『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月6日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十四回
(七十四)
「Kと私は同じ科へ入學しました。Kは澄ました顏をして、養家(やうか)から送つてくれる金で、自分の好な道を步き出したのです。知れはしないといふ安心と、知れたつて構ふものかといふ度胸とが。二つながらKの心にあつたものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平氣でした。
最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉强するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀音(おほかんのん)の傍(そば)の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂(ほんたう)のすぐ傍(そば)の狹い室でしたが、彼は其處で自分の思ふ通りに勉强が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸に珠數(じゆず)を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留(と)めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。
私は又彼の室に聖書を見ました。私はそれ迄に御經の名を度々彼の口から聞いた覺がありますが、基督(キリスト)敎に就いては、問はれた事も答へられた例もなかつたのですから、一寸驚ろきました。私は其理由を訊ねずにはゐられませんでした。Kは理由(わけ)はないと云ひました。是程人の有難がる書物なら讀んで見るのが當り前だらうとも云ひました。其上彼は機會があつたら、コーランも讀んで見る積だと云ひました。彼はモハメツドと劒(けん)といふ言葉に大いなる興味を有つてゐるやうでした。
二年目の夏に彼は國から催促を受て漸く歸りました。歸つても專門の事は何にも云はなかつたものと見えます。家(うち)でも亦其處に氣が付かなかつたのです。あなたは學校敎育を受けた人だから、斯ういふ消息を能く解してゐるでせうが、世間は學生の生活だの、學校の規則だのに關して、驚ろくべく無知なものです。我々に何でもない事が一向外部へは通じてゐません。我々は又比較的内部の空氣ばかり吸(せつ)つてゐるので、校内の事は細大(さいだい)共(とも)に世の中に知れ渡つてゐる筈だと思ひ過ぎる癖があります。Kは其點にかけて、私より世間を知つてゐたのでせう、澄ました顏で又戾つて來ました。國を立つ時は私も一所でしたから、汽車へ乘るや否やすぐ何うだつたとKに問ひました。Kは何うでもなかつたと答へたのです。
三度目の夏は丁度私が永久に父母の墳墓の地を去らうと決心した年です。私は其時Kに歸國を勸めましたが、Kは應じませんでした。さう每年家へ歸つて何をするのだと云ふのです。彼はまた踏み留まつて勉强する積らしかつたのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の鄕里で暮らした其二箇月間が、私の運命にとつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰返しません。私は不平と幽鬱(いううつ)と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入(い)つて又Kに逢ひました。すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました。彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、此方(こつち)から自分の詐(いつはり)を白狀してしまつたのです。彼は最初から其覺悟でゐたのださうです。今更仕方がないから、御前の好きなものを遣るより外に途(みち)はあるまいと、向ふに云はせる積もあつたのでせうか。兎に角大學へ入つて迄も養父母を欺むき通す氣はなかつたらしいのです。又欺むかうとしても、さう長く續くものではないと見拔いたのかも知れません。
[♡やぶちゃんの摑み:上の通り、ここで当初の飾罫に戻っている。
♡「Kと私は同じ科へ入學しました」旧制第一高等学校は明治27(1894)年以降、帝国大学予科と位置づけられ、第一部が法学・政治学・文学、第二部が工学・理学・農学・薬学、第三部が医学に分科していた。私の推定は明治28(1895)年(又は前年)に二人は同時に入学しており、私の考える先生の後の専門(心理学)から言えば、二人は第一部に入ったことになる。医師の家に養子に行ったKは当然の如く第三部に入っていなければならないのに、この18歳の高等学校入学最初の時点から養父母を完全に欺いていたことになる。
♡「大觀音」現在の東京都文京区向丘(むこうがおか)にある浄土宗天昌山松翁院光源寺のこと(グーグル・マップ・データ)。通称「駒込大観音」の方が知られる。江戸後期から現在の地にある。奈良長谷寺の本尊を模した1丈6尺の大きな観音像で知られた(但し、本尊は阿弥陀如来)。漱石は「三四郎」に「大觀音の乞食」を登場させており、「硝子戸の中」の(九)では漱石自身の一高時代を回想して友達O(太田達人)との思い出の中で『大観音の傍(そば)に間借をして自炊してゐた頃には、よく干鮭(からざけ)を焼いて佗びしい食卓に私を着かせた。或時は餠菓子の代りに煮豆を買つて來て、竹の皮の儘雙方から突つつき合つた』などとある(因みに両作では「おおぐわんのん」と濁って読んでいる)。荒正人氏の集英社版漱石文学全集別巻の年譜を見ると、明治16(1885)年19歳の項に、『春から夏にかけて(推定)、太田達人と頻繁に交渉する。太田達人(大愚山人)は、大観音(おおかんおん)の傍らにすむ漢詩人・間中雲帆の離れ四畳半に下宿代なしで友人と二人で住む。その下宿に毎日のように訪れ、何度も泊る。』とある(この年譜を見る限りでは、当時の漱石の下宿は神田区猿楽町(現・千代田区)の末富屋とあるが、荒氏の記載のように頻繁に訪れており、漱石自身としては「硝子戸の中」のように『間借をして自炊』感覚であったのであろう)。残念ながら当時の観音像は昭和20(1945)年3月の空襲で寺院諸共焼失、現在のものは最近の建立になるものである。
