)。魚眼レンズでクレーン・アップ、ティルト・ダウンして、手前から二人、イン。下駄の音。
――カッ! カッ! カッ!
背後から二人の頭部(この映像を下駄の音に合わせて、微かにフレーム・アップ、カット・バック、微かにフレーム・アウト、カット。バックで繰り返す)
地べたにカメラ、右上からインする先生の下駄の足。先生の足止まる。直ぐ向うを下駄履きのKの足が右から左へ抜ける。先生の両足、踏み変えて、振り返る動作の足(アップ。微かに高速度撮影。先生の背後へにじる下駄音。その音がK一人の下駄音と不協和音のように絡む)。
――カッ! カッ! カッ!(Kの下駄音という風であるが、大きなままで微かにエコーを入れる)
何気なく振り返る先生(俯瞰ショット。微かに高速度撮影)。夕日が一閃、眼鏡に反射してハレーションを起こす。その先生をなめて、坂を下る項を垂れたままに下ってゆくKの姿。
――カッ! カッ! カッ!
暮れなずむ薄暗い空(広角)。霜に打たれて蒼味を失った茶褐色の杉の木立が梢を並べて聳えている中空(分かる分からない程度にティルト・ダウンさせるが、地上は映さない)。
先生の右唇を中心にしたフル・フェイス・ショット(魚眼レンズ)。震える、先生の口元!
遠景。坂下の下ってゆくKの後姿。
――カッ! カッ! カッ!
――カ! カ! カ! カ!
先生、Kの方へ走ってゆく(クレーン・アップ。微かに高速度撮影。ここでは二人の下駄の音が不協和音のように絡む)。(F・O・。……だが、その後もSE残る)
――カッ! カッ! カッ!
――カ! カ! カ! カ!
♡「然し私にも敎育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語いて吳れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです」私は高校時代にここを読んで先生のさもしさに舌打ちしたのを思い出した……僕が先生で、「私」に向けて遺書を書くとしても、決してこんな浅ましい弁解にならない弁解を、牛の涎のようにだらだらとは書かないよ。……そもそも自殺をしようという僕だったら……最も嫌うのは、こうしたさもしい弁解を言ってしまうこと、じゃないか? 素直に、こう言えばいいんだ。
「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位に思つてゐたのです。たゞたゞKは私を信じ切つていました。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。」
と……それで澤山だと思うんだ。……
以下、私の授業の板書である。
◎「平生の主張」=道のためにはすべてを犠牲するという考え
◎「安心しました」
〈この時点の先生の解釈〉Kが御嬢さんへの恋を捨て、求道的生活に戻るということ
↓しかし
◎K「覚悟?!……覚悟なら……ないこともない……」
⇓
○結果した先生のこの後の「覚悟」の解釈=『道を捨てて、お嬢さんへの恋に走る』という意味~それが総てを破局へと導く
●「覚悟」の双方の捉え方の齟齬
先生が言った「覚悟」=『道に生きるためには如何なるものも犠牲にする』という覚悟
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↓
Kが言った「覚悟」とは?!……誰だって分かるさ……みんな、分かってる……分からないのは先生だけじゃないか!……]
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