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2010/07/02

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月2日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十回

Kokoro14_8    先生の遺書

    (七十)

 「私は相變らず學校へ出席してゐました。然し敎壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるやうな心持がしました。勉强も其通りでした。眼の中へ這入る活字は心の底迄浸み渡らないうちに烟の如く消えて行くのです。私は其上無口になりました。それを二三の友達が誤解して、冥想に耽つてでもゐるかのやうに、他の友達に傳へました。私は此誤解を解かうとはしませんでした。都合の好(い)い假面を人が貸して吳れたのを、却て仕合せとして喜びました。それでも時々は氣が濟まなかつたのでせう、發作的に焦燥(はしや)ぎ廻つて彼等を驚ろかした事もあります。

 私の宿は人出入の少い家でした。親類も多くはないやうでした。御孃さんの學校友達がときたま遊びに來る事はありましたが、極めて小さな聲で、居るのだか居ないのだか分らないやうな話をして歸つてしまひました。それが私に對する遠慮からだとは、如何な私にも氣が付きませんでした。私の所へ訪ねて來るものは、大した亂暴者でもありませんでしたけれども、宅の人に氣兼をする程な男は一人もなかつたのですから。そんな所になると、下宿人の私は主人(あるじ)のやうなもので、肝心の御孃さんが却つて食客(ゐさふらふ)の位地(ゐち)にゐたと同じ事です。

 然しこれはたゞ思ひ出した序に書いた丈で、實は何うでも構はない點です。たゞ其處に何うでも可くない事が一つあつたのです。茶の間か、さもなければ御孃さんの室で、突然男の聲が聞こえるのです。其聲が又私の客と違つて、頗ぶる低いのです。だから何を話してゐるのか丸で分らないのです。さうして分らなければ分らない程、私の神經に一種の昂奮を與へるのです。私は坐つてゐて變にいら/\し出します。私はあれは親類なのだらうか、それとも唯の知り合ひなのだらうかとまづ考て見るのです。夫から若い男だらうか年輩の人だらうかと思案して見るのです。坐つてゐてそんな事の知れやう筈がありません。さうかと云つて、起(たつ)て行つて障子を開けて見る譯には猶行きません。私の神經は震へるといふよりも、大きな波動を打つて私を苦しめます。私は客の歸つた後で、屹度忘れずに其人の名を聞きました。御孃さんや奥さんの返事は、又極めて簡單でした。私は物足りない顏を二人に見せながら、物足りる迄追窮する勇氣を有つてゐなかつたのです。權利は無論有つてゐなかつたのでせう。私は自分の品格を重んじなければならないといふ敎育から來た自尊心と、現に其自尊心を裏切してゐる物欲しさうな顏付とを同時に彼等の前に示すのです。彼等は笑ひました。それが嘲笑の意味でなくつて、好意から來たものか、又好意らしく見せる積なのか、私は卽坐に解釋の餘地を見出し得ない程落付を失つてしまふのです。さうして事が濟んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです。

 私は自由な身體(からだ)でした。たとひ學校を中途で己(や)めやうが、又何處へ行つて何う暮らさうが、或は何處の何者と結婚しやうが、誰とも相談する必要のない位地に立つてゐました。私は思ひ切つて奥さんに御孃さんを貰ひ受ける話をして見やうかといふ決心をした事がそれ迄に何度となくありました。けれども其度每に私は躊躇して、口へはとう/\出さずに仕舞つたのです。斷られるのが恐ろしいからではありません。もし斷られたら、私の運命が何う變化するか分りませんけれども、其代り今迄とは方角の違つた塲所に立つて、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて來るのですから、其位(くらゐ)の勇氣は出せば出せたのです。然し私は誘(おび)き寄せられるのが厭でした。他(ひと)の手に乘るのは何よりも業腹でした。叔父に欺まされた私は、是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心したのです。

