耳嚢 巻之三 丹波國高卒都婆村の事
今日は、もう一本、「耳嚢 巻之三」に「丹波國高卒都婆村の事」を収載した。
僕は、遊んでは、いないよ――
*
丹波國高卒都婆村の事
或人かたりけるは、丹波國高卒都婆(たかそとば)村といへるに大造(たいさう)の大卒都婆のあり。右は西園寺時宗菩提の爲成由。時宗は北條九代執權の其一人にて、入道の後卒都婆の愁苦を搜し理政安民の爲國々を廻られしが、右高卒都婆村の老夫婦の許に宿を乞はれしに承知して一夜を明しけるに、邊鄙の事故旅僧に饗應すべき物なしとて、粟飯など炊き菜園の瓜茄子を取りて、一つは神前に供し一つは外へ除き殘りを調味しけるに、西園寺其譯を尋給ひければ、初穗はいつも神前にさゝげて、時の天子時の執權へ獻ずる也、其上にて御身饗應すると答へければ、西園寺甚感じて、愚僧は鎌倉の者也、自然鎌倉に出給はゞ尋られよ、その時は此割判を持參して尋られば知るべしとて渡しぬ。其後彼夫婦鎌倉にて彼僧を尋て割判を出しけるが知る者なし。秋田城之介出仕の折から右割判を差出し承りけるにぞ、城之助我屋に伴ひて西園寺に申達けるにぞ、彼夫婦に西園寺對面有て、何ぞ望有やと尋給ひしに、素より老の身子供迚もなければ何か願ひ有べき、居村は高少きにて困窮の村なれば、村方の助になるべき事をと願ひし故、諸役免除の定を給ひけるゆへ、今に右高卒都婆村は無役の村方にて、高は纔に百石餘の土地也。依之右老夫婦は一社の神に崇め、時宗の慈政を報ずるため右の大塔婆を建立して今に不絶ありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:突如、鎌倉時代に逆戻り、連関は感じさせない。こじつけるなら御蔵の米から、米の拠出をせずともよい異例の無役の村で連関か。
・「丹波國高卒都婆村」諸注未詳。似たような地名も捜し得なかった。以下のように登場人物も無茶苦茶なら地名も如何にも不審異様な名である。
・「西園寺時宗」底本には右に『(ママ)』表記がある。鈴木氏ほどの鎌倉通ならずとも『ママ』表記をしたくなる。これは北条時宗(建長3(1251)年6~弘安7(1284)年:第八代執権。北条時頼嫡男。文永11(1274)年及び弘安(1281)年の二度の元寇をよく防衛した。円覚寺を建立して宋より無学祖元を招聘して開山とした。)であろうが、この話柄自体が能「鉢木」の類話であり、明らかに時宗の父で廻国伝承で知られる最明寺入道時頼の誤伝である(時宗の戒名はこの如何にも「最明寺」のもじりのような「西園寺」ではなく「宝光寺」であるし、そもそも時宗の廻国伝承というのは聞いたことがない)。北条時頼(嘉禄3(1227)年~弘長3(1263)年)鎌倉幕府第五代執権。第八代執権北条時宗の父。以下、ウィキの「北条時頼」より引用する。『幼い頃から聡明で、祖父泰時にもその才能を高く評価されていた。12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが吾妻鏡に収録されている。しかし、吾妻鏡の成立年代を鑑み、この逸話は時頼を正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されている』。『兄経時の病により執権職を譲られて間もなく、経時は病死した。このため、前将軍藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反北条勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである』。『翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。これにより、幕府内において北条氏を脅かす御家人は完全に排除され、北条氏の独裁政治が強まる事になった。一方で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲けている』。『建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである』。『しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである』。『康元元年(1256年)、時頼は病に倒れたため、執権職を一族(義兄)の北条長時に譲って出家し、最明寺入道と号した。しかし執権職から引退したとはいえ、実際の政治は時頼が取り仕切っていたという。嫡男の時宗は建長3年(1251年)に誕生していたが、この時はまだ6歳という幼児だった為に執権職を継がせる訳にもいかず、長時を代行として執権職に据えて、時宗が成人した暁には長時から時宗へ執権を継がせるつもりであったと言われている。だが、引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった』。この最明寺は現在の北鎌倉明月院の近くにあったもので、墓所は現在の明月院内に現存する。『時頼は質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であった。さらに執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事は、今でも名君として高く評価されている。直接の交流こそなかったが、無学祖元、一山一寧などの禅僧も、その人徳、為政を高く評価している。このような経緯から、能の『鉢の木』に登場する人物として有名な「廻国伝説」で、時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られているのである』。『一方で、本居宣長などは国学者の観点から忌避し、新井白石も著作の『読史余論』の中で、「後世の人々が名君と称賛するのが理解できない」と否定的な評価を下している』。『時頼は南宋の僧侶・蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、その後兀庵普寧を第二世にし兀庵普寧より嗣法している。宝治2-3年(1248年-1249年)にかけて、道元を鎌倉に招いている』。更に、ウィキの「鉢木」からも引用しておく。『能の一曲。鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしている。