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2010/07/07

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月7日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十五回

Kokoro15_11   先生の遺書

   (七十五)

 「Kの手紙を見た養父は大變怒りました。親を騙すやうな不埒なものに學資を送る事は出來ないといふ嚴しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kは又それと前後して實家から受取つた書翰も見せました。これにも前に劣らない程嚴しい詰責(きつせき)の言葉がありました。養家(ようか)先へ對して濟まないといふ義理が加はつてゐるからでもありませうが、此方(こつち)でも一切構はないと書いてありました。Kが此事件のために復籍してしまふか、それとも他(た)に妥協の道を講じて、依然養家に留まるか、そこは是から起る問題として、差し當り何うかしなければならないのは、月々に必要な學資でした。

 私は其點に就いてKに何か考があるのかと尋ねました。Kは夜學校の教師でもする積だと答へました。其時分は今に比べると、存外世の中が寬ろいでゐましたから、内職の口は貴方が考へる程拂底でもなかつたのです。私はKがそれで十分遣つて行けるだらうと考へました。然し私には私の責任があります。Kが養家の希望に背いて、自分の行きたい道を行かうとした時、贊成したものは私です。私は左右かと云つて手を拱(こまぬ)いでゐる譯に行きません。私は其塲で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳ね付けました。彼の性格から云つて、自活の方が友達の保護の下に立つより遙かに快よく思はれたのでせう。彼は大學へ這入つた以上、自分一人位(くらゐ)何うか出來なければ男でないやうな事を云ひました。私は私の責任を完(まつた)うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思ふ通りにさせて、私は手を引きました。

 Kは自分の望むやうな口を程なく探し出しました。然し時間を惜む彼にとつて、此仕事が何の位辛かつたかは想像する迄もない事です。彼は今迄通り勉强の手をちつとも緩めずに、新らしい荷を脊負つて猛進したのです。私は彼の健康を氣遣(きつか)ひました。然し剛氣な彼は笑ふ丈で、少しも私の注意に取合ひませんでした。

 同時に彼と養家との關係は、段々こん絡(がら)かつて來ました。時間に餘裕のなくなつた彼は、前のやうに私と話す機會を奪はれたので、私はついに其顛末を詳しく聞かずに仕舞ひましたが、解決の益(ます/\)困難になつて行く事丈は承知してゐました。人が仲に入つて調停を試みた事も知つてゐました。其人は手紙でKに歸國を促がしたのですが、Kは到底駄目(ため)だと云つて、應じませんでした。此剛情な所が、―Kは學年中で歸れないのだから仕方がないと云ひましたけれども、向ふから見れば剛情でせう。そこが事態を益(ます/\)險惡にした樣にも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、實家の怒りも買ふやうになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。私の手紙は一言の返事さへ受けずに葬られてしまつたのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛り上、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする氣になりました。

 最後にKはとう/\復籍に決しました。養家から出して貰つた學資は、實家で辨償する事になつたのです。其代り實家の方でも構はないから、是からは勝手にしろといふのです。昔の言葉で云へば、まあ勘當(かんたう)なのでせう。或はそれ程强いものでなかつたかも知れませんが、當人はさう解釋してゐました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに繼母(けいぼ)育てられた結果とも見る事が出來るやうです。もし彼の實の母が生きてゐたら、或は彼と實家との關係に、斯うまで隔りが出來ずに濟んだかも知れないと私は思ふのです。彼の父は云ふまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い點に於て、寧ろ武士(さむらひ)に似た所がありはしないかと疑はれます。

Line_3

 

やぶちゃんの摑み:私は、この章部分を大切にしたいと思う。何故なら、この章で先生は一緒に住んでいたKと別れて、奥さんの下宿へと引き移っていると考えるからである。実は本作では、Kとの絡みの中で、どこで別居が始まった(奥さんの下宿に引き移った)かが、不思議なことに分明でないのである。私はとりあえず、本章の第二段落の最後、「それで彼の思ふ通りにさせて、私は手を引きました。」という瞬間にそれを求めている。これは大事なことだ。何故なら、そこが先生とKとの、精神の微妙な分岐点であるからである。先生は何故、Kと別居するシーンを描かなかったのか? これは「心」の大きな謎として、今、私の中に浮上してきた。

 

◎Kのプロフィル(Ⅱ)

・Kは自尊心・自立心が強い

 →極めて自律的な存在としてのKに先生は何処かで自分にはないタイプの精神の「強さ」を見、羨ましさ(嫉妬)を抱いている

・Kが「剛情」であるのは継母(生母とは死別)に育てられた結果であろうという私の推測

 →Kには母性愛の欠損及び抑圧され変形したエディプス・コンプレクスがあると考えてよい(それは漱石の生活史と重なる)

☆先生もKも『故郷喪失者』となった事

 

