『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月13日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十一回
(八十一)
「一週間ばかりして私は又Kと御孃さんが一所に話してゐる室を通り拔けました。其時御孃さんは私の顏を見るや否や笑ひ出しました。私はすぐ何が可笑しいのかと聞けば可かつたのでせう。それをつい默つて自分の居間迄來て仕舞つたのです。だからKも何時ものやうに、今歸つたかと聲を掛ける事が出來なくなりました。御孃さんはすぐ障子を開けて茶の間へ入つたやうでした。
夕飯(ゆふめし)の時、御孃さんは私を變な人だと云ひました。私は其時も何故變なのか聞かずにしまひました。たゞ奥さんが睨めるやうな眼を御孃さんに向けるのに氣が付いた丈でした。
私は食後Kを散步に連れ出しました。二人は傳通院(でんづうゐん)の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました。散步としては短かい方ではありませんでしたが、其間(あひだ)に話した事は極めて少なかつたのです。性質からいふと、Kは私よりも無口な男でした。私も多辯な方ではなかつたのです。然し私は步きながら、出來る丈話を彼に仕掛て見ました。私の問題は重に二人の下宿してゐる家族に就いてゞした。私は奥さんや御孃さんを彼が何う見てゐるか知りたかつたのです。所が彼は海のものとも山のものとも見分の付かないやうな返事ばかりするのです。しかも其返事は要領を得ない癖に、極めて簡單でした。彼は二人の女に關してよりも、專攻の學科の方に多くの注意を拂つてゐる樣に見えました。尤もそれは二學年目の試驗が目の前に逼つてゐる頃でしたから、普通の人間の立塲から見て、彼の方が學生らしい學生だつたのでせう。其上彼はシユエデンボルグが何うだとか斯うだとか云つて、無學な私を驚ろかせました。
我々が首尾よく試驗を濟ましました時、二人とももう後一年だと云つて奥さんは喜こんで吳れました。さう云ふ奥さんの唯一の誇りとも見られる御孃さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐたのです。Kは私に向つて、女といふものは何にも知らないで學校を出るのだと云ひました。Kは御孃さんが學問以外に稽古してゐる縫針(ぬいはり)だの琴だの活花だのを、丸で眼中に置いてゐないやうでした。私は彼の迂濶を笑つてやりました。さうして女の價値はそんな所にあるものでないといふ昔の議論を又彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁もしませんでした。其代り成程といふ樣子も見せませんでした。私には其處が愉快でした。彼のふんと云つた調子が、依然として女を輕蔑してゐるやうに見えたからです。女の代表者として私の知つてゐる御孃さんを、物の數(かぞ)とも思つてゐないらしかつたからです。今から回顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時にもう充分萌(きざ)してゐたのです。
私は夏休みに何處かへ行かうかとKに相談しました。Kは行きたくないやうな口振を見せました。無論彼は自分の自由意志で何處へも行ける身體(からだ)ではありませんが、私が誘ひさへすれば、また何處へ行つても差支へない身體だつたのです。私は何故行きたくないのかと彼に尋ねて見ました。彼は理由も何にもないと云ふのです。宅で書物を讀んだ方が自分の勝手だと云ふのです。私が避暑地へ行つて凉しい所で勉强した方が、身體の爲だと主張すると、それなら私一人行つたら可(よ)からうと云ふのです。然し私はK一人を此處に殘して行く氣にはなれないのです。私はたゞでさへKと宅のものが段々親しくなつて行くのを見てゐるのが、餘り好(い)い心持ではなかつたのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を惡くするのかと云はれゝば夫迄です。私は馬鹿に違ひないのです。果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲に入りました。二人はとう/\一所に房州へ行く事になりました。
[♡やぶちゃんの摑み:遂にKへの嫉妬心が言葉として明示される。上の通り、この回には飾罫がない。この連載日当日の日付の東京朝日新聞社内山本松之助宛書簡が残されているが、十日の葉書で言うだけ言って翌日には誤植による正誤の一札も入ったからか、また、今回は内容的に文壇の大御所としてのこちら側の責任もある依頼というところで、漱石の口吻は思ったより穏やかである(底本は岩波版旧全集の書簡番号一八四五。文中「かけなたなたたから」「御邊」の右に「原」のママ表記。後者は「其邊」の誤記であろう。〔 〕は全集編者による補正)。
七月十三日 月 午後一時-二時 牛込區早稻田南町七番地より 京橋區瀧山町四番地東京朝日新聞社内山本松之助へ
