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2010/07/25

耳嚢 巻之三 貒といへる妖獸の事

「耳嚢 巻之三」に「貒といへる妖獸の事」を収載した。

 

 

 貒といへる妖獸の事

 暫く御使番を勤(つとめ)病氣にて退役せし松野八郎兵衞といへるは、屋敷番町にてありしが、天明六午年の春、右屋敷へ妖怪出しと專らの沙汰有しに、八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤けるに眞僞を尋しに、彼者も松野方を退(しりぞき)し後なるが、古傍輩成し者に聞しが相違なし。或夜屋敷内を廻りし中間へ飛付くものあり。右中間棒にて打拂ひけるに、棒へ喰付などしける故、驚きて給人(きふじん)勤たる中村作兵衞といへる者の長屋へ缺入ぬ。作兵衞も早速駈出て見るに、犬よりは餘程大く、眼は日月のごとくその色鼠の如くにて、杖などにて打候ば蟇の背を敲く樣に有しが、追々人出て追散らしけるが、境成る大藪の内へ入り、闇夜にはあり行衞を失ひし由。其後は絶て出ざりしが、如何成ものなるや、マミと言る者也と或人いひしが、さることもあるやと語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。

・「貒」「まみ」と読む。猯。「魔魅」で妖獣の意。アナグマ。「狸穴」で「まみあな」と読ませることからも分かる通り、通常の哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科タヌキNyctereutes procyonoides を指すこともあるが、当時の江戸市中や近郊でタヌキが稀であったとは思われないので、食肉(ネコ)目イタチ科アナグマ亜科アナグマ属ニホンアナグマ Meles meles anakuma に同定しておく。日本穴熊。まずは幼獣としての記載をウィキの「(「貒」と同義。「まみ」と読む)から引用(記号の一部を変更した)し、その後に「ニホンアナグマ」について同じくウィキから引用する。『民俗学者・日野巌による「本妖怪変化語彙」によれば、マミはタヌキの一種とある』。『東京都の麻布狸穴町の「狸」を「まみ」と読むことからも、猯が狸と同一視されていたことがわかる』。『一方で江戸時代の百科事典「和漢三才図会」では、「猯」は「狸」とは別種の動物として別々に掲載されている』。『同書では中国の本草学研究書「本草綱目」からの引用として、山中の穴に住んでいる肥えた獣で、褐色の短い毛に体を覆われ、耳が聞こえず、人の姿を見ると逃げようとするが行動は鈍いとある。またその肉は野獣の中でも最も甘美で、これを人が食べると死に瀕した状態から治ることができるともある』。『江戸時代にはこの猯、狸、そしてムジナが非常に混同されていたが、これはアナグマがムジナと呼ばれていたところが、アナグマの外見がタヌキに似ており、さらに「貉(むじな)」の名が日本古来から存在したところへ、中国で山猫が「狸」の名で総称されていることが知れ渡ったことから混乱が生じたものとされる』。『またムササビ、モモンガも「猯」と呼ばれたことがある』。『西日本に伝わる化け狸・豆狸は、この猯のことだともいう』。『また江戸時代の奇談集「絵本百物語」によれば、猯が老いて妖怪化したものが同書にある妖怪・野鉄砲とされる』。『同じく江戸時代の随筆「耳嚢」3巻では、江戸の番町に猯が現れたとあり、大食は鼠色、目は太陽か月のようで、杖でたたくとガマガエルの背のような感触だったという』。