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2010/07/20

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十八回

Kokoro15_3   先生の遺書

   (八十八)

 「私はKに向つて御孃さんと一所に出たのかと聞きました。Kは左右ではないと答へました。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだと說明しました。私はそれ以上に立ち入つた質問を控へなければなりませんでした。然し食事(しよくし)の時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました。すると御孃さんは私の嫌ひな例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸(ちよつと)判然(はんせん)しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌(きらひ)な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其嫌な所は、Kが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに對する私の嫉妬に歸して可(い)いものか、又は私に對する御孃さんの技巧と見傚(みな)して然るべきものか、一寸分別に迷ひました。私は今でも決して其時の私の嫉妬心を打ち消す氣はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面(りめん)に此感情の働きを明らかに意識してゐたのですから。しかも傍(はた)のものから見ると、殆ど取るに足りない瑣事(さじ)に、此感情が屹度(きつと)首を持ち上げたがるのでしたから。是は餘事ですが、かういふ嫉妬は愛の半面ぢやないでせうか。私は結婚してから、此感情がだん/\薄らいでいくのを自覺しました。其代り愛情の方も決して元のやうに猛烈ではないのです。

 私はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思ひに相手の胸へ擲(たゝ)き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御孃さんではありません、奥さんの事です。奥さんに御孃さんを吳れろと明白な談判(だんぱん)を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日(にち)/\と私は斷行の日を延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます、又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。Kの來ないうちは、他の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑へ付けて、一步も動けないやうにしてゐました。Kの來た後(のち)は、もしかすると御孃さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絕えず私を制するやうになつたのです。果して御孃さんが私よりもKに心を傾むけてゐるならば、此戀は口へ云ひ出す價値のないものと私は決心してゐたのです。恥を搔かせられるのが辛いなどゝ云ふのとは少し譯が違ひます。此方(こつち)でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼(まなこ)を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應なしに自分の好(す)いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯(か)うか落ち付くものだ位(くらゐ)の哲理では、承知する事が出來ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尙な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです。

 肝心の御孃さんに、直接此私といふものを打ち明ける機會も、長く一所にゐるうちには時々出て來たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、さういふ事は許されてゐないのだといふ自覺が、其頃の私には强くありました。然し決してそれ許りが私を束縛したとは云へません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな塲合に、相手に氣兼なく自分の思つた通りを遠慮せずに口にする丈の勇氣に乏しいものと私は見込んでゐたのです。

Line_3

 

やぶちゃんの摑み:本章の最後は、先生の世代の旧態依然とした男女感覚・男女観が厳に示されているのだが、注意すべきは先生やKはそうであったが、同時代人ではあっても、明らかに先生やKと微妙に若い、受け手である靜も全く同様に考えていたと思い込むのは、やや早計である。そう思い込んでいる先生自身、早計である。

 

「眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだ」「眞砂町」は現在の文京区本郷4丁目、前章の柳町交差点の北から下りて来る白山通りと東に伸びる春日通りに挟まれた東北部分一帯の旧地名である。漱石絡みでは、ここに愛媛県の育英事業による寄宿舎常磐会があり、学生時代の友人正岡子規が明治211888)年9月から2412月迄の3年間ここで寄宿生活をしている。前章で路上で逢ったKは先生の「どこへ行ったのか」と言う問いに対して何時ものようにふんという調子で「ちょっとそこまで」と答えている。彼は一体、何処に何しに行ったのだろう? 思い出してもらおう。「其日もKは私より後れて歸る時間割だつたの」だから彼は、この日、本来ならまだ大学で講義を受けていなくてはならなかったはずである。だから、先生も「何うした譯かと思」ったのである。奥さんにその疑問を洩らすと、奥さんは「大方用事でも出來たのだらう」と答えている。これは推測に過ぎないが、Kが一人で出たことは前後の関係から間違いないと見てよいだろう。御嬢さんはもっと前に外出していた。しかし――Kは何をしに真砂町方向へ出向いていたのであろう? 大学の講義をサボってまで(勿論、偶然休講であったのかもしれない)行かねばならない用事とは何であったのか? そしてお嬢さんと「偶然出會つた」わけだ――先生になりきってみれば、疑惑が払拭出来ないのは当然と言えば当然ではなかろうか? そして更に次の御嬢さんとの会話が先生の疑心暗鬼をいやが上にも増幅させることとなる。