「手を拱(こまぬ)いでゐる」は誤りではない。これが正しい音で、現在の「こまねく」というのは「こまぬく」が音変化したものである。 本来は「腕組みをする」ことであるが、そこから多く「腕をこまぬく」といったの形で、「何もしないで傍観する」の意となった。但し、「で」は接続助詞「て」の濁音化で、用法としては誤りである。ガ行五段活用動詞のイ音便形に接続する場合(「脱いで」「嗅いで」等)と誤って用いたものと思われる。

 

「私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。私の手紙は一言の返事さへ受けずに葬られてしまつたのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛り上、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする氣になりました」先生の手紙が何故「何の効果も」ないのか? 「一言の返事さへ受けずに葬られてしまつた」のか? 先生が「腹が立」つ程無視されたのは何故か? 先生が「それ以降は理否を度外に置いても」とことん「Kの味方をする氣に」俄然なったほど無視された理由は奈辺にあったか? 先生は書いていないが、これ、容易に想像がつくのである。同郷の幼馴染み、先生の家もKの家も財産家、檀家は違っても同じ浄土真宗檀徒であった可能性も高く、だとすれば――先生の叔父や先生の親族と、Kの実家及びKの養家が全く相互に知り合いの関係になかった可能性の方が断然低い。されば叔父の一件で故郷を出奔した直後の先生は、かの故郷で著しく評価が悪かったと考える方が自然である。先生の手紙が無視され、それどころかKと実家養家との険悪な状況に対して、「融和する」どころか『あそこの不良学生に唆された』『同じ穴の狢じゃ!』なんどと罵られ(「山で生捕られた」狢ども「が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨めるやうな」ものか)、正に火に油を注ぐ結果とさえなっていたのではなかったか、とも考えられるのである。しかしそのようなことを先生は一切書いていない。これは叔父のことを思い出すのも厭なだけではなく、先生の実は激しいノスタルジアが、故郷の現実の人々への激しい嫌悪によって完全に遮断されているからであると私は思うのである。即ち、先生は故郷憎悪故にこそ自分が介入したことで事態を悪化させていることにさえ気付いていないのだと私は思うのである(それをKが理解していたとしても、そういうことをKが先生に告げるなどということは100%考えられない。性格的にも考えられないし、そんな余裕はこの時のKには、ない)。

 

「最後にKはとう/\復籍に決しました」旧民法第四編「親族」第四章「親子」第二節「養子」の「第四款 離緣」にある第八百七十条下に(前部を略した)

離緣ノ訴ハ之ヲ提起スル權利ヲ有スル者カ離緣ノ原因タル事實ヲ知リタル時ヨリ一年ヲ經過シタル後ハ之ヲ提起スルコトヲ得ス其事字實發生ノ時ヨリ十年ヲ經過シタル後亦同シ

とある。Kの養子縁組の解消(離縁)と復籍手続がかなり一気に行われた(次章「Kの復籍したのは」大学「一年生の時でした。それから二年生の中頃になる迄、約一年半の間、彼は獨力で己れを支へて行つた」とあり、K自身の高校3年夏の手紙での養家への告白から一年以内に総てが片付いている)、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でも藤井氏がしばしば注しているように、主に法的な理由からでもあった。

 

「勘當」この時代、既に「勘當」は出来なかった(藤井氏は旧民法第四編「親族」第二章「戶主及ヒ家族」の第七百四十九条

家族ハ戶主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス

2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ戶主ノ指定シタル居所ニ在ラサル間ハ戸主ハ之ニ対シテ扶養ノ義務ヲ免ル

3 前項ノ場合ニ於テ戶主ハ相當ノ期間ヲ定メ其指定シタル場所ニ居所ヲ轉スヘキ旨ヲ催告スルコトヲ得若シ家族カ正當ノ理由ナクシテ其催告ニ應セサルトキハ戶主ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ離籍スルコトヲ得但其家族カ未成年者ナルトキハ此限ニ在ラス

の「3」にある「離籍」を提示しておられるが、藤井氏自身も推定されているように、これは有り得ない。言葉通り「復籍」して終わりで、実家と実質的経済や冠婚葬祭の連絡が絶たれ、K自身や先生から見れば「昔で言えば勘当みたようなものだ」と受け止めたに過ぎない。実質的勘当であっても実際には後に、K自殺の報知を受けて父と兄が即座に上京し、先生と面会している。Kの遺骨を引き取りに来たものである。そこで先生はKの遺骨を雑司ヶ谷に葬る提案をし、それが受け入れられる。私は永くこのKの父親は「義理堅い點に於て、寧ろ武士に似た所がありはしないかと疑はれ」るという語を養家との関係、及び子であるKの風格への暗示(Kはこの父と同じく潔く、正に武士・侍として鮮やかに自害するという点で)として理解して来たが、今回、これは実はこのKの埋葬に関わる部分への伏線(「Kを、私が萬事世話して來たという義理」(百四)もあって先生の提案を許諾したという下りへの)でもあったのだということに、今更、気いた。

 

♡「彼の父は云ふまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い點に於て、寧ろ武士に似た所がありはしないかと疑はれます」侍に似ているKの父――それは侍のように潔く自決してゆくKの面影でもあるのではあるまいか。]

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