拝啓久々御無音奉謝候此間一寸電話を御宅へかけた處御旅行中で今日頃御歸りといふ御返事でしたから一寸用事丈申上ます、兩三日前志賀直哉君(當時雲州松江に假寓小說の件をかねて上京)見え、實は引きうけた小說の材料が引き受けた時と違つた氣分になつてもとの通りの意氣込でかけなたなたたから甚だ勝手だがゆるして貰ひたいといふのです。段々事情を聞いて見ると先生の人生觀といふやうなものが其後變化したため問題を取り扱ふ態度が何うしてもうまく行かなくなつたのです、違約は勿論不都〔合〕ですが、同君の名聲のため朝日のためにも氣に入らない變なものを書く位なら約束を履行しない方が雙方の便宜とも思ひましたが、多少私の責任もありますし、又殘念といふ好意もあつたので再考を煩はしたのです、所が今朝口約の通り返事がきて好意は感謝するが今の峠を越さなければ筆を執る譯に行かないといふのです。それで私の小說も短篇が意外の長篇になつてあれ丈でもう御免を蒙る間際になつてゐる際ですからあとを至急さがす必要があるのですが御心當りはありますまいか。如何でせう。私は先年鈴木に高濱にも賴まれましたが兩氏とも今となつて都合つくや否は疑問であります、小川氏も間接に相談はありましたがあの人のものは如何かと存じます、德田君は今東京にゐないやうです、夫に途中で行きつまる恐があります。中勘助が銀の匙のつゞきを書いてゐるやうですが、あれなら間に合ふかも知れません、兎に角私の責任問題ですからいざとなれば先生の遺書の外にもう一つ位書いてもいゝですがどつちかといふとあれで一先づ切り上げたいと思つてゐますから御邊御含みの上一應御熟考を煩はしたいと思ひます。先は用事迄 以上
七月十三日 夏目金之助
山 本 笑 月 樣
因みに、お分かりとは思うが、文中前半の「先生の人生觀」の「先生」は志賀直哉のことを指していて、「心」の先生とは無関係で、後半の部分に現れる人名は鈴木が鈴木三重吉、高濱が高濱虚子、小川は小川未明、德田は德田秋聲である。
♡「傳通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました」この「植物園」は小石川植物園のこと。恐らく当時は正式には「東京帝國大學理科大學附屬植物園」であったか(現在は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」である)。古くは江戸幕府の小石川御薬園(おやくえん)で、更に八代将軍吉宗が享保7(1722)年に町医師小川笙船の目安箱投書を受け、園内に小石川養生所を設けた。明治20(1877)年の東京帝国大学開設と共に同大学理科大学(現・理学部)の附属植物園となって一般にも公開されるようになった。本作内時間当時は既に明治30(1897)年に本郷の大学敷地内にあった植物学教室が小石川植物園内に移転、講義棟が作られて本格的な植物学講義が行われていた(以上はウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」を参照した)。私は先生の下宿を中冨坂町(現在の北部分、現在の文京区小石川二丁目の源覚寺(蒟蒻閻魔)から南西付近に同定しているが、そこから北の善光寺坂通りに出て横断、現在の小石川三丁目を北西に横切って行くと伝通院裏手になる。そこから北東に向かうと小石川植物園のすぐ脇を南東から北西に抜ける通りに出られる。植物園の西の角で北東から南西に走る網干坂にぶつかって現在の営団丸ノ内線茗荷谷駅方向へ湯立坂を南へ登り、現在の春日通り(但し当時は旧道で現在より南側に位置していた)へ出、南東に下れば冨坂から冨坂下へ至り、そこから北へ下宿に戻るルートと思われる。これは地図上で大雑把に実測しても実動距離で5㎞は確実にある。当時の散歩の5㎞は大した距離ではないが、夕食後の腹ごなし散歩としては45分から1時間は短かくはない。私がこのルートに拘るのは、一つは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏が「このコースはせいぜい二、三キロメートルの距離』で『当時としてはむしろ短い距離とも言える』から、『あるいは、先生にとっての話題も重要性と、要領を得ないKの返答ぶりとが、実際以上に長く感じさせたということか。』と注されているのが納得出来ないからである。漱石がこんな心理的時間を「散歩としては短かい方ではありませんでしたが、其間に」という文脈で用いるとは思われない。尚且つ、ここ伝通院は漱石が実際に下宿した先でもあるのである。藤井氏のルートは恐らく私の考えているルートとは違い、もっと南西寄り(植物園から離れた通り)に出て、尚且つ、植物園も西の角まで至らずにすぐのところで春日通りに抜ける吹上坂か播磨坂を通るコースを考えておられるのではないかと思われるが、私はこの推測に異議を唱えるのである。
――何故か――
それは私がもう一つ、このコースに拘る理由があるからである。それは――このコースが、実はあるコースの美事な対称形を――数学でいう極座標の方程式 r2 = 2a2cos2θ で示される lemniscate レムニスケート(ウィキ「レムニスケート」)若しくは無限記号を――成すからである。もうお分かり頂けているであろう。そうだ。あの御嬢さんを呉れろというプロポーズをしてから先生がそわそわしつつ、歩いたあの「いびつな圓」の、美事な対称形である(第(百)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十六)。後に地図で示したいと思ってはいるが、あの距離も凡そ5㎞で、更に稽古帰りの御嬢さんとプロポーズ直後の先生が出逢うのが「富坂の下」=0座標である。ここからほぼ北西に今回のルートが、南東に後の「いびつな圓」ルートが極めて綺麗な対称が描かれてゆくのである。私はこれを漱石の確信犯であると思うのである。新しい私の謎である。――いや!――そこに今一つのルートが加わるであろう――勿論、お分かりだろうが……しかし、それはまた、そこで……。
♡「二學年目の試驗が目の前に逼つてゐる頃」当時の東京帝国大学文科大学では6月中旬の一週間程度が学年末試験期間であったから、この描写は6月上旬である(くどいが私が考える本章の作品内時間ならば明治33(1900)年の6月上旬である)。
