『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月15日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十三回
(八十三)
「私は思ひ切つて自分の心をKに打ち明けやうとしました。尤も是は其時に始まつた譯でもなかつたのです。旅に出ない前から、私にはさうした腹が出來てゐたのですけれども、打ち明ける機會をつらまへる事も、其機會を作り出す事も、私の手際(てきは)では旨く行かなかつたのです。今から思ふと、其頃私の周圍にゐた人間はみんな妙でした。女に關して立ち入つた話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種を有たないのも大分(だいぶ)ゐたでせうが、たとひ有つてゐても默つてゐるのが普通の樣でした。比較的自由な空氣を呼吸してゐる今の貴方がたから見たら、定めし變に思はれるでせう。それが道學の餘習なのか、又は一種のはにかみなのか、判斷は貴方の理解に任せて置きます。
Kと私は何でも話し合へる中でした。偶には愛とか戀とかいふ問題も、口に上らないではありませんでしたが、何時でも抽象的な理論に落ちてしまふ丈でした。それも滅多には話題にならなかつたのです。大抵は書物の話と學問の話と、未來の事業と、抱負と、修養の話位(くらゐ)で持ち切つてゐたのです。いくら親しくつても斯う堅くなつた日には、突然調子を崩せるものではありません。二人はたゞ堅いなりに親しくなる丈です。私は御孃さんの事をKに打ち明けやうと思ひ立つてから、何遍齒搔ゆい不快に惱まされたか知れません。私はKの頭の何處か一ケ所を突き破つて、其處から柔らかい空氣を吹き込んでやりたい氣がしました。
貴方がたから見て笑止千萬な事も其時の私には實際大困難だつたのです。私は旅先でも宅にゐた時と同じやうに卑怯でした。私は始終機會を捕へる氣でKを觀察してゐながら、變に高踏的な彼の態度を何うする事も出來なかつたのです。私に云はせると、彼の心臟の周圍は黑い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎ懸けやうとする血潮は、一滴も其心臟の中へは入らないで、悉く彈き返されてしまふのです。
或時はあまりにKの樣子が强くて高いので、私は却つて安心した事もあります。さうして自分(しぶん)の疑ひを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のやうに見えて、急に厭な心持になるのです。然し少時(しばらく)すると、以前(いせん)の疑ひが又逆戾りをして、强く打ち返して來ます。凡てが疑ひから割り出されるのですから、凡てが私には不利益でした。容貌もKの方が女に好かれるやうに見えました。性質も私のやうにこせ/\してゐない所が、異性には氣に入るだらうと思はれました。何處か間が拔けてゐて、それで何處かに確(しつ)かりした男らしい所のある點も、私よりは優勢に見えました。學力(がくりき)になれば專問こそ違ひますが、私は無論Kの敵でないと自覺してゐました。―凡て向ふの好(い)い所丈が斯う一度に眼先へ散らつき出すと、一寸安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
私達は三四日して北條を立ちました。Kは落ち付かない私の樣子を見て、厭なら一先(まづ)東京へ歸つても可(い)いと云つたのですが、さう云はれると、私は急に歸りたくなくなりました。實はKを東京へ歸したくなかつたのかも知れません。二人は房州の鼻を廻つて向ふ側へ出ました。我々は暑い日に射られながら、苦しい思ひをして、上總の其處一里に騙されながら、うん/\步きました。私にはさうして步いてゐる意味が丸で解らなかつた位です。私は冗談半分Kにさう云ひました。するとKは足があるから步くのだと答へました。さうして暑くなると、海に入つて行かうと云つて、何處でも構はず潮へ漬りました。その後を又强い日で照り付けられるのですから、身體が倦怠(だる)くてぐた/\になりました。
[♡やぶちゃんの摑み:『先生のぐるぐる』である。先生のKへの圧倒的な劣等感が被害妄想となって典型的な自己劣勢自己卑小化へと向かうシーンである。ある時は、
○Kの孤高にして崇高な姿に安心すると同時に自分の疑いを後悔すると共に、心中でKに詫びることさえあった
↓(そして)
○詫びながら自分が如何にも非常に下等な人間に見え、自己嫌悪に陥った
↓(ところが暫くすると逆に)
×Kの御嬢さんへの特異感情や二人の関係への猜疑が増殖し始める
↓(すると不安と自己の劣等性が絵巻物のに広がってゆく)
×Kの容貌も自分よりも女に好かれるタイプのように見える
×Kの人格も私のようにこせこせしていない点で異性には好まれるに違いない
×Kの人柄は何処かちょっと間が抜けて見えるのだが、それでいてそれでまた何処かしっかりした男らしい所がある点でも自分より対女性間にあっては優勢に見える
×Kの明晰な頭脳は最早私など敵ですらない
