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2010/07/05

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月5日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十三回

Kokoro15_8   先生の遺書

   (七十三)

 「私は其友達の名を此處にKと呼んで置きます。私はこのKと小供(ことも)の時からの仲好でした。小供(ことも)の時からと云へば斷らないでも解つてゐるでせう、二人には同鄕の緣故があつたのです。Kは眞宗の坊さんの子でした。尤も長男ではありません、次男でした。それである醫者の所へ養子に遣られたのです。私の生れた地方は大變本願寺派の勢力の强い所でしたから、眞宗の坊さんは他のものに比べると、物質的に割が好かつたやうです。一例を擧げると、もし坊さんに女の子があつて、其女の子が年頃になつたとすると、檀家のものが相談して、何處か適當な所へ嫁に遣つて吳れます。無論費用は坊さんの懷から出るのではありません。そんな譯で眞宗寺は大抵(だいてい)有福(いうふく)でした。

 Kの生れた家も相應に暮らしてゐたのです。然し次男を東京へ修業に出す程の餘力があつたか何うか知ません。又修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏まつたものか何うか、其處も私には分りません。兎に角Kは醫者の家へ養子に行つたのです。それは私達がまだ中學にゐる時の事でした。私は敎塲で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に變つてゐたので驚ろいたのを今でも記憶してゐます。

 Kの養子先も可なりな財產家でした。Kは其處から學資を貰つて東京へ出て來たのです。出て來たのは私と一所でなかつたけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。其時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にゐました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨(にら)めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中(なか)では、天下を睥睨(へいげい)するやうな事を云つてゐたのです。

 然し我々は眞面目でした。我々は實際偉くなる積でゐたのです。ことにKは强かつたのです。寺に生れた彼は、常に精進といふ言葉を使ひました。さうして彼の行爲動作は悉くこの精進の一語で形容されるやうに、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬してゐました。

 Kは中學にゐた頃から、宗敎とか哲學とかいふ六づかしい問題で、私を困らせました。是は彼の父の感化なのか、又は自分の生れた家、卽ち寺といふ一種特別な建物(たてもの)に屬する空氣の影響なのか、解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遙に坊さんらしい性格を有つてゐたやうに見受けられます。元來Kの養家(やうか)では彼を醫者にする積で東京へ出したのです。然るに頑固な彼は醫者にはならない決心をもつて、東京へ出て來たのです。私は彼に向つて、それでは養父母を欺くと同じ事ではないかと詰りました。大膽な彼は左右だと答へるのです。道のためなら、其位(くらゐ)の事をしても構はないと云ふのです。其時彼の用ひた道といふ言葉は、恐らく彼にも能く解つてゐなかつたでせう。私は無論解つたとは云へません。然し年の若い私達には、この漠然とした言葉が尊(たつ)とく響いたのです。よし解らないにしても氣高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行かうとする意氣組(いきくみ)に卑しい所の見える筈はありません。私はKの說に賛成しました。私の同意がKに取つて何の位有力であつたか、それは私も知りません。一圖な彼は、たとひ私がいくら反對しやうとも、矢張自分の思ひ通りを貫いたに違ひなからうとは察せられます。然し萬一の塲合、賛成の聲援を與へた私に、多少の責任が出來てくる位の事は、子供(ことも)ながら私はよく承知してゐた積です。よし其時にそれ丈の覺悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起つた塲合には、私に割り當られただけの責任は、私の方で帶びるのが至當になる位な語氣で私は賛成したのです。

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やぶちゃんの摑み:「K」とは誰か? 実はこれはトリック・スターではないか? 「我輩は猫である」の先生は「苦沙彌先生」でK、「坊つちやん」の「清」もK、そして漱石の本名も夏目金之助で「K」である。

 

◎Kのプロフィル(Ⅰ)

・同郷(新潟)の幼馴染みで浄土真宗の僧侶の次男

 →実家は(先生と同じく)財産家。

・医者の家に養子に行く

 →当然のこととして養家の跡継ぎとして医者にならねばならない。

・Kは「強い」

 →我々は二人とも「真面目」であったが彼は私より遙かに「強い」。

・Kは常に「精進」という言葉を使用

 →寺に生れたからでもあるが、Kは実際の僧よりも遙かに僧らしい性格であった。

・Kは実生活に於いてもその「精進」を完全実践

 →私はそんなKを内心畏敬していた。

・Kは中学時代から宗教・哲学を好んで語った

 →そうした関心の主因が僧である父の直接の影響なのか、それとももっと血脈的な彼の属した寺という家系に属すものであるかは定かではないが、兎も角私には難しい問題ばかりで困らせられた。

・Kは「道のためなら」養父母を欺いても構わないと公言

 →医師になる気は全くない。「道のため」の学問を自律的に選び取る覚悟を持つ。

 

 なお、この前回とこの回のみ、最後の飾罫が上の通り、明らかに白ヌキのものに変わっている。

 

「私の生れた地方は大變本願寺派の勢力の强い所」本願寺派は親鸞の墓所大谷廟堂(現・大谷本廟)を発祥とする本願寺=西本願寺=「お西さん」を本山とする浄土真宗の最大派閥である。建永2(1207)年、後鳥羽上皇による専修念仏の停止(ちょうじ)及び不良僧善綽房らの死罪、宗祖法然と弟子親鸞らの流罪の宣旨が下されて、親鸞は越後国国府(現・新潟県上越市)に配流された。5年後の建暦元(1211)年に順徳天皇より勅免の宣旨が下るが、そのまま建保2(1214)年の東国布教出立まで、親鸞はここに約7年間留まっている(その間、土地の豪族越後三善氏の娘恵信尼(えしんに)と結婚している)。ここの叙述からは新潟県長岡市与板町与板にある新潟別院周辺がイメージされる。与板第8代藩主井伊右京亮直経の発願に始まる由緒ある別院である。

 

「東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました」この事実はしっかりと押さえておかなくてはならない。先生は東京に出て、叔父との一件を経た後、Kと分かれてあの下宿に引き移る高等学校3年間はKをルーム・メイトとして一緒に住んでいたのである。

 

「山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中では、天下を睥睨するやうな事を云つてゐたのです」私の好きな一節である。「睨める」がやや気になる向きもあろうが、これは文語が入り込んでいるからで、「睨む」という口語のマ行五段活用の動詞の未然形に、文語の完了(ここでは存続)の助動詞「り」の連体形(接続は命令形)が付いたもので「睨んでいる」の意である。「天下を睥睨する」はこれでで成句で、にらみつけて勢いを示す、威勢を張るの意。私のイメージの中にアマラとカマラ(現在は彼等狼少女は事実ではないとされるが)のように抱き合っている裸の先生とKの映像が浮かぶ――それは決して気味の悪いものではない――少年愛である――先生とKとの精神的な若衆の蜜月の時代の面影なのである――。

 

「よし其時にそれ丈の覺悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起つた塲合には、私に割り當られただけの責任は、私の方で帶びるのが至當になる位な語氣で私は賛成したのです」先生がこの遺書で最初に用いる「覺悟」の語である。]

 

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