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2010/07/21

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月21日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十九回

Kokoro15_4   先生の遺書

   (八十九)

 「斯んな譯で私はどちらの方面へ向つても進む事が出來ずに立ち竦(すく)んでゐました。身體(からだ)の惡い時に午睡(ひるね)などをすると、眼だけ覺めて周圍のものが判然(はつきり)見えるのに、何うしても手足の動かせない塲合がありませう。私は時としてあゝいふ苦しみを人知れず感じたのです。

 其内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多(かるた)を遣るから誰か友達を連れて來ないかと云つた事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答へたので、奥さんは驚ろいてしまひました。成程Kに友達といふ程の友達は一人もなかつたのです。往來で會つた時挨拶をする位(くらゐ)のものは多少ありましたが、それ等だつて決して歌留多などを取る柄ではなかつたのです。奥さんはそれぢや私の知つたものでも呼んで來たら何うかと云ひ直しましたが、私も生憎そんな陽氣な遊びをする心持になれないので、好(よ)い加減な生返事をしたなり、打ち遣つて置きました。所が晩になつてKと私はとう/\御孃さんに引つ張り出されてしまひました。客も誰も來ないのに、内々(うちうぢ)の小人數(こにんず)丈で取らうといふ歌留多ですから頗る靜なものでした。其上斯ういふ遊技を遣り付けないKは、丸で懷手をしてゐる人と同樣でした。私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました。Kは能く知らないと答へました。私の言葉を聞いた御孃さんは、大方Kを輕蔑するとでも取つたのでせう。それから眼に立つやうにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆ど組になつて私に當るといふ有樣になつて來ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつたのです。幸ひにKの態度は少しも最初と變りませんでした。彼の何處にも得意らしい樣子を認めなかつた私は、無事に其塲を切り上げる事が出來ました。

 それから二三日經つた後(のち)の事でしたらう、奥さんと御孃さんは朝から市ケ谷にゐる親類の所へ行くと云つて宅を出ました。Kも私もまだ學校の始まらない頃でしたから、留守居同樣あとに殘つてゐました。私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつたので、たゞ漠然と火鉢(ひはち)の緣に肱(ひじ)を載せて凝(じつ)と顋(あご)を支へたなり考へてゐました。隣の室にゐるKも一向音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位靜でした。尤も斯ういふ事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかつたのですから、私は別段それを氣にも留めませんでした。

 十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました。私はもとより何も考へてゐなかつたのです。もし考へてゐたとすれば、何時もの通り御孃さんが問題だつたかも知れません。其御孃さんには無論奥さんも食付(くつつ)いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです。私は依然として彼の顏を見て默つてゐました。するとKの方からつか/\と私の座敷へ入つて來て、私のあたつてゐる火鉢(ひはち)の前に坐りました。私はすぐ兩肱(りやうびず)を火鉢(ひはち)の縁から取り除けて、心持それをKの方へ押し遣るやうにしました。

 Kは何時もに似合はない話を始めました。奥さんと御孃さんは市ケ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと敎へて遣りました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらうと質問するのです。私は何故だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。

Line_4

 

やぶちゃんの摑み:私はこの歌留多取りのシーンを明治341901)年1月3日(木)前後とし、後半のKの告白に雪崩れ込むシーンを1月5日(土)前後と推定している。

 

「どちらの方面へ向つても進む事が出來ずに立ち竦んでゐました」「どちらの方面」前章の奥さんに御嬢さんを貰い受ける話をする方法と、御嬢さんに直接プロポーズをする方法を指す。確認になるが、前者は、御嬢さんの意志が確認出来ない状況下にあって、「極めて高尚な愛の理論家」であり「尤も迂遠な愛の実際家」でもある先生には当然実行不能であったからであり、後者は先生の内部に巣食う旧態依然とした男女感覚・男女観を主な理由としながら、それを更に靜に敷衍して、彼女が素直に正直にそれに応答するとは思えなかったからだとしている訳であるが、やはりこれは先生の側の自信のなさの弁解以外には受け取れないように思われる。

 