これは勿論、本記載のこと。『「まみ」の発音が似ていることから、人をたぶらかす妖魔、魔物の総称を意味する「魔魅」の字があてられることもある』。以上、「貒」。以下、ウィキの「ニホンアナグマ」から引用する。『アナグマ Meles meles の日本産亜種。独立種とする説もある』。分布域は『本州、四国、九州』。『体長40-50cm。尾長6-12cm(地域や個体差により、かなり異なる)。体重4-12kg。指は前肢、後肢ともに5本あり、親指はほかの4本の指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。 里山に棲息する。11月下旬から4月中旬まで冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある。食性はタヌキとほとんど同じであるが』、『木の根やミミズなども掘り出して食べる。巣穴は自分で掘る。ため糞』『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』。『1日の平均気温が10℃を超える頃になると冬眠から目覚める。春から夏にかけては子育ての時期であり、夏になると子どもを巣穴の外に出すようになる。秋になると子どもは親と同じくらいの大きさまで成長し、冬眠に備えて食欲が増進し、体重が増加する。秋は子別れの時期でもある。冬季は約5ヶ月間冬眠するが、睡眠は浅い』。『秋は子別れの時期であるが、母親はメスの子ども(娘)を1頭だけ残して一緒に生活し、翌年に子どもを出産したときに娘に出産した子どもの世話をさせることがある。娘は母親が出産した子どもの世話をするだけでなく、母親用の食物を用意することもある。これらの行為は娘が出産して母親になったときのための子育ての訓練になっていると考えられる』。『巣穴は地下で複雑につながっており、出入口が複数あり、出入口は掘られた土で盛り上がっている。巣穴の規模が大きいため巣穴全体をセットと呼び、セットの出入口は多いものでは50個を超えると推測される。セットは1頭の個体のみによって作られたのではなく、その家族により何世代にもわたって作られている。春先になると新しい出入口の穴が数個増え、セット全体の出入口が増えていく。巣穴の出入口の形態は、横に広がる楕円形をしていて、出入口は倒木や樹木の根、草むらなどで隠されている。巣穴の掘削方法は、穴の中から前足で土を押し出し、押し出したあとにはアクセストレンチと呼ばれる溝ができる。セットには崖の途中などに突然開いている裏口のような穴が存在することもある』。『巣材として草を根から引き抜いて使用していると推測される。 巣材が大雨などで濡れると、昼に穴の外に出して乾燥させて夜に穴に戻す、という話もある』。記載がないが、成獣はかなり凶暴である。猶、山犬の類も含むようであるが、番町という町中でもあり、描写の生態からはアナグマでよいと思われる。現代なら食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン Paguma larvata も挙げられようが、ウィキの「ハクビシン」によれば、ハクビシンの国内棲息の最初の確実な報告は1945年(静岡県)で、『明治時代に毛皮用として中国などから持ち込まれた一部が野生化したとの説が有力であり、それ以前の古文書における生息の記載』『や、化石記録が存在しないことから、外来種と』する考え方を支持し、同定候補には挙げない。