♡「シユエデンボルグ」Emanuel Swedenborg エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688年~1772年)スウェーデンのバルト帝国出身の博物学者・神学者で、現在、本邦ではその心霊学や神智学関連の実録や著述(主要なものは大英博物館が保管)から専ら霊界関係者に取り沙汰される傾向があるが、その守備範囲は広範で魅力的である。ただ漱石がここでKに彼の名を挙げさせたのは、多分にその神秘主義的部分、一種のスピリッチャリズムのニュアンスをKに付与させたかったからであるようにも思われる。以下、ウィキの「エマヌエル・スヴェーデンボリ」より引用する(一部の記号を変更、追加した)。父は『ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した』人物で、エマヌエルは『その次男としてストックホルムで生まれ』た。『11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける』。『1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、スヴェーデンボリという人材を重視した王室の庇護により、回避された。神秘主義者への転向はあったものの、スウェーデン国民及び王室からの信用は厚く、その後国会議員にまでなった。国民から敬愛されたという事実は彼について書かれた伝記に詳しい。スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊をはじめてからほぼイギリスに滞在を続け、母国スウェーデンに戻ることはなかった』。『スヴェーデンボリは当時 ヨーロッパ最大の学者であり、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などで、結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。動力さえあれば実際に飛行可能と思えるような飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている』。『その神概念は伝統的な三位一体を三神論として退け、サベリウス派に近い、父が子なる神イエス・キリストとなり受難したというものである。ただし聖霊を非人格的に解釈する点でサベリウス派と異なる。聖書の範囲に関しても、正統信仰と大幅に異なる独自の解釈で知られる。またスヴェーデンボリはルーテル教会に対する批判を行い、異端宣告を受けそうになった。国王の庇護によって異端宣告は回避されたが、スヴェーデンボリはイギリスに在住し生涯スウェーデンには戻らなかった。彼の死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 New Church とも)を創設した』。『スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも若干散見され、例えばイマヌエル・カントは「視霊者の夢」中で彼について多数の批判を試みている。だがその批判は全て無効だと本人が後年認めた事は後述する。フリードリヒ・シェリングの「クラーラ」など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言している』。『彼の神秘思想は日本では、オカルト愛好者がその神学を読む事があるが、内容は黒魔術を扱うようなものではないため自然にその著作物から離れていく。その他、ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら』『の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多い。新エルサレム教会は日本においては東京の世田谷区にあり、イギリスやアメリカにも存在する』。『内村鑑三もその著作物を読んでいる』が、彼及びその支持者の思想を『異端視する向きが』あることも事実で、『一例として、日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教団では、スウェーデンボルグ派牧師(戦時中の日本政府のキリスト教諸教会統合政策の影響からこの時期には少数名いた)が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、米国派遣のメソジスト派監督牧師から異端として削除を命じられ、実際削除されるような事件も起きている』と記す。スヴェーデンボリは『神の汎神論性を唱え、その神は唯一の神である主イエスとしたのでその人格性を大幅に前進させており、旧来のキリスト教とは性格的・構造的に相違がある。スヴェーデンボリが生前公開しなかった「霊界日記」において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり』、『同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張はした。だが、非公開の日記であるので、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も多い。この日記はスヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期の日記であるため、この日記には、文章の乱れや、思考の混乱なども見られる。なお、主イエスの母マリアはその日記』『に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している』。