『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月8日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十六回
(七十六)
「Kの事件が一段落ついた後で、私は彼の姊(あね)の夫から長い封書を受取りました。Kの養子に行つた先は、此人の親類に當るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、此人の意見が重きをなしてゐたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙には其後Kが何うしてゐるか知らせて吳れと書いてありました。姊が心配してゐるから、成るべく早く返事を貰ひたいといふ依賴も付け加へてありました。Kは寺を嗣いだ兄よりも、他家へ緣づいた此姊を好いてゐました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉弟(きやうだい)ですけれども、此姊とKの間には大分年齒の差があつたのです。それでKの小供の時分には、繼母(まゝはゝ)よりも此姊の方が、却つて本當の母らしく見えたのでせう。
私はKに手紙を見せました。Kは何とも云ひませんでしたけれども、自分の所へ此姊から同じやうな意味の書狀が二三度來たといふ事を打ち明けました。Kは其度に心配するに及ばないと答へて遣つたのださうです。運惡く此姊は生活に餘裕のない家に片付いたゝめに、いくらKに同情があつても、物質的に弟を何うして遣る譯にも行かなかつたのです。
私はKと同(どう)じやうな返事を彼の義兄宛で出しました。其中に、萬一の塲合には私が何うでもするから、安心するやうにといふ意味を强い言葉で書き現はしました。是は固より私の一存でした。Kの行先を心配する此姊に安心を與へやうといふ好意は無論含まれてゐましたが、私を輕蔑したとより外に取りやうのない彼の實家や養家に對する意地もあつたのです。
Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃になる迄、約一年半の間、彼は獨力で己れを支へて行つたのです。所が此過度の勞力が次第に彼の健康と精神の上に影響して來たやうに見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅(うるさ)い問題も手傳つてゐたでせう。彼は段々感傷的(センケメンタル)になつて來たのです。時によると、自分丈が世の中の不幸を一人で脊負つて立つてゐるやうな事を云ひます。さうして夫を打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未來に橫はる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くやうにも思つて、いら/\するのです。學問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有つて、新らしい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍(のろ)いのに氣が付いて、過半は其處で失望するのが當り前になつてゐますから、Kの塲合も同じなのですが、彼の焦慮り方は又普通に比べると遙に甚しかつたのです。私はついに彼の氣分を落ち付けるのが專一だと考へました。
私は彼に向つて、餘計な仕事をするのは止せと云ひました。さうして當分身體を樂にして、遊ぶ方が大きな將來のために得策だと忠告しました。剛情なKの事ですから、容易に私のいふ事などは聞くまいと、かねて豫期してゐたのですが、實際云ひ出して見ると、思つたよりも說き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはたゞ學問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養つて强い人になるのが自分の考だと云ふのです。それには成るべく窮屈な境遇にゐなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、丸で醉狂です。其上窮屈な境遇にゐる彼の意志は、ちつとも强くなつてゐないのです。彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです。私は仕方がないから、彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せました。自分もさういふ點に向つて、人生を進む積だつたと遂には明言しました。(尤も是は私に取つてまんざら空虛な言葉でもなかつたのです。Kの說を聞いてゐると、段段さういふ所に釣り込まれて來る位、彼には力があつたのですから)。最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたいと發議(はつぎ)しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まづく事を敢てしたのです。さうして漸(やつ)との事で彼を私の家に連れて來ました。
[♡やぶちゃんの摑み:先生がKを下宿に招いた理由が示される。勿論、そこにはKが養家を欺くことに賛同したことへの責任性を基底としているが、実際にはKの精神的変調を心配してのことであった。取り敢えずは、自己の精神状態にある種の変調を見出すにある時は敏感、ある時は極めて鈍感な先生の精神が、この時は極めて正常に(それは本当に正常と言えるか?)働いた結果、正しく(それは本当に正しいと言えるか?)Kの精神分析に成功したということである(それは本当に成功と言えるか?)
