『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十二回
(九十二)
「私が家へ這入ると間もなく俥(くるま)の音が聞こえました。今のやうに護謨輪(ごむわ)のない時分でしたから、がら/\いふ厭な響可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
私が夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり經つた後の事でしたが、まだ奥さんと御孃さんの晴着が脫ぎ棄てられた儘、次の室(へや)を亂雜に彩どつてゐました。二人は遲くなると私達に濟まないといふので、飯の支度に間に合ふように、急いで歸つて來たのださうです。然し奥さんの親切はKと私とに取つて殆ど無效も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のやうに、素氣ない挨拶ばかりしてゐました。Kは私よりも猶寡言でした。たまに親子連で外出した女二人の氣分が、また平生(へいせい)よりは勝れて晴やかだつたので、我々の態度は猶の事眼に付きます。奥さんは私に何うかしたのかと聞きました。私は少し心持が惡いと答へました。實際私は心持が惡かつたのです。すると今度は御孃さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のやうに心持が惡いとは答へません。たゞ口が利きたくないからだと云ひました。御孃さんは何故口が利きたくないのかと追窮しました。私は其時ふと重たい瞼を上げてKの顏を見ました。私にはKが何と答へるだらうかといふ好奇心があつたのです。Kの唇は例のやうに少し顫へてゐました。それが知らない人から見ると、丸で返事に迷つてゐるとしか思はれないのです。御孃さんは笑ひながら又何か六づかしい事を考へてゐるのだらうと云ひました。Kの顏は心持薄赤くなりました。
其晩私は何時もより早く床へ入りました。私が食事の時氣分が惡いと云つたのを氣にして、奥さんは十時頃蕎麥湯を持つて來て吳れました。然し私の室はもう眞暗でした。奥さんはおやおやと云つて、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈(ランプ)の光がKの机から斜にぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きてゐたものと見えます。奥さんは枕元に坐つて、大方風邪を引いたのだらうから身體を暖ためるが可(い)いと云つて、湯呑を顏の傍へ突き付けるのです。私は已を得ず、どろ/\した蕎麥湯を奥さんの見てゐる前で飮んだのです。
私は遲くなる迄暗いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしてゐるだらうと思ひ出しました。私は半ば無意識においと聲を掛けました。すると向ふでもおいと返事をしました。Kもまだ起きてゐたのです。私はまだ寢ないのかと襖ごしに聞きました。もう寐るといふ簡單な挨拶がありました。何をしてゐるのだと私は重ねて問ひました。今度はKの答がありません。其代り五六分經つたと思ふ頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るやうに聞こえました。私はもう何時かと又尋ねました。Kは一時二十分(ふん)だと答へました。やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中(うちぢゆう)が眞暗なうちに、しんと靜まりました。
然し私の眼は其暗いなかで愈冴えて來るばかりです。私はまた半ば無意識な狀態で、おいとKに聲を掛けました。Kも以前と同じやうな調子で、おいと答へました。私は今朝彼から聞いた事に就いて、もつと詳しい話をしたいが、彼の都合は何うだと、とう/\此方(こつち)から切り出しました。私は無論襖越にそんな談話を交換する氣はなかつたのですが、Kの返答だけは卽坐に得られる事と考へたのです。所がKは先刻(さつき)から二度おいと呼ばれて、二度おいと答へたやうな素直な調子で、今度は應じません。左右だなあと低い聲で澁つてゐます。私は又はつと思はせられました。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「私が家へ這入ると間もなく俥の音が聞こえました。今のやうに護謨輪のない時分でしたから、がら/\いふ厭な響が可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の本箇所の注によれば、明治40(1907~)年代には人力車の車輪は既にゴム製、更にはチューブ式のものが一般的であったと記す。私は本シーンを明治34(1901)年に同定している。この頃はまだ人力車の車輪部分は枠が木製で鉄製タイヤ相当部分が鉄製であった(藤井氏注による)。底本注には斉藤俊彦「人力車」から引用して、『木製の車輪に鉄輪をはめこんだものが、明治四十年代を境として、次第にゴム輪に交代していくのである。当時、ゴム製造工業がようやく発達して、人力車タイヤが盛んに生産されるようになったという背景がある。明治四十二年ごろから、人力車にソリッドタイヤがつけられるようになり、わずか二年ぐらいの間に全国の人力車が使用するようになったようである。(中略)明治四十五年には(中略)九割までが金輪(かなわ)からゴム輪にかえられたという。そして四十五年ごろからソリッドタイヤからしだいに空気入りタイヤとなり、大正三年にはほとんど空気入りタイヤとなった。』とある。我々は先生の遺書を読む時、明治30(1897~)年代の、こうした音風景の中にいることを意識する必要がある。
♡「まだ奥さんと御孃さんの晴着が脫ぎ棄てられた儘、次の室を亂雜に彩どつてゐました」この描写は茶の間の次の間である。
♡「蕎麥湯」そば粉を湯で溶いた飲み物。発汗を促して、風邪によいとされた。「坊つちやん」の「二」の淸(きよ)の描写部分に「母が死んでから淸はいよいよおれを可愛がつた。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思つた。つまらない、廢(よ)せばいいのにと思つた。氣の毒だと思つた。それでも淸は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔(きんつば)や紅梅燒を買つてくれる。寒い夜などはひそかに蕎麥粉を仕入れておいて、いつの間にか寢ている枕元へ蕎麥湯を持つて來てくれる。時には鍋燒饂飩(なべやきうどん)さへ買つてくれた。」とある。
♡「無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです」例の先生の「ぐるぐる」である。
♡「Kは一時二十分だと答へました。やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中が眞暗なうちに、しんと靜まりました」私には何か不吉な気がするシーンである。何で不吉なのかは美味く説明出来ない。しかし不吉である。そもそもこの細かな午前1時20分という時刻は一対何か?――私は――根拠はないのだが――
Kの自殺は1:20に決行された
と漠然と感ずるのである。
♡「私は又はつと思はさせられ」たのは何故か? 勿論、このしぶりから、Kが最早、先生の助言を必要とせず、果敢に自ら御嬢さんへの恋の道を自律的に歩もうとしているのではないか? と先生が思ったからである。]
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