『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月17日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十五回
(八十五)
「其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自說を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。―君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。
私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他(ひと)にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁(はんばく)しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其處で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻擊はしないだらうと云つて悵然(ちやうぜん)としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位(くらゐ)そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。
Kと私とはそれぎり寐てしまいました。さうして其翌る日から又普通の行商の態度に返つて、うん/\汗を流しながら步き出したのです。然し私は路々其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好(い)い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もつと直截(ちよくせつ)で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜(じようりう)して拵えた理論などをKの耳に吹き込(こむ)よりも、原(もと)の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自(おのづ)から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐた事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虛榮心が崇つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取るとか虛榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。
我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆ど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗敎家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鷄(しやも)を食ひました。Kは其勢(いきほひ)で小石川迄步いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が强いのですから、私はすぐ應じました。
宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黑くなつたばかりでなく、無暗に步いてゐたうちに大變瘦せてしまつたのです。奥さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて吳れるのです。御孃さんは奥さんの矛盾が可笑しいと云つて又笑ひ出しました。旅行前時々腹の立つた私も、其時丈は愉快な心持がしました。塲合が塲合なのと、久し振に聞いた所爲(せゐ)でせう。
[♡やぶちゃんの摑み:房州行のエンディングである。次章はワン・クッションの後、遂にカタストロフへ向かって急傾斜を雪崩れてゆくこととなる。
♡「其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自說を主張しました」ここで言う先生の「人間らしい」の「人間」とは「智」に対する「情」の意である。そして「出立點が既に」Kの智力至上主義への「反抗的」な立場に立脚していたから「反省するやうな餘裕」もなく碌な論理的反証もないのに反論挑んだという。しかし勿論、そこには先生の側の告白欲求に関わるところの、御嬢さんへの恋情という個別的事実から帰納された「異性間の恋情を抱いてこそ人間が人間らしくなる」という自己弁護的要請が影響しているわけであるから、それが勢い情熱的で非論理的、そうして何より自己弁護的なものとならざるを得ず、そうして自己の卑俗な(という衒いの意識が先生にあることは既に先生が第(八十三)回で述べている)恋情肯定への言い訳に過ぎないという後ろめたさから、先生は「成程後から考へれば、Kのいふ通りでした」と後日思い至ることになるのである(これは遺書執筆時の「後から考へれば」では決してない。これはこの房州行から帰った直後の近未来での感懐を指していよう)。
♡「するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。―君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。」この部分は字の文が殆んど二人の直接話法化している。後の部分も含めてここだけ脚本に直してみよう。
○安宿の一室。深更。
K、気色ばんで先生を睨みながら、
K 「俺のどこが人間らしくないと言うんだ?」
先生、Kをしっかと見つめながら、
先生「……君は人間らしいんだよ! あるいは人間らし過ぎるのかも知れないんだ! だけど、口先では、人間らしくないようなことばかり、言っているんだ! いや、また、人間らしくないように、振る舞おうとさえ、してるんだ!……」
暫し、沈黙。K、ゆっくりと頭(こうべ)を垂らして、一変して声を落とし、
K 「俺は……俺はまだ、自分の修養が足りない……だから、人にはそう見えるかも知れん……」
再び、沈黙。――ジィ――という二人の間に置かれた灯明の音。
先生、手にした団扇でパンと軽く蚊を叩く。張り合いを失った先生は、懐柔するように直前の日蓮の話に話題を戻そうとする。
先生「……うん……いや……すまん……そう、日蓮、そうだった。日蓮の『立正安国論』、あの『禪天魔、念仏無間、律国賊』ってえのは凄いな……なかなか言えん……それでもって天皇まで日蓮宗化しようという……化け物(もん)みたような凄い話だな……」