「身體の惡い時に午睡などをすると、眼だけ覺めて周圍のものが判然(はつきり)見えるのに、何うしても手足の動かせない塲合」金縛りのこと。先生(引いては漱石)はしばしばこのような体験をしたことがあることを意味している。ウィキの「金縛り」より引用しておく。『医学的には睡眠麻痺と呼ばれる睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。不規則な生活、寝不足、過労、時差ぼけやストレスなどから起こるとされる。 脳がしっかり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっている。 ただし金縛りの起きる状態がほとんど就寝中であることから学者の説明は睡眠との関係についてである。覚醒状態においての「金縛り」というものについては科学的にはほぼ未解明であり、精神的なものに起因するとされることも多い。霊的なものを信じていない人の場合は、宇宙人に何かをされたなどという形式の認知になるという説がある』。『金縛りは、いきなり起こるわけではなく、必ず前兆がある。およそ13キロヘルツ(kHz)の"ジーン、ジーン"または"ザワザワー"とした、強い圧迫感を伴う独特の不快な前駆症状の数秒後~数分後に一瞬にして全身の随意運動が不可能となる。症状は数秒で収まるものから、30分以上に及ぶものもある。また、金縛りが解けてもすぐに前駆症状が現れ、再発することも多く、睡眠の妨げになる事も多い』。『前駆症状に気づいた時点で金縛りを回避しようと試みても、殆どの場合そのまま金縛りへと移行する』。『金縛りには、大きく分けて、閉眼型と、開眼型の二種類が存在する。ほとんどは前者のもので、実際には閉眼しているにもかかわらず、金縛りがかかる直前の室内の風景や、普段の室内の記憶が鮮明な夢となって映し出される。しかし、本人が閉眼型だと認知していない場合がほとんどである。閉眼型の特徴として、霊などの幻覚が見えたりし、恐怖感を強く感じる場合が多いことが挙げられる。ちなみに、体外離脱はこれに分類され、思春期の女性に多い。閉眼型の金縛りを自分の意思で解除する事は、ほぼ不可能である。 しかし、まれに開眼した状態での金縛りも存在する。開眼型の金縛りの特徴として、全身の随意運動を奪われるものの、嗅覚、聴覚、視覚(ただし眼球運動は不可能、もしくは不随意)が鮮明であり、金縛り状態のままテレビの視聴や車窓からの風景を鮮明に見ることも可能である』。以下、原因論が示されるが、データが示されずやや信憑性に欠く部分が認められるので注意してお読み頂きたい(但し、大変面白い!)。『睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるが、金縛りが起こるのはこのレム睡眠の時である。レム睡眠の時に夢を見るのだが、夢を見ている時には脳は活発に活動しているが、体は活動を休止している。レム睡眠は呼吸を休止させてしまうことがあり、強い息苦しさを感じたり、胸部に圧迫感を覚えることがある。他にも、他動的に四肢を動かされる感覚などを感じる場合もある。そのような不条理な状態を説明するために脳が「自分を押さえつけている人」などの幻覚・夢を作り出すと言われる』。『金縛りは、普段余り運動しない者が突然運動を行った場合などに起こりやすくなる。特に有酸素運動は金縛りを誘発しやすい。過酷な有酸素運動をしているスポーツ選手の中には、毎日のように金縛りに掛かる者も多い。また、旅行の移動中や宿泊地での金縛りも多い。これは、移動によって身体が疲弊しているのに対し、環境の変化などにより脳が興奮していることが影響している。その他、ストレスや肉体疲労が金縛りを引き起こすこと、体質的に金縛りに掛かりやすい(特に寝入りの悪い人)、事前に「このホテルは(幽霊が)出るらしいよ」などという噂話を聞くなど様々な理由がある。現在は金縛りの研究も進んでおり、閉眼型の金縛りは睡眠中に何度も起こすようなストレスを与えることで人工的に作り出す事も可能である』。『金縛りを初めて経験する者、経験が少ない者は、経験した事の無い前駆症状や、全身が動かなくなる独特の感覚から、金縛り現象を底知れぬ恐怖に感じる。特に、閉眼型の金縛りに掛かっている時には、僅かに思い浮かんだ事が過剰に増幅されるという特性がある。しかし、この特性を逆に利用し、たとえば、意図した人物との性的な事などを考えると、その人物が実際に現れたように感じたり、覚醒時には味わえないような驚くほどの強い快楽を得る事も可能であり、金縛りを楽しみにしている者も少数ではあるが存在する。ただし、実際に行ってみるとわかるが、金縛りの経験が少ない者は、容易に恐怖が上回ってしまい難しい。金縛り経験が豊富な者向けの高度な遊びといえよう。 対して、開眼型の金縛りでは、幻覚が出る事が無く、基本的に恐怖感は持たないものの、独特の違和感や、随意運動ができないことから不快感を抱く例が多い』。