 

「然し食事時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました」これが「同じ問」であったとすると、

 

先生「……お嬢さん、今日は……彼と一緒に出られたんですか?」

御嬢さん「(笑いを浮かべながら)いいえ。」

先生「……。」

御嬢さん「(笑いを浮かべつつ、悪戯っぽく伏目がちの先生を覗き込むような感じで)ふふっ、私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」

奥さん 「(睨みながら)これ!」

御嬢さん、ペロと僅かに舌を出す。

Kは全く意に関せず、黙々と沢庵をぼりぼりかじって飯を食っている。

 

といったシーンになろうか(当時の御嬢さんが舌を出すような真似はしなかったかも知れない)。ここで先生はその様子を「御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸判然しない點がありました」と描写したまま、「私」への解説に入って、このシーンを知らぬ間にフェイド・アウトしてしまう。その結果、我々は第(七十四)回に現われたあの「私の嫌ひな例の笑ひ方」――「何處へ行つたか中てゝ見ろ」という先生によって書き換えられたぞんざいな靜の口調――それは「癇癪持」だった当時の私の神経を逆なでするような謂い――「さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立」ったのに――「其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人」だけで――Kはいつも以上に「寧ろ」飄々として私を完全に無視し「平氣で」あったと描写したままに――そこから現在時制を離れてしまい、そうしたお嬢さんの「私の嫌な所はKが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出した」――それはもしかすると「Kに對する私の嫉妬」にもとづくものであったかもしれないが、場合によっては「私に對する御孃さんの技巧と見傚」すのが正しいと思われるような場面もあった――と述べて、嫉妬論に入るわけだ。この嫉妬と愛情の関係分析や恋愛論・結婚観は正鵠を射ており、私自身は何らの疑義も感じない。大いに共感すると言ってもよい。そう、この『遺書を書いている先生』のここでの見解は、美事に正しい。嫉妬にもこの直前の場面に対しても、である。――ところが『この回想の中の現在時制での先生』は、――この直前場面の分析を誤っているのである。その証拠に、我々はこの場面での靜の「嫌ひな笑ひ」を浮かべたアップの口元、「何處へ行つたか中てゝ見ろ」というぞんざいな口調ばかりがアップになり、先生の神経を逆なでにする「不眞面目」な「若い女」と、フンとした私を完全に無視して「平氣」な冷たいKの横顔ばかりが印象付けられる結果となるからである。

 

 さて、ここを今回、靜や奥さんの意識からちょっと分析してみたいと思う。先の私のシーンを見て頂きたいのである。奥さんが「これ!」と靜を睨んだ点に注意しよう。ここで奥さんが先生に特に言葉添えて靜の行き先について述べるシーンがないのである。そこから奥さんは靜がその日何処へ行っていたかを当然知っている――靜がKと何処かに密かに行ったなどということは無論あり得ず、また靜とKが二人で何処かへ行ったことを奥さんは承知していて黙っている、なんどということも100%あり得ないのも当然である。だからこの「これ!」で終わりなのである。Kが平然としているのも当然である。Kの言う通り、「偶然出會つたから連れ立つて歸つて來た」に過ぎなかったからである。そのKが普段よりも一層「平氣で」あったのが奇異に先生に見えたのは、先生の疑心暗鬼に加えて、Kが自身の内的変化(御嬢さんへの恋愛感情)を外部への表出するのを抑止しようとする現象の結果である。そういう点では「Kは寧ろ平氣でした」という表面的な微妙な変異の観察は正しいと言える。問題は、では御嬢さんは何処へ何しに行ったのか? という点である。御嬢さんは(私の推測では)、

 