『なお、スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件で』、これは心霊学の遠隔感応として、よく引き合いに出されるエピソードである。『また、教義内の問題として、例えば、霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどといった、現代人からすれば奇怪でナンセンスな部分もあり、こうした点からキリスト教徒でなくても彼の著作に不信感も持ってみる人もいる』。『彼の生前の生き方が聖人的ではない、という批判もある。例えば、彼より15歳年下の15歳の少女に対して求婚して、父親の発明家ポルヘムを通して婚姻届まで取り付けておきながら少女に拒絶された。また、生涯独身であったわけだが、若い頃ロンドンで愛人と暮らしていた時期がある、とされている。しかし主イエスから啓示を受けた後、女性と関係したという歴史的な事実は全くない。次にスヴェーデンボリは著作「結婚愛」の中で未婚の男性に対する売春を消極的に認める記述をしている。倫理的にベストとはいえないかもしれないが、基本的にスヴェーデンボリは「姦淫」を一切認めていない。一夫多妻制などは言語道断であり、キリスト教徒の間では絶対に許されないとその著述に書いている』。『スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃した、と主張した。しかし現実世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため、「安直である」と彼を批判する声もある』。『哲学者イマヌエル・カントは、エマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。『スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と。』(K・ペーリツ編「カントの形而上学講義」から)。哲学者ラルフ・ワルド・エマソンも、エマヌエル・スヴェーデンボリの霊的巨大性に接し、カントと同様、その思想を最大限の畏敬の念を込めて称えている』。以下、、スヴェーデンボリから影響を受けた著名人として、ゲーテ・バルザック・ドストエフスキイ・ユーゴー・ポー・ストリンドベリ・ボルヘスなどの名を挙げてある。『バルザックについては、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け、明治42年から大正4年まで数年の間、スヴェーデンボリの主著「天国と地獄」などの主要な著作を日本語に翻訳出版しているが、その後はスヴェーデンボリに対して言及することはほとんどなくなった。しかし彼の岩波書店の全集には、その中核としてスヴェーデンボリの著作(日本語翻訳文)がしっかり入っている』とある(国立国会図書館近代デジタルライブラリーでエマヌエル・スヴェーデンボリ鈴木大拙訳「天界と地獄」が画像で読める)。このシーンは私の推定では明治33(1900)年の夏であるが、夏目漱石はイギリス留学前の明治32(1899)年には既に知っていた。同年の「小説『エイルヰン』の批評」(『ホトトギス』)に「『エイルヰン』の父に『シュエデンボルグ』宜しくとい云ふ神秘学者が居る」と述べている。』とあるからである(これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」のこの部分の注の示唆に拠った)。
――しかし大事なことは、ここで何故「シユエデンボルグ」か、ということではないか?! 先生は明らかに「シユエデンボルグ」の霊界観念を意識して叙述している。あの第(六十二)回で先生が示した内容に注意しなくてはならない。先生は神秘主義的霊性を信じているのだ! それはとりもなおさず――Kは死んでも「シユエデンボルグ」のように現世と――先生と繋がっている――ということを伏線として示しているのではなかったか?! 私は大正という時代が近代に於いて、最も大衆が素朴に(この謂いは素直な謂い皮肉を込めた謂いの両方を含む)心霊ブームに沸いていた時代であったと理解している。キュリー夫妻が写真を感光させる目に見えない『神秘の』放射線(先の私の微妙な謂いはこうしたエポックにあるということである)を放つラジウムの発見は、実に明治31(1998)年である。本作の公開は大正3(1914)年で、アカデミズムはこの直前に、かの東京帝国大学の福来友吉博士らによる千里眼事件(リンク先はウィキ)によってこうした現象への疑似科学の烙印が早々に捺されていたが、本作中の現在時制は先に示した通り、明治33(1900)年前後である。
♡「御孃さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐた」靜が如何なる女学校に通っていたかは不明であるが(当時最も多かった女学校はキリスト教系のものであったが、私は「いびつな圓」の関係から一つの可能性として東京女子高等師範学校附属高等女学校を考えていることは第(七十)回の摑みを参照されたい)、一応、当時の改正中学校令に沿った学校と考えるならば、尋常小学校4年・高等小学校2年・女学校5年終了で、通常数え18歳(満17歳)という年齢になる。靜がこの明治33(1900)年7月で女学校を卒業したとすれば、御嬢さんの出生は明治14(1881)年か、その翌年辺りと推定し得る。
♡「今から回顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時にもう充分萌してゐた」当時は先生はそれを意識していなかった、自覚していなかったことが明示されている。即ち、無意識下の当時の心理を遺書を書いている時点の先生が分析している、という点を押さえておく必要がある。]