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やぶちゃんの摑み:「然し敎壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるやうな心持がし」、「勉强」にも同様に実が張らない。「眼の中へ這入る活字は心の底迄浸み渡らないうちに烟の如く消えて行く」ように感じて、更に「無口にな」る――集中力の減衰と不定愁訴、対人忌避、そして「時々は氣が濟まなかつた」からか、「發作的に焦燥ぎ廻つて」「周囲の者を「驚ろかした」というのは典型的な躁鬱病の様態を示している。この病識が果してその当時の先生にあったものか、現在の遺書を書く、このような躁鬱状態からある程度抜け出た、ある程度健全な精神状態にある先生の過去の自分による観察であるのかは微妙に留保される(「それでも時々は氣が濟まなかつたのでせう」という推量部)のだが、私は当時の先生には相応な病識(重篤な鬱状態ではなく)があったと考える。無口になった先生のことを「二三の友達が誤解して、冥想に耽つてでもゐるかのやうに、他の友達に傳へ」、その友人がそれを教えてくれた時に、先生は「は此誤解を解かうとは」せず、逆に「都合の好い假面を人が貸して吳れたのを、却て仕合せとして喜」んでいる点がその証左と言い得るように思われる。

 

「御孃さんの學校友達がときたま遊びに來る」という叙述から、私は靜の女学校が家から徒歩圏内にあると推定している。そしてそれは東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)ではないかと思うのである。これは実はある別な私の推論から導き出される推定でもある。それは第(百)回の先生の謎の「いびつな圓」に纏わる私の或る推論からである。今回の「やぶちゃんの摑み」を執筆するに際して、私はいろいろなオリジナルな角度からこれを書こうと思ったのは言うまでもない。その中でも未だに自分で腑に落ちない箇所を何とか解析して見たいという欲求は大きい。中でも私にとって大きなそれは多様な意味を持っていると思われる先生の謎の円運動にある。その中でも特に私が気になってしょうがないのは漱石が確信犯で示すところの第(百)回に現われる円であった。該当箇所を第九十九回の終わりから復元して(百回の頭の鉤括弧を除いて連結)見てみよう。言わずもがな、Kを出し抜いて奥さんに御嬢さんを呉れろと話した、その日の午後のシーンである。

 

   *

 

 私は午頃又茶の間へ出掛けて行つて、奥さんに、今朝(けさ)の話を御孃さんに何時通じてくれる積かと尋ねました。奥さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何んだか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可(い)い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。さうして貰ふ方が都合が好いと答へて又自分の室に歸りました。然し默つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被つて表へ出ました。さうして又坂の下で御孃さんに行(い)き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脫(と)つて「今御歸り」と尋ねると、向ふではもう病氣は癒つたのかと不思議さうに聞くのです。私は「えゝ癒りました、癒りました」と答へて、ずん/\水道橋(すゐだうはし)の方へ曲つてしまひました。

 私は猿樂町から神保(じんはう)町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私が此界隈を步くのは、何時も古本屋をひやかすのが目的でしたが、其日は手摺(てずれ)のした書物などを眺める氣が、何うしても起らないのです。私は步きながら絕えず宅の事を考へてゐました。私には先刻の奥さんの記憶がありました。夫から御孃さんが宅へ歸つてからの想像がありました。私はつまり此二つのもので步かせられてゐた樣なものです。其上私は時々往來の眞中で我知らず不圖立ち留まりました。さうして今頃は奥さんが御孃さんにもうあの話をしてゐる時分だらうなどと考へました。また或時は、もうあの話が濟んだ頃だとも思ひました。

 私はとう/\萬世橋を渡つて、明神(みやうしん)の坂を上つて、本鄕臺へ來て、夫から又菊坂を下りて、仕舞に小石川の谷へ下りたのです。私の步いた距離は此三區に跨がつて、いびつな圓を描いたとも云はれるでせうが、私は此長い散步の間殆どKの事を考へなかつたのです。今其時の私を回顧して、何故だと自分に聞いて見ても一向分りません。たゞ不思議に思ふ丈です。私の心がKを忘れ得る位(くらゐ)、一方(はう)に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかつたのですから。

 

   *

 

 私は若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の巻末に収載されている「三区にまたがるいびつな円」(森鷗外立案『東京方眼図』より、明治42)」を凝っと見つめてみた。これは藤井氏が該当地図に先生の歩いたルートを太字で記したものである。このいびつな円の中心になりそうなランドマークは何か? 江戸切絵図まで持ち出して考えてみたりしたが、矢張りこの森鷗外の地図に立ち帰った。そこで俄然心附いたのである。いびつな円の中心は駿河台であるが、その東北には東京女子高等師範学校がある。そしてそこには嘗て同附属高等女学校があった。即ち、

 

『いびつな円=楕円の一方の焦点は靜が通っている女学校ではなかったか』

 