K、答えない。また暫し、沈黙。また――ジュ――という灯明の音。
K、如何にも意気消沈して、打ちひしがれた声で、しかし恨みがましくはなく、
K 「……もしお前が……俺が知っている通りに、昔の無名の聖人や行者のことを知ったなら……お前はさっきのような的外れの攻撃は……決してしないだろう……」
沈黙。
K 「……俺がどのくらい……その精進のために苦しんでいるか……それがお前に解ってもらえないのは……如何にも……如何にも残念だ。」
先生、再び手にした団扇でパン! パン! と自分の胸を左右に叩いて、
先生「さあ、もう遅いぜ。明日は、また歩くぞ!」
と、さっさと横に敷かれた御座に横たわり、Kに背を向ける。
膝を見つめていたK、先生の方を見、ゆっくりと灯明に手を伸ばし、フッ! と吹き消す。
先生のナレーション『Kと私とはそれぎり寝てしまいました。』
♡「反駁(はんぱく)」このルビは底本画像では「は」か「ば」か「ぱ」か、印刷が不鮮明なために不詳であるが、底本の『東京朝日新聞』(7月17日(金)掲載)と『大阪朝日新聞』(7月18日(日)掲載)の校異欄に『「反駁(はんばく)」→「反駁(はんはく)」』とあることから本来の正しい読みである「はんばく」であることが分かる。但し、「心」の原稿は「はんぱく」である。
♡「悵然」悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれる様子を言う。
♡「私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐた事をこゝに自白します。」ここは単行本で以下の通り、書き直されている。
私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。
日本語の構文上、この変更はやや正しい。厳密に言えば、完全に正しいものとするためには更に補正する必要がある。
×「私にそれが出來なかつたのは、~があつたため、~の勇氣が私に缺けてゐた→事をこゝに自白します。」
△「私にそれが出來なかつたのは、~があつたため、~の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ→事をこゝに自白します。」
○「私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたからであったといふ事をこゝに自白します。」
但し、本文の初期形でも意味は十二分に達する。
♡「私のいふ氣取るとか虛榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです」これは第(八十三)回に示されたその頃の男子学生の間では「女に關して立ち入つた話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種を有たないのも大分(だいぶ)ゐたでせうが、たとひ有つてゐても默つてゐるのが普通の樣でした。比較的自由な空氣を呼吸してゐる今の貴方がたから見たら、定めし變に思はれるでせう。それが道學の餘習なのか、又は一種のはにかみなのか、判斷は貴方の理解に任せて置きます」と言った先生の言葉を直に受ける表現である。先生は、この時、何故御嬢さんへの恋を友人Kに告白出来なかったのかについて、当時の日本的風土・教育の中で培われた儒教道徳や、色恋沙汰を恥ずかしいもの・卑俗軟弱なものとする男尊女卑的傾向若しくは青春期特有のバンカラ気質のようなものが、当時の先生達の一般的心性としてあったからであり、決して私(=先生)個人の性癖としての気障なポーズでも、格好しい、エゴイスティクな格好つけのためでもなかった、ということだけは「私」に理解して欲しい、そうしてもらえるだけで満足である、と言っているのである。
♡「二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました」また「ぐる/\」の円運動、しかし、ここではKも一緒である。こうしたちょっとしたことが、この円運動が単なる先生のシンフォニックな心の動きだけを意味しているのでは、ない、と感じさせるところなのでもある。
♡「兩國へ來て、暑いのに軍鷄を食ひました。Kは其勢で小石川迄步いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が强いのですから、私はすぐ應じました」この何気ない部分が今回、先生のようにぐるぐる考えるうちに気になりだした。何故、暑いのに軍鶏なのか? まず「軍鷄」から注しておこう。ウィキの「軍鶏」から引用する。『軍鶏(シャモ)はタイ原産の闘鶏用、観賞用、食肉用のニワトリの一種。シャモの名は当時のタイの呼称シャムに由来する』。『日本には江戸時代初期までには伝わっていた。各地で飼育され多様な品種が生み出された。 また、沖縄方言ではタウチーと呼ぶが、台湾でも同じように呼ばれており、昔から台湾(小琉球)と沖縄(大琉球)の間に交流があったことの裏づけとなっている』。『タイでは闘鶏が広く行われ文化として根付いている。2004年にタイでも鳥インフルエンザが流行し、感染地域ではシャモにも処分命令が下りた。農家では長い年月をかけて交配し強いシャモを育て上げてきただけに大きな打撃となった』。『江戸時代の頃から廃用になった軍鶏を軍鶏鍋として食べたことでもわかるように、食用としても優れた特質を持つ。戦いのために発達した軍鶏の腿や胸の筋肉には、ブロイラーにはない肉本来のうまみがあり、愛好者は多い。現在では闘鶏の衰退により軍鶏の数自体が減ってきており、高級食材となっている』。実際、当時、この両国辺には何軒もの軍鶏を食わせる店があったと諸注にはある。『軍鶏の激しい気性から、気の短い人、けんかっ早い人の喩え、徒名につかわれる』。どうも気になるのだ……軍鶏の激しい気性……闘鶏……それを食った直後にKは「其勢で小石川迄歩いて歸らうと」先生に挑戦する……「體力から云へばKよりも私の方が強い」と誇る先生はそれに、おう! とすぐさま応ずるのである……これは最早、「軍」(いくさ)でなくて、何であるか?!……もう一点付け加えておこう――。「體力から云へばKよりも私の方が強い」は「字の拙いK」に続き、またしてもKのデメリット表現である。先生が見上げなければならないほどの大男であるが、先生の方がKより『体力は強い』のである。今、これをお読みのあなた、どこかで文弱のひ弱でハンサムな先生をイメージしていなかったかな? 先生は極めて強靭な肉体の持主なのである。病気一つしない――肉体的には、ね――]
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