以下、東西の民俗学的な金縛りの記載が続く。『古来から世界各地で睡眠麻痺に関するさまざまな説明が伝わっている。代表的なものを以下にあげる』と、『ラオスでは、睡眠麻痺は「ピー・ウム」として知られていた。これは睡眠中に幽霊のようなものが現れる夢を見て、幽霊が自分を押し付けているか、あるいは幽霊がすぐ近くにいるといったものである。通常、体験者は自分が目覚めているが、動く事はできないと感じている』。『中国の少数民族であるミャオ族の文化では、睡眠麻痺は「圧しつぶす悪魔」と呼ばれていた。睡眠麻痺の体験者はよく子供ぐらいの動物が自分の胸の上に乗っていると主張した』。『ベトナムでは、睡眠麻痺は「マ・デ」と呼ばれ、これは「幽霊に抑えつけられた」ことを意味する。ベトナムの人々は幽霊が身体のなかに入り込み、それが麻痺状態を起こすと考えていた』。『中国では、睡眠麻痺は「"鬼圧身"」あるいは「"鬼圧床" 」として知られる。これは文字通り訳せば「幽霊に抑えつけられた身体」あるいは「幽霊に抑えつけられた寝床」という意味になる』(簡体字を正字「圧」に変更した)。 『日本における「金縛り」という語は、時に英語圏の研究者によって学術論文などで使われる事もある』。『ハンガリーの民俗文化では、睡眠麻痺は「"lidércnyomás" "lidérc"の圧力)と呼ばれ、"lidérc" (生霊), "boszorkány" (魔女), "tündér"(妖精) あるいは "ördögszerető" などの超自然的存在によって引き起こされると考えられていた』。『 "boszorkány" という単語はトルコ語の「圧しつける("bas-")」という意味の語幹からきている』。『アイスランドでは、睡眠麻痺は通常「マラが来た」と呼ばれていた。マラとは古いアイスランド語で雌馬をさすが、これは悪魔のようなもので人間の身体の上に乗り、その人を窒息させようとするものと信じられていた』。『クルド人は睡眠麻痺を「モッタカ」と呼んでいる。彼らは何物かが幽霊か悪い精の姿となって人の上に現れ、窒息させようとするのだと信じていた』。『ニューギニアでは、この現象は「スク・ニンミヨ」として知られる。これは神聖な樹木が、自分の寿命を延ばすため人間のエキスを吸い取ろうとしているためと考えられた。神聖な樹木は通常は人に知られないよう夜にエキスを吸い取るのだが、たまに人間がその最中に目を覚ましてしまい、そのために麻痺が起こるのだと考えていた』。『トルコでは、睡眠麻痺は「カラバサン (暗闇の抑圧者・襲撃者)」と呼ばれていた。これは睡眠中に人々を襲う生き物と考えられていた』。『メキシコでは、睡眠麻痺は死んだ人の魂が人間に乗り移り、動きを妨害することによって起こるのだと信じられていた。これは「セ・メ・スビオ・エル・ムエルト(Se me subió el muerto)(死人が乗り移った)」と呼ばれる』。『アメリカ南部の多くの地域では、この現象は "hag" (魔女) と呼ばれ、通常なにか悪いことが起こる前兆と考えられた』。『「オグン・オル」とはナイジェリア南西部ヨルバ地方で睡眠障害の原因とされている。オグン・オル(夜の争い)は夜間での強烈な妨害をともなっており、この文化ではこれは悪魔が夢を見ている人間の身体と精神に入り込むものとして説明される。オグン・オルは女性の方が起こりやすいとされており、これは地上の配偶者と“霊的な”配偶者の不和によるものと考えられた。この状態はキリスト教の宣教師か、あるいは伝統的な呪術師が悪魔払いをすることで取り除けると信じられていた』。『ジンバブエのショーナ文化においては、「マッジキリラ」という単語が使われる。これは何かが非常に強く圧しつけている状態をさし、ほとんどの場合これはなにかの霊--とくに邪悪な霊--が人間をコントロールしてなにか悪い事をしようとしているとみなされていた。人々が信じるところによれば、魔女にはこういった能力があり、そのため魔女はしばしば人の魂をつかってその人の親戚にとりつくとされた』。『エチオピアの文化では「ドゥカック」という単語が使われる。ドゥカックは人が眠っている間にとりつくなにかの悪い霊と考えられていた。また睡眠麻痺は麻薬の一種である「カット en:Khat)」の使用とも関連しているとされた。「カット」を使用していた者の多くは、長い間使っていたカットをやめた後に睡眠麻痺を経験したという』。『いくつかの研究によると、アフリカン・アメリカンの人々は睡眠麻痺にかかりやすい傾向があるという』。『これらは「魔女が乗っている」とか「haintが乗っている」と呼ばれている。また、ほかの研究によると、頻繁に(月に一度以上)睡眠麻痺にかかるアフリカン・アメリカンの人は「睡眠麻痺障害」があるとされ、このような人々は平均的な人よりもパニック障害にかかりやすい傾向があるという』。『これらの結果はほかの独立した研究者によっても確認されている』とある。