♡「彼は手頸に珠數を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです」私は頗るこのシーンが好きである。それは二つの観点からである。それを語っておきたい。まず、この数珠を数える行為は、先生は奇妙に思ってはいるけれども一般によく行われる行(ぎょう)の一つである。釈迦の伝説に由来し、その百八個の珠(実際の数珠は個数を減じてあるが)を御仏の名を称えながら繰り返し数えることで魂が浄化され、遂にそれが数百万辺に至れば百八煩悩の業苦も消滅すると言われる反復行である。
まず私がこの部分に強く引かれるのは、この遺書を執筆している先生自身が、特異的にその現在時制で「詰らない事ですが、私はよくそれを」この遺書を書いている今この時にも「思ふのです」と述懐している点である。即ち、話の核心に入る前の、即ち、汚れる前の〈清浄なる先生の記憶の中にあるKの思い出〉の、その中でも最も深く刻まれているKの姿こそが、この数珠を繰る姿である、という点である。私は先生にとってのKという存在を考える時、このシーンにこそ原初的に立ち戻って始めて、先生とKの関係は見えてくるのではないかと思っている。
そして勿論、もう一つの魅惑は例の円運動である。特にこれは永遠に終わらない円環である。嘗てイッセー尾形が先生を演じたドラマ版ではラスト・シーン、海岸で笑顔の先生が数珠を断ち切って投げ打つシーンがセットされていた――私の好きなバッハのクラヴィーア曲集第1巻第1番前奏曲が被って、全体がスタジオ・セットによる撮影という点に無理はあったものの、そのエンディングの解釈は頗る印象的であったのを覚えている(詳細な感想は私のブログ『「こゝろ」3種(+1)映像作品評』を参照されたい)。
――「Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めたでせう」
と先生が言う時、今、こうしてこの摑みを記している私も、
――「Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めた」のか
を考えてしまうのである。そしてそこにこそ、
――その止まったKの「爪繰る手」の映像にこそ――
「心」を開明(解明ではない!)する禪機があるのではあるまいか? と思われてならないのである――。
♡「モハメツドと劒」一般には「コーランか剣か」で知られる成句。ウィキの「コーランか剣か」から引用する。『意味は「(イスラム教に)改宗するか、死ぬか」となる。「信仰か戦争か」と解釈されることもある。イスラム教の勢力が拡大するのに伴い、征服者が占領地民に対して用いた態度を言葉で示したものとされる。「右手にコーラン、左手に剣」とされることもある』。『実際には「コーランか貢納か剣か」といわれていて、イスラム帝国が占領した敵の都市に住んでいた住民にいった言葉とされている。イスラーム法下では異教徒、とりわけ『アブラハムの宗教』を信じるものはジズヤさえ支払えば、厳しい差別的待遇を受けるとはいえ基本的な信教の自由・財産権・生命権などを保障されていた』。『但し狂信的・教条的イスラーム指導者が現れた場合、『コーランか剣か』という厳しい要求が突きつけられることもあったのは事実である。歴史上ではムワッヒド朝やアウラングゼーブ時代のムガル帝国などで狭義の強制改宗が行われた。また多神教徒と啓典の民では待遇も異なり、前者にはより『コーランか剣か』という問いが突きつけられたことが多かった』。ムハンマドの言行録集である『ハディースには、まさに「強制」という項目が存在する。そこではムハンマドがユダヤ人に「コーランか剣か」を突きつけた歴史が語られている。
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「我々がモスクに居たとき、神の使徒(=ムハンマド)が来て、『ユダヤ人達のところへ行こう』と言ったので、我々は彼と共に出かけ、或る学校に入った。そこで預言者(=ムハンマド)が『ユダヤ人達よ、イスラームを受け入れよ、そうすれば身の安全を保証されよう』と言ったとき、彼らが『ムハンマドよ、お前の伝えたいことはそれか』と尋ねたので、彼は『そうだ』と二度答え、さらに『お前の伝えたいことはそれか』と尋ねられたときも、彼は『そうだ』と答えてから、『大地はアッラーと使徒(=ムハンマド)のものであることを知れ。わたしはそこからお前たちを追い出そうと思う。お前たちのうちで何がしかの財産を持つものは、それを売れ。さもなければ、大地はアッラーと使徒のものであることを知れ』と言った」―ハディース「強制」二の一
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『コーランか剣か』という"神話"の対極にあるもう一つの神話として、親イスラーム的学者によって唱えられ続けてきた『イスラームは平和と寛容の宗教、宗教的迫害とは無縁』というものがある。バーナード・ルイスはこの二つの神話はともに一定の真実を含んでいるが、実態はより複雑なものであると述べている』とある。この言葉が属性として持つ強力な攻撃性や対峙性は鎌倉新仏教であった、Kの惹かれている日蓮にも共通するものが見られ、Kの石部金吉的な一徹頑な人格や強烈な使命感と相俟ってKの意識構造の解明には必携のアイテムではある。そしてこの二人の宗派とKのもう一つの共通性が、その内に激しい原理主義者(ファンダメンタリスト)が潜んでいる点でもある。
♡「私の鄕里で暮らした其二箇月間が、私の運命にとつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰返しません。私は不平と幽鬱と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入つて又Kに逢ひました。すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました」ここは極めて重要なシーンであると私は思っている。何故なら、始めて遺書の冒頭以降、今まで主に語られて来た先生の側の時系列的陳述が、Kの時系列とぴったりリンクして立体的に見えてくる仕掛けとなっているからである。そしてそれは時間軸だけでなく、傷ついた共鳴する魂という精神軸の交差でもあるのである。]
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