と考えるのである(もっと一方の焦点に近い位置には猿楽町があり、ここには高等女子仏英和学校があるが、第(三十五)回で、先生が自分が死んだらという仮定を語る場面、先生が「おれの持つてるものは皆な御前に遣るよ」と言うのに対して、靜が「何うも有難う。けれども橫文字の本なんか貰つても仕樣がないわね」と答えるところが、どうも「仏英和学校」とは合わないという気を起こさせるのである)。勿論、靜は既に学校帰りの稽古(琴か花か。琴は出張教授であったことから、ここは花か? 何れにせよ私は、この稽古の師匠の家さえも東京女子高等師範学校附属高等女学校の近くであった、このいびつな円の内にあったと仮定したい)も終えて、先生と冨坂下で出逢ってはいる。従って家に帰ってはいる。しかしこの「いびつな円」を「楕円」と解すれば、御嬢さんの日常的生活の半ばを支配する女学校を一方の焦点とすれば、その反対の焦点を残りの生活圏である実家と捉えることが可能である。そしてその時Kがいる東京帝国大学はこの円の北方にあり、その圏内から完全に疎外遮断されているのである。即ち、先生は無意識に『御嬢さんという存在』を自身のこの楕円の圏内に捕(つら)らまえていると言えないだろうか?――これはあくまで現在の私の思いつきに過ぎず、また私自身で変更を加えるかも知れないが、今、私の意識を捉えて放さない強迫観念ではあるのである。因みに、この「いびつな圓」は実は「心」という字の草書体に酷似してもいるのである。

 

「食客(ゐさふらふ)」居候の当字。

 

「たゞ其處に何うでも可くない事が一つあつたのです。茶の間か、さもなければ御孃さんの室で、突然男の聲が聞こえるのです。其聲が又私の客と違つて、頗ぶる低いのです。だから何を話してゐるのか丸で分らないのです。さうして分らなければ分らない程、私の神經に一種の昂奮を與へるのです。私は坐つてゐて變にいら/\し出します。私はあれは親類なのだらうか、それとも唯の知り合ひなのだらうかとまづ考て見るのです。夫から若い男だらうか年輩の人だらうかと思案して見るのです。坐つてゐてそんな事の知れやう筈がありません。さうかと云つて、起て行つて障子を開けて見る譯には猶行きません。私の神經は震へるといふよりも、大きな波動を打つて私を苦しめます。私は客の歸つた後で、屹度忘れずに其人の名を聞きました。御孃さんや奥さんの返事は、又極めて簡單でした。私は物足りない顏を二人に見せながら、物足りる迄追窮する勇氣を有つてゐなかつたのです。權利は無論有つてゐなかつたのでせう。私は自分の品格を重んじなければならないといふ教育から來た自尊心と、現に其自尊心を裏切してゐる物欲しさうな顏付とを同時に彼等の前に示すのです。彼等は笑ひました。それが嘲笑の意味でなくつて、好意から來たものか、又好意らしく見せる積なのか、私は即坐に解釋の餘地を見出し得ない程落付を失つてしまふのです。さうして事が濟んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです」ここで先生は、自身の行動が奥さんや靜にとって、靜を占有したいという彼女に対する見え見えの恋愛感情嫉妬心の表明となってしまっていることを、全く意識していない点で極めて特異である。奥さんや靜が先生を将来の婿候補として捉えて、そのような方向に進行させようと動くに違いないという当然の成り行きに、全く気がついていないのである。また、先生は彼等の答えが「又極めて簡單で」、その男が靜とどのような関係にあるかを全く伝えてくれない答えであったから、私には甚だ不満足で、そうした「物足りない顏を二人に見せながら、物足りる迄追窮する勇氣を有つてゐなかつた」「權利は無論有つてゐなかつた」と言うのである。奇妙な謂いである。少なくともその簡単な答えの内容を示すべきだのに、それがない分、如何にも変である。その上、「私は自分の品格を重んじなければならないといふ教育から來た自尊心と、現に其自尊心を裏切してゐる物欲しさうな顏付とを同時に彼等の前に示」さざるを得なかったと大上段に振りかぶった事大主義的表現がそれに続くのだから、読者は奇異に思わざるを得ない。それどころか、そんな変な先生を、変な先生として「彼等は笑」ったに過ぎないのに、「それが嘲笑の意味でなくつて、好意から來たものか、又好意らしく見せる積なのか、私は即坐に解釋の餘地を見出し得ない程落付を失」わせるような笑いだったと言うのである。いや、そこには明らかに『あら、この人焼いてるのかしら?』というニュアンスの笑いがあったであろう。そして、そのような女の感覚を先生は激しく嫌ったことは事実であり、それは分からないではない。しかし先生は、そのような判断不能であるはずの印象から、ネガティヴな「いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうか」という解釈だけを選択的に取り出し、「何遍も心のうちで繰り返」して心傷として刻み込むのである。このシーン、奥さんと靜の無気味な笑い顔の目と唇、歯のアップである――まるでその無気味さを映像的に抽出するために書かれているようなこの部分、私にはやはり先生の尋常でない病的な被害妄想を感じさせると言わざるを得ない。