◎Kの決意
×「學問」≠人生の「目的」
○「意志の力を養つて強い人になる」=人生の「目的」=「道」
↓そのためには
「なるべく窮屈な境遇にゐなくてはならない」
↓しかし現実には
●先生の分析
Kは決意実現のために「精進」を実践しているとは言えず、かなり重い神経衰弱になっている
↓しかし
Kは「剛情」で懐柔に容易に落ちない
↓そこで「仕方がな」いから
↓「彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せ」
○「彼の前に跪まづく事を敢てした」
→第(十四)回の先生の言葉と直連関
「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犧牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」
↓具体的には
「自分も君と一緖に意志の力を養つて強い人になりたいのだ」と依願し、最後には「君と一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたい」
とまでKに言明した(してしまった)行為を指す
以上、先生はここで総体に於いて「仕方がな」いから「彼の前に跪まづく事を敢てした」と自己合理化を始めていることに着目されたい。誰がどう言おうとこれは『自己合理化』である。先生がこの後に告白することながら、我々には既に想定可能な事実がある。そもそも先生は常にKを畏敬していた、Kに及ばないという意識を持っていたではないか(七十八)。そのK「の前に跪まづく事」は先生にとって「敢て」と条件付けなければならない技では、実は、なかったはずである。いや、なかったのだ――。
♡「Kは寺を嗣いだ兄よりも、他家へ縁づいた此姊を好いてゐました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉弟(きやうだい)ですけれども、此姊とKの間には大分年齒の差があつたのです。それでKの小供の時分には、繼母(まゝはゝ)よりも此姊の方が、却つて本當の母らしく見えたのでせう」母性愛の欠損を補っていたのがこの姉であったが、その姉の姻族が養家であったのは、Kにとって逆に辛かったものと解される。Kはそのつもりはなくてもこの愛する母代わりであった姉に泥を塗ったことになるからである。その心痛は恐らくKにとって最も辛く激しいものであったのではあるまいか? 因みにここの「姉弟」の「姉」だけは表記の字体で他は「姊」である。
♡「此姊は生活に餘裕のない家に片付いたゝめに、いくらKに同情があつても、物質的に弟を何うして遣る譯にも行かなかつた」という点に於いてこの姉や義兄は先生への偏見を持っていなかった可能性が強いように思われる。なればこそ先生に宛ててKについての消息の問い合わせを出し得たのである。即ち、この義兄(姉の夫)は財産家ではなく、先生の一族やKの一族、そして義兄に繋がる養家一族の富裕グループとは一線を画していると読めるのである。なればこそ先生もそのような「Kの行先を心配する此姊に安心を與へやうといふ好意」を幾分かは込めて返事を認(したた)めたものの、全体は「萬一の塲合には私が何うでもするから」御心配なく、といった「强い言葉で書き現はし」たものとなってしまった。それは先の「私を輕蔑したとより外に取りやうのない彼の實家や養家」の先生の手紙の無視「に對する意地」に染め付けられた強烈なものであった。――この時点でも私は先生が自分の不評がKの一件に悪影響を与えていることに考えが及んでいない。いや、先生の生涯を貫くことになるアンビバレントな田舎憎悪が既に出来上がってしまっていたと言えるのである。
♡「感傷的(センケメンタル)」勿論、「チ」の誤植。
♡「それから自分の未來に橫はる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くやうにも思つて、いら/\するのです。學問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有つて、新らしい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍(のろ)いのに氣が付いて、過半は其處で失望するのが當り前になつてゐますから、Kの塲合も同じじなのですが、彼の焦慮り方は又普通に比べると遙かに甚しかつたのです。私はついに彼の氣分を落ち付けるのが專一だと考へました」この部分、実は大学3年間の学問生活についての一般論を述べた部分であるにも拘わらず、先生やKがまるで卒業学年であるかのような錯覚を起してしまうところであるが(実際には先生の下宿に引き移る以前の描写であるからこのKは大学1年の年末から2年次半ば冬頃までである)、それ程にKが学問探究に真摯にして性急であったことを示すためではある。
♡「彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる」これは明言してよいが、Kは狭義の精神疾患としての当時の神経衰弱では、決してない。説明がまどろっこしいが、まず「神経衰弱」という疾患(病態)自体が現在、精神疾患の名称として用いられていない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。『神経衰弱(しんけいすいじゃく、英: Neurasthenia)は、1880年に米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。ここで着目してよいのは、その当時であっても具体的症状として眩暈・筋緊張性頭痛・睡眠障害・消化不良といった身体症状が挙げられ、それに付随する形で強迫感や焦燥感を伴う不定愁訴がある、即ち、現在の心身症とほぼ同等のものを念頭に置いてよいということである。そのような観点から見てもKの状態は、正常範囲内にある。まず身体的な不具合を訴えておらず、先生はせいぜい怒りっぽくなったという変化を記すばかりであり、これは当時のKが置かれた状況を考えれば当然過ぎる正常な反応と考えられる。況や、自律神経失調症や神経症的病態は、この後の先生の叙述にも現われて来ない。Kは神経症や精神病ではない。しかし即ちそうした理解は、我々にKの自殺をそのようなものに帰して手っ取り早く分かったように処理することが不能である、という困難な事実を提示してもいるということに気付かねばならぬ。
♡「彼の前に跪まづく事を敢てした」冒頭に示した通り、これが第(十四)回の先生の言葉と直連関していることは疑いない。但し、新聞小説の読者がそのように、直連関を感じ、即座にその言葉を思い出したかと言えば、やや疑問が残る。私は過去に新聞の連載小説を数回読んだ記憶がある。一番はっきりと覚えているのは大学時分の井上靖の「四角な舟」(現代のノアの箱舟を目指そうとするけったいな人物の物語であったように思う)であったが、毎回切り抜きはしたものの、読みながら過去の回を読み返し覚えが殆んどない。当時の読者の読み方が如何なるものであったかは想像出来ない。新聞が大切に保存されたものかどうか分からぬが(私が小学校の頃、鹿児島の大隈半島のど真ん中の岩川の母の歯医者であった祖父の実家では毎日着実に便所の落とし紙に加工されていた)、単行本のように容易にフィード・バックはされなかったものとは思われる。
閑話休題。第(十四)回の叙述を、ここに則して書き換えるならば、
「Kの膝の前に跪づいたといふ記憶が後に、今度は其Kの頭の上に足を載させるやうな結果を生んだのです。Kが私から未來の侮辱を受けたやうには――私は、あなたから未來の侮辱を受けたくはないのです。だから今のあなたからの尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私によつて御孃さんを吳れろといふ拔け驅けをされたことであの時Kが感じたであらう一層淋しい感じを――私は我慢するのは厭だ。だから代りに淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犧牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう。」
ということになろうか。]
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