御嬢さん「(依然として例の笑いを浮かべつつ、悪戯っぽく伏目がちの先生を覗き込むような感じで)ふふっ、私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」

 

と焦らすのである。この「私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」は、二つの解釈が可能である。

 

①何処へ行ったか当ててもらいたいわ。

②何処へ行ったか貴方には決して分からないわ。

 

である。更にそこは、

 

Ⅰ 先生の知っている場所であって、しょっちゅう行っている場所。

Ⅱ 先生の知っている場所であるが、行ったことはない場所。

Ⅲ 先生は知らないし行った事もない場所。

 

の場合分けがあり得る。

 

②でⅢというのはこういう悪戯っぽい言い方にはならないから除外出来る。

①ならばⅠかⅡであり、たとえば、他の場面に現われる奥さんの妹と思われる叔母の家や、女学校の授業関連で東京帝国大学研究室や図書館、東京高等女子師範学校(現・御茶ノ水大学)等へ行ったケースが考え得る。真砂町で出会ったというのもそれならば自然に思われる。しかし、であれば、その事実を知るはずの奥さんが助け舟を出して先生にその事実を述べるものと思われるから選択肢からはずす。

但し、叔母の家であって、その用件が縁談であったとしたら? それを断わるために行ったとしたら?……しかしそれならば奥さんも必ず一緒に行かずにはおかないから、あり得ない。そもそも市ヶ谷の叔母の家では真砂町を歩いているというのは方向違いである。

 

そうすると②であってⅢのケースではないか?

 

条件を並べてみる。

 

・奥さんが行き先を知っているが、そこが何処かを遂に言わない。

・稽古事ではない(だったらああいう聞き方はしない)。

・帰り道で逢った際、Kの後にいた「御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をし」ている。これはKと一緒だったからではなく、その「何処か」からの帰りであったからではないか?

・御嬢さんは何時になく操状態である(その言い方が如何にもハイであるから、先生の言い換えがきついものになった)。

・Kも勿論知らない(帰り道で逢ってもKに言わなかった。言えなかった)。

・真砂町の先にその「何処か」はある。

 

――以下は、あくまで私の牽強付会の一つの解釈である。その結論は陳腐なものである。ドラマにさえならぬ。

 

……靜は婦人科的な体調不良を最近感じていた。そこで奥さんに相談したところ、大事をとって東京大学附属病院の婦人科で診察をしてもらうのがよい、ということになった(その診察自体は数日前としてもよい。その方が靜の心理的には相応しい)。不安の中でその結果を受けに行ったが、何ら問題ないという結果であった。その帰りでKや先生にダブルで逢ってしまい、行き先が行き先であったから「心持薄赤い顏をし」たが、帰ってみれば、健康ということで、靜はすっかり嬉しくなり、食事の際の先生の言葉にも、『こんな元気な私が病院に行ったなんて、とっても当りっこないわ!』といったハイな気分の高揚から、つい悪戯っぽい謂いになってしまった。娘の気持ちも分からないではない奥さんではあったが、流石に「これ!」と、それをたしなめた。……

 

如何にもショボい仮定だと思われたかも知れない。――しかし十分あり得る現実的な可能性を私は考えたつもりである。実生活なんて実際にどうということのないショボいものである――どうということのある危いサスペンス劇場のようなKとの密会の可能性なんどを、先生のぐるぐるのようにずるずるずるずる引きずるよりも――ずっと私には真実らしく感じられる解釈なのである。しかも、その帰りに二人の青年にエスコートされた形となった彼女は、まるでお姫さまのようではないか――

 

「極めて高尙な愛の理論家」結婚と言う実行行為を行う場合には、必ず相思相愛であることを必要条件としなければならない人間であるということ。相思相愛でなくては「愛」ではないという命題を真とする理論家。

 

「尤も迂遠な愛の実際家」真実、相思相愛であることを、必ず確認した上でなければ結婚という実行行為に移ってはならないと考える人間であるということ。相思相愛であるという命題が真であることが立証されねば結婚はあり得ないという厳密実際に則る人間。]

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