 

「私は思ひ切つて奥さんに御孃さんを貰ひ受ける話をして見やうかといふ決心をした事がそれ迄に何度となくありました。けれども其度每に私は躊躇して、口へはとう/\出さずに仕舞つたのです。斷られるのが恐ろしいからではありません。もし斷られたら、私の運命が何う變化するか分りませんけれども、其代り今迄とは方角の違つた塲所に立つて、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて來るのですから、其位の勇氣は出せば出せたのです。然し私は誘き寄せられるのが厭でした。他の手に乘るのは何よりも業腹でした。叔父に欺まされた私は、是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心したのです」ここは「心」の強力な摑みの部分である、と私は思っている。先生は人間社会の人的交流が多かれ少なかれ駆け引きの産物であることを認識していない。だから尊いとも言えるのであり、私(これは「私」であり、やぶちゃんでもあり、今これを読んでいるあなたでもある)が先生に惹かれる理由もそこにあるのであるが、問題はそうした自己本位の世界の保守と実践は、容易に偏狭な利己主義の合理化に繋がる危険性を孕んでいるという一点に先生は気づいていない。「誘き寄せられるのが厭」「他の手に乘るのは何よりも業腹」「是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心した」先生は後に遂に、自らを信頼しているKを「誘き寄せ」、「手に乘」せ、「欺ま」すことになるからである。先生は勿論、その自己矛盾に気づいた。しかしその直後、Kは自死したのであった。

 

――以下は聞き流して戴こう。

 

私自身が

 

――「是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心」する――

 

……それとほぼ相同な決心をしたことが若き日にあったことを告白する。

 

……中学2年の時、私は或る女生徒に恋をした。しかし告白した彼女からは

 

「ごめんなさい。さようなら。」

 

とだけ書いた手紙を貰った。自殺も考えた。……幸い、失恋で自殺した青年の生活史を新聞記者が追うさまを描いた如何にもクサい小説を書いて切り抜けた。……

 

……それから十年後のことである。神奈川で教員になった私が夏休みに両親の住む田舎へ帰ったところ、母が

 

「……あんたに縁談話が来てるんだけど……」

 

と言った。

 

 妙に語頭も語尾も濁すのが気になった。

 

 聞けば、それは私の親友の母から持ち込まれたものであった(その頃、公立高校の教師は安定した職業として田舎では婿の職業としては相応に評価されていた)。

 

……ところが、その相手の名を母から聞いた瞬間、私は愕然としたのだ――

 

「……実はあんたが昔好きだったっていう○○○子さんっていう人なんだけど……」

 

――それは、あの「ごめんなさい。さようなら。」とだけ別れの手紙を送りつけた女だった。……

 

私は

 

「はっきりと断って下さい。」

 

と吐き捨てるように母に答えたのは言うまでもない。

 

……そして

……そして私はその時、正に

 

「是から先何んな事があつても、」女「には欺まされまいと決心」したのだ――

 

……そうして

……しかし私はそれをその後忠実に貫いた故に……

……その仔細は語れぬが、結果として多くの女性を悲しませる結果となった、と今の私は、痛感している……

……だからと言って『欺すぐらいなら欺されるほうが好い』なんどというキリスト教的噴飯博愛主義を私は訴えたいのでは、毛頭ない……

……ただ私は……

 

――「人には欺まされまい」という対意識は既にして他者そして『自己自身でもある』ところの『人』を欺まさんとすることと相同である――

 

と……思うのである、とだけ言っておこう……]

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