という自覚を明確に持ってしまう先生である。私は先生に問いたい。――では「Kの容貌」の何処が女心をくすぐるのか――先生は言えない。――「性質も私のやうにこせ/\してゐない」とあるが先生は自他共に認めるところの「こせ/\してゐない」「鷹揚」な性質であるはずではなかったか?――先生は返答出来ない。――Kは海に入っても必ず怪我をしてくるような不器用で「間が拔け」た男である。その何処が「確(しつ)かりした男らしい所」なのか――先生ははっきりと示すことが出来ない。――「專問」が異なる以上、一概に比較出来ないと先生御自身が言っているのに、しかし「Kの敵でないと自覺」する程、先生、あなたの「學力」は貧しくレベルの低いものだったのですか?――先生は怒って反論するだろう。これは最早、病的である。
なお、この連載当日の日付の東京朝日新聞社内山本松之助宛書簡が残されている(底本は岩波版旧全集の書簡番号一八四八。文中「單單」「何うが」の右に「原」のママ表記。〔 〕は全集編者による補正)。
七月十五日 水 午後三時―四時 牛込區稻田南町七番地より 京橋區瀧山町四番地東京朝日新聞社内山本松之助へ
旅行先より御歸京のよしたまの骨休めも嘸かし御忙がしい事と存じます小說についての御教示は承知致しました。可成「先生の遺書」を長く引張りますが今の考ではさう/\はつゞきさうもありません、まあ百回位なものだらうと思ひます、實は私は小說を書くと丸で先の見えない盲目と同じ事で何の位で済むか見當がつかないのです夫で短篇をいくつも書といつた廣告が長篇になつたやうな次第です、「先生の遺書」の仕舞には其旨を書き添へて讀者に詫びる積で居ります。斯うして考へてゐると至極單單なものが原稿紙へ向ふといやにごた/\長く〔な〕るのですから其邊は御容赦を願ひます。
つぎの人に就ては別段どんな若手といふ希望をもつた人も差當りあ〔り〕ません、志賀の斷り方は道德上不都合で小生も全く面喰ひましたが藝術上の立場からいふと至極尤もです。今迄愛した女が急に厭になつたのを强ひて愛しふりで交際をしろと傍からいふのは少々殘酷にも思はれます。
谷崎、田村俊子、岩野泡鳴、數へると名前は出て來ますが一向纏まりません、猶よく考へませうがあなたの方で何うが御擇を願ひます 先は右迄 勿々
七月十五日 夏目金之助
山本松之助様
十三日の朝日にケーベルさんを停車場に送つて行つたやうな事を川田君が書きましたがどうした間違でせう。私は今夜ケーベルさんの所へ晩餐に呼ばれてゐます。先生は来月十二日頃船で歸るのです。
♡「道學の餘習」封建的儒教道徳の残滓。
♡「以前の疑ひが又逆戾りをして、强く打ち返して來ます」「以前の疑ひ」は直接に前章の「私は自分の傍に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸愉快だらうと思ふ事が能くありました」「が、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです」という部分及び「彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです」という疑心暗鬼へと先生の心が「又逆戻りをして、強く打ち返して來」る、ぐるぐると例の円運動で戻ってゆく、ということを指している。
♡「私達は三四日して北條を立ちました。」単行本「こゝろ」では丸ごと削除されている。前章の変更を受けたもの。
♡「上總の其處一里」江戸の浮世絵師安藤広重の句に、
菜の花やけふも上總のそこ一里
という句があるが、この句に関わって鋸南町の公式HP内「町報歴史資料館」のページに以下の記載がある。
《引用開始》
嘉永5年(1852)2月25日から3月7日、広重56歳、再び房総旅行に出ました。まず鹿野山を参詣してから外房に出て、小湊誕生寺、清澄山を訪れた後、江見和田を通って内房に出ました「(三月五日)朝、画少認夫より馬にて那古まで行く、道間違にて田舎道一里程そん木の根坂峠の風景よし、一部の宿昼休、又また馬にて行く勝山風景よし、保田羅漢寺参詣(日本寺)、金谷の宿泊、房州の人六人相宿、不計図画のことあり、大勢色々雑談あり、其夜雨、朝まで降」
金谷の宿で旅の夜長、相部屋の旅人と絵について熱心に語り合っている広重。この時の旅のスケッチから「房州保田の海岸」をはじめ多くの傑作版画が生まれました。
翌日、天神山村(竹岡)から木更津までの乗合船は雨で欠航、しかたなく大急ぎで陸路、木更津まで向かいましたが、一足違いで江戸行きの船には間に合いませんでした。「葉桜や木更津船ともろともに乗りおくれてぞ眺めやりけり 菜の花やけふ(今日)も上総のそこ一里」
これは日記に書かれたこの時の広重の心情を詠んだ句です。急ぐ広重が行き交う村人に木更津までの道のりを尋ねると、行けども行けども「そこ一里だよ」という答えしか返ってきません。「そこ一里」とは上総地方独特のあいまいな距離表現で、あと少しという意味だそうで、それを知らない広重の憤慨した顔が目に浮かぶようです。
《引用終了》
♡「私にはさうして步いてゐる意味が丸で解らなかつた位です。私は冗談半分Kにさう云ひました。するとKは足があるから步くのだと答へました」この先生とKの呼びかけと応答(コール・アンド・レスポンス)は冗談半分の軽口なんどではない。立派な禪問答である。
先生「斯くも呻吟し步(あり)く事、此れ、作麼生(そもさん)何の所爲ぞ!?――」
K 「何が爲にてもあらず。足有り。故に步く。」
少なくともKにとっては確かにそうしたものとして発せられた禪語である。]
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