・「御使番」使番。ウィキの「使番」から一部引用する。『古くは使役(つかいやく)とも称した。その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。これがそのまま江戸幕府』『においても継承された』。『若年寄の支配に属し、役料500石・役高は1,000石・布衣格・菊之間南際襖際詰であった』。『元和3年(1617年)に定制化されたが、皮肉にもその後島原の乱以外に大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する事とな』り、『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』。

・「松野八郎兵衞」岩波版長谷川強氏注に、『助喜(すけよし)。天明四年(一七八四)御使番。同五年寄合。』とある。

・「天明六午年」西暦1786年。干支は丙午(ひのえうま)。根岸は佐渡奉行として佐渡に赴任中のことであったが、直接体験過去の助動詞「き」が用いられている。これは本文にあるように「八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤ける」ということから納得出来る。因みに、この吉田某は所謂、渡り中間であったものと思われる。

・「給人」ウィキの「給人」によると、『江戸時代、諸藩における藩士の家格・家柄の一つ』及び『江戸時代、徴税吏の総称として、給人という語を使用することがあった』とある。ここで根岸は松野八郎兵衞屋敷の給人格であった中村作兵衞の前者の謂いで用いているように思われる。一応、以下にウィキの記載を引用しておく。『武士は、土地に対する執着が強く、わずか数十石であっても、自分の領地を持つことを望む傾向があった。戦国時代には、己の知行する土地を持たずに、俸禄を受けている武士は、下級武士と考えられていた。しかし、小領主の場合は、収穫が安定せずに、イナゴ・穀象虫などの害虫・風害・水害・冷害などの天変地異で困窮することが珍しくなかった。また、給人は知行地へ自由に行くことや水干損の立見、知行地の農民を使役する権限を有しており、村方にとって迷惑であると訴願される藩もあった』。『江戸時代になると、諸藩の藩主は、強大な統治権を得るために、家臣の知行を、土地を直接給付して独自に徴税を行わせる地方知行制から、藩が一括して徴税した米を中心とした農産物を家臣に給付して、その一部を商人を通じて換金させる蔵米知行制に転換することを目指した』。『この改革は、また基本的に江戸時代は武士が城下町に居住するようになると、城下から見て知行地が遠隔地になっている場合は藩士にとってもわざわざ知行地に赴くのは手間で、災害の時でも安定して収入を得られるのでこれに従う藩士もいるが、反面に、特に弱体化されることを恐れた上級家臣を中心に反感が強く、実質減封となる場合もあったので、中堅以下の家臣であってもこれを嫌う藩が存在し、この転換を断行・あるいは企図したために、藩政が混乱して、お家騒動の背景の一つとなることもよくあった。代表例としては高田藩の越後騒動や、仙台藩の伊達騒動がある』。『他方で同じ越後国でも転封以降、分散地方知行制度や相給を採っていた越後長岡藩や新発田藩では蔵米知行化が比較的スムーズに進行した』。以下、「藩内の位置づけ」の項。『蔵米知行制に転換した諸藩にあって、本来であれば、知行を与えられる格式を持つ武士に対して、給人という呼称や、給人という格式の家格を、栄誉的に与えたのである。江戸時代に、給人を名乗る格式の藩士は、一般に「上の下」とされる家柄の者である。給人より格上の呼称を持つ藩士は、その格式を家格として称したので、通常は、給人という呼称は用いなかった。幕府が諸藩を指導して給人という呼称を用いさせたり定着させようとした事実はないにも関わらず、多くの諸藩には、給人または給人席という身分・家格が存在した。なお米沢藩では給人のことを「地頭」と呼称していた』。

・「長屋へ缺入ぬ」底本では「缺」の右に『(駈)』と注記する。

■やぶちゃん現代語訳

 マミという妖獣の事

 暫く御使番を勤めたが、病気により退役致いた松野八郎兵衛という御人は、その屋敷が番町に御座ったが、天明六年牛年の春のこと、この屋敷に妖怪が出たと専らの噂であった。

 以前、八郎兵衛のもとに勤めて御座った吉田某なる者、後に私のもとに仕えることとなった折り、その真偽を尋ねたところ、

「……実はその事件が起きた時には、私も既に松野殿を退いて他家へ移っておりましたが、古い傍輩であった者から詳しく聞きましたが、これ、違い御座いません。……

 ……ある夜のことにて御座る。

 ……屋敷内を見回っておった中間に、突如、何やらん、飛び着いてきたので御座る。その中間、吃驚して、持っていた棒で払いのける――と、そ奴、その棒へ食いつきますから――また吃驚、中間は屋敷内の給人であった中村作兵衛という御人の長屋に駆け込みました……。

 ……作兵衛も早速に表へ駆け出して、そ奴を見れば――これがまあ、犬よりは余程大きく――目は日月の如、爛々と輝き――その全体の色は鼠のようでありました……。

 作兵衛が杖などでもって打ち据えてみますると――ぼんぼんと蟇蛙(ひき)の背を叩くような感じで御座いました――そのうちに屋敷内の者どもが集まって来て追い散らしたところが……隣の屋敷との境に御座った大藪の内へと逃げ込みました。……

 ……闇夜なれば……行方も知れず……またその後は二度と現れなかったそうですが……果たして、一体如何なるものであったものか……『それは「マミ」というものだ』とある人が申しておりましたが、そういう物の怪もあるものでしょうか……」

と語って御座った。

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