観阿弥・世阿弥作ともいわれるが不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店などもある』。『佐野(現在の群馬県高崎市上佐野町)に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に、一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらばいち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る』。『その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だったことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える』。そもそもこの最明寺入道時頼の廻国伝説そのものがでっち上げで、享年37歳で、その晩年には諸国漫遊しているような暇はなかった。私自身、鎌倉の郷土史研究の中で親しくこの時期の「吾妻鏡」を閲したことがあるが、執権を辞任後は病のためもあって、殆んど鎌倉御府内を出ていないことが、その記載からも検証出来る。それにしても根岸ともあろう御方が、これほど杜撰な話(私如きにても嘘臭いということが分かる話柄)をそのまま載せるとは、少々、残念ではある。
・「北條九代執權」時頼は五代、時宗は八代で、第九代執権は時宗の嫡男貞時である。無茶苦茶も甚だしい。この数字ぐらいは直さないと話にならないと思い、現代語訳では「時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして」とした。時頼と改めることも考えたが、それもまた随所に破綻を生ずるのでやめた。
・「卒都婆の愁苦を搜し」岩波版に「都鄙の愁苦を搜し」とあるのでこちらを採って現代語訳とした。
・「理政安民」政治が正しく行なわれて、民衆の暮らしが平和で豊かであること。
・「秋田城之介」時宗の代なら霜月騒動で滅ぼされる安達泰盛(寛喜3(1231)年~弘安8(1285)年)、時頼の代ならその父安達義景(承元4(1210)年~建長5(1253)年)である。義景の父であった安達景盛(?~宝治2(1248)年)が初めて官位として右衛門尉出羽守に加えて秋田城介(本来は秋田城を保守する武将という職名)従五位下を受けて以来、代々この官位名を称しているためであるが、景盛で時頼の執権在任中に既に死んでおり、設定が全く合わなくなるので除外した(ただ時頼とは三浦一族が滅ぼされた宝治合戦で密接な関係を持っている)。いずれにしても、このシーンは評定衆(鎌倉幕府の職名で評定所に出仕し、執権・連署とともに裁判・政務などを合議裁決した重役)。としての幕府出仕という場面設定か。
■やぶちゃん現代語訳
丹波国高卒塔婆村の事
ある人が語った話である。
丹波国高卒塔婆村というところに大造りの大卒塔婆がある。
これは何でも西園寺時宗殿の菩提を弔うとともにその報恩を記念するものの由。
時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして、入道の後、鎌倉・京はもとより、遠国の地の民草の憂愁や困窮を窺っては、理政安民を図らんがために身分を隠して諸国を行脚なさった。
そんな行脚の折りのこと、今、高卒塔婆村と呼ばれるこの山村を過(よ)ぎられ、日も暮れぬればとて、ある老夫婦のもとに一夜の宿を乞うた。老夫婦は快く承知致いて、一夜を明かして御座った。老爺は、
「辺鄙のことゆえ、旅のお坊さまを供応するものとて、これ、御座らぬ……」
と詫びつつも、媼に粟飯を炊かせ、家前(やぜん)の菜園に成った瓜と茄子(なすび)を取って参った。
するとその幾つかずつ捥(も)いだ瓜と茄子の、一つを神前に供え、一つを他に取り置いて、残ったもの調理した。西園寺はその訳を尋ねた。すると老爺は、
「良き初穂は神前に捧げ、またその次に良きものを時の天子さまと時の執権さまへ献じまして、その上で――味はその次のものとなりますれど――御坊さまへ差し上げんと存ずる。」
と答えたので、西園寺殿は甚だ心打たれ、
「……愚僧は鎌倉の者なる……向後、鎌倉に来らるることあらば、必ずや、お訪ねあれ。……その折りは、一つ、この割り判を持ちて参らるるがよい……さすれば、拙僧の居場所も知られようぞ。」
と頭陀袋より取り出だいた割り判を手渡し、翌日、老夫婦のもとを発った。
後日(ごにち)のこと、縁あってこの老夫婦、鎌倉を訪るること、これあり、かの旅僧を探して、寺々にて、かの渡された割り判を出だいて見たものの、一向に心当たる者がおらぬ。
されば、畏れ多いこと乍らと、老爺は割判を手に幕府の寺社方を尋ねたところ、ちょうどその日に出仕して御座った秋田城之介殿の眼に止まった。城之介殿は即座にその割り判を受け取り、しかと見るや、慌ててこの夫婦を自邸に伴(ともの)うて留めおくと、とって返して割り判を持って西園寺殿に申し上げる。
程なく、城之介殿に連れられた老夫婦に西園寺殿が対面(たいめ)致いた。
ひたすら畏まって平身低頭して御座る老夫婦に、西園寺殿は優しく、
「何ぞ望みはあるか?」
とお尋ねになられたところ、老爺は、
「もとより老いぼれの身にして、子供とても御座らねば、何の願いが、これ、がありましょうぞ。……なれど、畏れ多くも敢えて申し上げますれば……我らが居りまする村、これは、穀物の稔りも、これ少のう御座って至って貧しい村にて御座いますれば……不遜ながら、村の衆の助けになることを、一つ……」
と願い出た故、西園寺殿は当村の賦役を免除するという定めを即座に発せられたのであった。
――これより今に至るまで――現在の石高は僅か百石余りの土地乍ら――この高卒塔婆村は賦役を命ぜられたことが一度としてない無役の村なので御座る――
……この恩により、かの老夫婦は村の衆によって村社の一柱(はしら)として崇めらるるに至り、また、時宗の慈政を代々の子孫に伝えんがため、かの――村名の由来ともなった――大きなる卒塔婆を建立致いて今に伝えて御座る、ということである。
« 耳嚢 巻之三 神尾若狹守經濟手法の事 / 水野和泉守經濟奇談の事 | トップページ | 『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十三回 »