 

「歌留多」明治期に於いてはこうした正月のかるた取りが、数少ない男女の出会いの場として機能していたことは本章を読む上では非常に重要である。OCTOPUS氏のHPにある「競技かるたのページ」の論文から一部を引用する。『十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銀鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに輝き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊びを為るなりけり。(*1)』〔『*1 尾崎紅葉「金色夜叉」(昭和4411月新潮文庫)より引用』という注記記載がある〕。『尾崎紅葉(18681903)のベストセラー小説「金色夜叉」(明治3035年連載、未完)の中には明治当時のかるた会の模様が述べられている。娯楽の少なかった当時、かるたというのは格好の男女の出会いの場であったと想像される。実際、 後のクイーン渡辺令恵の祖父母も、昭和5(1930)年頃ではあるが、かるたが縁で出会ったとのことである(*2)』〔『*2 渡辺令恵「競技かるたの魅力」(「百人一首の文化史」平成1012月すずさわ書店)』という注記記載がある〕。『当時のかるたの試合は、今日で言う所のちらし取り、あるいは2組に分かれての源平戦が主流であった。「金色夜叉」に描かれたかるたの試合は、どうやらちらし取りであったように思われる』(以上は同HP内の「3.競技かるたの夜明け」の冒頭「かるた会のあけぼの」より引用)。『黒岩涙香が開催した明治371904)年の第1回かるた大会の案内には「男女御誘合」とあり(*1)、当初かるた会は女性に大きく門戸を開いていた。だが、男尊女卑の傾向が著しかった時代で』あったため、明治414219081909)年頃に至って『かるたが世間に認知されるようになると、男女が交わって競技を行なう点が非難の的となる。「若い男女が入り乱れになつて、手と手を重ねたり、引手繰事(ひったくりっこ)をしたり、口の利き様もお互ひに慣れ慣れしくなり作法も乱れて居る」(*2)と、山脇房子は明治421909)年1月に指摘している。「今の若い男女は平常は隔てられて居て、いざかるたとでもなると、又極端に走りますからいけない」と、山脇は「風俗上衛生上の害を避ける為め」にテーブルの上での競技をも提案している。またその一方で、「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」(*3)であるとか、「荒くれ男を向ふに廻して戦を挑むような女は嫌ひだ」「婦人は須らく男子に柔順で、繊弱優雅なるを愛する」(*4)などといった男性選手の言い分もあった。その結果、黒岩涙香としては当初の「平等意思」(*5)に反するとしながらも、東京かるた会は明治41(1908)年2月、傘下の各会と同盟規約を結ぶこととなる。その内容は「同盟各会の会員は勿論東京かるた会の出席者は素行不良ならざる男子たること」「同盟各会其他競技席上には婦人及素行不良と認めらるる男子の入場を拒絶すること」(*6)といったもので、これにより明治421909)年2月の5周年大会以降女流選手の大会参加は認められなくなる』。『しかし、完全に女性が閉め出されていたかというと、そうではなく、仙台では女流大会が開催されており、昭和2(1927)年の第1回大会では藤原勝子が優勝している。東京や山梨、筑波などでも同様の大会が開かれている(*7)』とある。因みに『かるた会が再び女流選手に門戸を開いたのは昭和9(1934)年1月5日の第22回全国大会からであった』(以下略。以上の引用部の注記は以下の通り。『*1 「萬朝報」明治37年2月11日』・『*2 山脇房子「風紀上より見たる歌留多遊び」(明治42年1月「婦人画報」)以下引用は同記事』・『*3 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」』・『*4*8 「かるた界 第8巻第2号」昭和9年12月 東京かるた会』・『*5*6 東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」(大正1412月 東京図案印刷)』・『*7 「かるたチャンピオン 95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会』。以上は同HP内の「5.かるた黄金時代の「女流選手のあゆみ」より引用)。ここで明治四十年代初頭に公的なかるた会が『男女が交わって競技を行なう点が非難の的とな』ったこと自体が、実はそれ以前、男女の手が触れあたりする私的な男女の正月のかるた取りが、密やかにそうした男女の交感の場でもあったことを図らずも物語っていると言えよう。そして最後に一言。

 

