『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十三回
(九十三)
「Kの生返事は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に觸れようとする氣色を決して見せませんでした。尤も機會もなかつたのです。奥さんと御孃さんが揃つて一日宅を空けでもしなければ、二人はゆつくり落付いて、左右いふ事を話し合ふ譯にも行かないのですから。私はそれを能く心得てゐました。心得てゐながら、變にいら/\し出すのです。其結果始めは向ふから來るのを待つ積で、暗に用意をしてゐた私が、折があつたら此方で口を切らうと決心するやうになつたのです。
同時に私は默つて家のものゝ樣子を觀察して見ました。然し奥さんの態度にも御孃さんの素振にも、別に平生と變つた點はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼等の擧動に是といふ差違が生じないならば、彼の自白は單に私丈に限られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奥さんにも、まだ通じてゐないのは慥(たしか)でした。さう考へた時私は少し安心しました。それで無理に機會を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の與へて吳れるものを取り逃さないやうにする方が好からうと思つて、例の問題にはしばらく手を着けずにそつとして置く事にしました。
斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえますが、さうした心の經過には、潮の滿干(みちひ)と同じやうに、色々の高低(たかひく)があつたのです。私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へました。奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、二人の心が果して其處に現はれてゐる通なのだらうかと疑つても見ました。さうして人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るものだらうかと考へました。要するに私は同じ事を斯うも取り、彼(あ)あも取りした揚句、漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。更に六づかしく云へば、落ち付くなどゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません。
其内學校がまた始まりました。私達は時間の同じ日には連れ立つて宅を出ます。都合が可ければ歸る時にも矢張り一所に歸りました。外部から見たKと私は、何にも前と違つた所がないやうに親しくなつたのです。けれども腹の中では、各自(てんでん)に各自の事を勝手に考へてゐたに違ひありません。ある日私は突然往來でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、此間の自白が私丈に限られてゐるか、又は奥さんや御孃さんにも通じてゐるかの點にあつたのです。私の是から取るべき態度は、此問に對する彼の答次第で極めなければならないと、私は思つたのです。すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けてゐないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだつたので、内心嬉しがりました。私はKの私より橫着なのを能く知つてゐました。彼の度胸にも敵(かな)はないといふ自覺があつたのです。けれども一方では又妙に彼を信じてゐました。學資の事で養家(やうか)を三年も欺むいてゐた彼ですけれども、彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。
私は又彼に向つて、彼の戀を何う取り扱かふ積かと尋ねました。それが單なる自白に過ぎないのか、又は其自白についで、實際的の效果をも收める氣なのかと問ふたのです。然るに彼は其處になると、何にも答へません。默つて下を向いて步き出します。私は彼に隱し立をして吳れるな、凡て思つた通りを話して吳れと賴みました。彼は何も私に隱す必要はないと判然(はつきり)斷言しました。然し私の知らうとする點には、一言の返事も與へないのです。私も往來だからわざ/\立ち留まつて底迄突ま留める譯に行きません。ついそれなりに爲(し)てしまひました。
[♡やぶちゃんの摑み:索敵の結果、先生は不利と思われる短期決着による先制攻撃を中止し、敢えて先方の出方を探る、長中期的心理戦に移行することを決意する。先生はそうした経緯を次のように述べる。
……「斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえ」るかも知れませんが、「さうした心の經過には」極めて微妙な細部の変化や感情的高揚と消沈があったのです、「私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へ」て分析総合し、同時に一方の同盟可能な連合軍である「奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、二人の心が果して其處に現はれてゐる通」であるかどうかを解析し推論したのです。君も私も心理学を専攻していますが、この心という「人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るもの」とは限らないことは既に御承知のことと思います。私は彼等の表面に現れた表情や挙止動作というあらゆる現象のあらゆる可能性を忖度した上で「漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。」そうですね、「漸く此處に落ち付いた」のであって「更に六づかしく云へば、落ち付くなどゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません」。
先生は至極沈着冷静に戦況を判断しようとした、判断出来た(と思った)ことが、実はこの叙述から読み取れるのである。先生は恐ろしいまでに冷酷にして冷徹な判断の中でここに屹立しているのである。但し、最後の言葉(下線部)は意味深長である。これは次のように解釈される。
――やっとのことでこの中長期戦略の戦術に「落ち付いた」のであるが、厳密な意味で言えば、冷静な心理状態で論理的な検証の帰結によって「落ち付いた」などという表現を用いることが出来るような状況下にあったとはとても言えない。――
という意味である。冷静に判断した先生の一種の自己謙遜(但し、先生自身の心持ちとしては穏やかならざる中にあったことは事実ではあった。しかし先生の理性が「器械」のように働いたのも事実なのである)である。ここで先生は「此際」の戦略上の「冷静なる」分析を、秘かに自慢していると言えるのではなかろうか。
♡「其内學校がまた始まりました」条規通りであれば1月7日までが冬季休業であるが、実際に講義が開始されたのはもっと遅く、15日過ぎであることが多かったことが多くの資料から窺える。
♡「ある日私は突然往來でKに肉薄しました。……」
○(F.I.)大学の帰り道。往来。歩む二人。
先生「この間の話だが……あの話、あれは私だけに限られている話か、それとも……もう奥さんや御孃さんにも、通じているのか?」
K 「いや……勿論、お前以外の誰にも打ち明けては、いない。」
先生、内心の嬉々たる思いを殊更に抑えるように如何にも冷静に。
先生「……お前は……この恋をどう取り扱うつもりだ?……あの話は単なるお前の思いを述べた……そこに留まるものに過ぎんのか?……それとも……それとも現実に対して……実際的な効果をも収めようという気で、いるのか?」
前を向いたままのK、立ち止まる。先生も立ち止まる。K、黙ったまま。何かを言いかけて、また口を閉じ、下を向いたまま、またそろそろと歩き出すK。遅れる先生。後ろから、
先生「……俺に隠し立てはないだろ?……すべて思った通りのことを、話してくれるな?」
K 「……俺は……お前に何も隠す必要はない。……何も隠さん。」
K、ずんずん歩いて行ってしまう。追いかける先生。(F.O.)
♡「橫着」現在、この語は主に「ずるくなまけること」の意で用いられるが、辞書的には一番に『押しが強く遠慮のないこと。ずうずうしいこと。』(「広辞苑」)の意が挙がる。明治37(1904)年縮刷版大槻文彦「言海」には『知ラヌ風ヲシテ私ヲ行フコト。ワウダウ。』とだけある。即ち、ここでは自主的・自律的に自分で何でもやる性質(たち)の謂いで漱石は用いているのである。
♡「突ま留める」「突き留める」の誤植。]