――歌留多取とは戦闘である――

 

「Kはすぐ友達なぞは一人もない」Kにとって友達は先生一人きりなのである。

 

「内々(うちうぢ)」このルビは底本では「/\」の濁点つきである。明らかな誤植であるが、誤りをそのまま移すのが本翻刻のポリシーであるので「うちうぢ」としておいた。

 

「私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました」これによってKが文学部文学科であることは完全に排除されるものと思われる。……が……国語教師でありながら私も教員になるまで、小倉百人一首の歌は実は殆んど知らなかったことを、ここに自白します……

 

「私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつた」靜が荷担するK――そのKとの歌留多取りにさえ真剣になっている先生――である。この歌留多取は靜という女をKと取り合う一対一の白兵戦若しくは決闘の近きを告げるシーンなのでもあった。

 

「私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつた」先生の鬱屈が頂点に達していることが知られる。

 

「十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました」このシーンは、これ以降の同一構図のシーンの最初に当る重要な場面である。あなたのスクリーンにしっかりとリアルに映像化してもらいたい。また、作中、珍しく時間が指定される場面としても特異的である。勿論、これは告白後の昼食を経て、午後の先生の煩悶、夜の描写へと続けるためであるのだが、私は妙に気になるのである。もう一つの重要な点がここにはある。即ち、Kは「敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞」いたという描写である。古来、日本では敷居を踏むことはタブーであった。「部屋の敷居や畳の縁を踏むのは親の顔を踏むのと同じだ」と私の祖母や母は言ったものだ。それは民俗社会に於ける神聖な境界であり、そこを足下に踏むということは、或る他空間への侵犯を意味する。それは致命的な神話的世界観のカタストロフへのスイッチであった。ここはそういう意味で、先生の内実に軽率にも侵入してしまったKを美事に描く部分でもあるのである。

 

「其御孃さんには無論奥さんも食つ付いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。」「ぐるぐる」である。

 

「Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです」という唐突な叙述に注意しなくてはならない。表現上は「今迄」はだったのである――即ち、ここ以降、先生がKを「一種の邪魔もの」としてはっきりと「意識し」「明らかに左右と」言える存在になることを明確に示している、ように見える。しかしまた、ここ以前に先生がKをどういう存在として意識していたかをフィード・バックして再確認しておかなくてはならないことも言うまでもない。繰り返すが、ここまで先生の中には、

 

(嫉妬心から)Kを一種の邪魔者として意識している先生

   ↑葛

   ↓藤

(良心から)それを正当なものとしては認知出来ない先生

 

という構図があったのである。それがここまでの先生の心奥であったことが開示されているのである。我々は実は、この後の展開から、この前者の嫉妬心・邪魔者の方にばかり、意識が集中してしまうのであるが、かねてより私は後者にこそ着目すべきであると思っている。それまで先生にとってKは邪魔者ではなかった。いや、邪魔者どころか数少ない心許せる親友であった

 

――いや、先生にとっては親友というよりも、もっと大切な存在であった

 

と言ってよい。畏敬し、同時に孤独の痛みを分かち合った、獣のように抱き合った仲間

 

――親友よりも大切な存在であったK

 

――先生はKを無意識下に於いて愛していたのではなかったか?

 

――私はそう思うのである

――先生はKを愛していた

――いや、先生は遺書を書く今もKを愛しているのではあるまいか? いや、遺書を書く今、先生は初めて心からKを愛していると言えるのではあるまいか?

 

「兩肱(りやうびず)」「りやうひぢ」の誤植。

 

「市ケ谷」この叔母さんなる人物は夫が奥さんと同じく軍人であると直後に言っている。奥さんと靜はここに引っ越してくる前は市ヶ谷の士官学校の傍に住んでいた(第(六十四)回参照)が、当時の軍人達は軍施設の近くに纏まって居住していることが多かった。

 

「叔母さん」奥さんの義理の妹の可能性もないとは言えないが、父が亡くなってもずっと、靜と先生が結婚後もずっと親戚関係を保っている(第(四十)回及び最終章参照)ところを見ると、奥さんの実の妹であると考えられる。

 

「女の年始は大抵十五日過」女正月(めしょうがつ)のこと。115日の小正月前後を言う。正月は女性は家内の事始と親戚や年賀の挨拶客の接待で忙しくて休みがなく年始廻りの挨拶も出来なかったため、年賀の行事が一段落した小正月の時期に一息ついたことからこう言う。地方によって時期や内容が大きく異なるが、場合によっては男が家事一切を取り仕切って女を休ませる風習があった地方もあった。]

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