『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十七回
(九十七)
「其頃は自覺とか新らしい生活とかいふ文字(もんじ)のまだない時分でした。然しKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新らしい方角へ走り出さなかつたのは、現代人の考へが彼に缺けてゐたからではないのです。彼には投げ出す事の出來ない程尊(たつ)とい過去があつたからです。彼はそのために今日(こんにち)迄生きて來たと云つても可い位(くらゐ)なのです。だからKが一直線に愛の目的物に向つて猛進しないと云つて、決して其愛の生溫い事を證據立てる譯には行きません。いくら熾烈な感情が燃えてゐても、彼は無暗に動けないのです。前後を忘れる程の衝動が起る機會を彼に與へない以上、Kは何うしても一寸(ちよつと)踏み留まつて自分の過去を振り返らなければならなかつたのです。さうすると過去が指し示す路を今迄通り步かなければならなくなるのです。其上彼には現代人の有たない强情と我慢がありました。私は此双方の點に於て能く彼の心を見拔いてゐた積なのです。
上野から歸つた晩は、私に取つて比較的安靜な夜(よ)でした。私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢(ひはち)に手を翳した後(あと)、自分の室に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時丈は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有つてゐたのです。
私は程なく穩やかな眠に落ちました。然し突然私の名を呼ぶ聲で眼を覺ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、其處にKの黑い影が立つてゐます。さうして彼の室には宵の通りまだ燈火(あかり)が點いてゐるのです。急に世界の變つた私は、少しの間(あひだ)口を利く事も出來ずに、ぼうつとして、其光景を眺めてゐました。
其の時Kはもう寢たのかと聞きました。Kは何時でも遲く迄起きてゐる男でした。私は黑い影法師のやうなKに向つて、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、たゞもう寐たか、まだ起きてゐるかと思つて、便所へ行つた序に聞いて見た丈だと答へました。Kは洋燈(ランプ)の灯(ひ)を脊中に受けてゐるので、彼の顏色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の聲は不斷よりも却て落ち付いてゐた位でした。
Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇に歸りました。私は其暗闇より靜かな夢を見るべく又眼を閉ぢました。私はそれぎり何も知りません。然し翌朝になつて、昨夕(ゆふべ)の事を考へて見ると、何だか不思議でした。私はことによると、凡てが夢ではないかと思ひました。それで飯を食ふ時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと云ひます。何故そんな事をしたのかと尋ねると、別に判然(はつきり)した返事もしません。調子の拔けた頃になつて、近頃は熟睡が出來るのかと却て向ふから私に問ふのです。私は何だか變に感じました。
其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅を出ました。今朝から昨夕の事が氣に掛つてゐる私は、途中でまたKを追窮しました。けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません。私はあの事件に就いて何か話す積ではなかつたのかと念を押して見ました。Kは左右ではないと强い調子で云ひ切りました。昨日上野で「其話はもう止めやう」と云つたではないかと注意する如くにも聞こえました。Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有つた男なのです。不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました。すると今迄丸で氣にならなかつた其二字が妙な力で私の頭を抑へ始めたのです。
[♡やぶちゃんの摑み:先生は遂に気づかないのだ。Kのような極めて厳格な理想主義者にとって、たった一度でも自己否定をしてしまうことが如何に致命的な重みを持つものであるかを。それは――自己存在そのものを否定すること以外には在り得ないのである。私はこの時点で、Kは既に自殺を決意していると確信しているのである。そして、もう一つ、はっきりと言えることがある。それはこれが先生にとって、人生で最後の「穏やかな眠り」と「靜かな夢」の一夜であったということである……
♡「自覺とか新らしい生活とかいふ文字のまだない時分」単行本「こゝろ」ではこの「自覺」は「覺醒」となる。『自覚』という語よりも『覚醒』という語の方が並列される「新しい生活」により相応しい。『自覚』は単に現在の自己の在り方を弁えること、現在の自己の置かれている状況を媒介としてその現在の自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること、即ち現在時制の自己存在を知ることのみを意味するが、『覚醒』の方は真の若しくは新しく進化した自己存在に目醒めることであり、将来性という近未来時制へのベクトルを持って目を醒ますことであるからである。更に言えば、ここで、Kに関わって仏教用語としての古くからの『覚醒』という語の『迷いから醒めること』や『迷いを醒ますこと』という先生にとって都合のいい解釈をも、ここでは想起されるからでもあろう。ここでの「まだない時分」とあるのは、島崎藤村の「破戒」(明治39(1906)年)に代表される自然主義の「自我の覚醒」、新理想主義の『白樺』(明治43(1910)年創刊)派の「新しい生活」等、これらの語が新時代の語としての属性を帯びて出現するのは、明治30年代の終わりから大正期にかけてであり、本作の推定時である明治34(1901)年前後より少し後の時期になるからである。例えば最も古いと思われる新時代の語としての「覺醒」を題に持つ岡倉天心の「東洋の覚醒」が書かれたのでさえ明治34~35(1901~1902)年頃(但し、これはそもそもが未発表原稿)である。そうして、ここで先生は当時の先生やKには「覺醒」や「新しい生活」といった都合のいい考え方、『アジール』はなかったのだとも言いたいのではないか? 即ち、当時は、今なら当たり前の「自覺とか新らしい生活とかいふ」少なくとも先生やKにとっては軟弱で誤魔化しとしか思えない、思えなかったであろう語も思想もなかったというニュアンスをも意味していると言えるのではなかろうか。故にこそ次の「私は此双方の點に於て能く彼の心を見拔いてゐた」という表現が続くのである。
♡「彼には投げ出す事の出來ない程尊とい過去があつたからです」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該部分の注は極めて興味深い内容である。本書の注釈は同時代人の当時の読みの視点を核としている点で、特異的である。詳細は原書に当って頂きたいが、幾つかの重要な部分を引用したい。まず藤井氏は、当時、こうした『Kの生き方や人間像は、同世代や後続の青年たちから圧倒的なまでの支持を集めていた』とされ、辰野隆(明治21(1888)年~昭和39(1964)年:仏文学者。大正3(1914)年当時は27歳、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業後、再度、東京帝国大学仏文科学生となっていた。)の「忘れ得ぬ人々」(昭和41(1966)年弘文堂書房刊)から『嘗て、『こころ』を読んだ当時、僕はKの自殺が不道徳であるとか、神の教へに背くとかいふ考へ方の入り込む余地のない程Kの死は緊張したものであつた』と引用、更に同書からの孫引きとして、同じ同時代人である安倍能成(あべよししげ 明治16(1883)年~昭和41(1966)年:哲学者・教育者・政治家。東京帝国大学文科大学哲学科卒業。大正3(1914)年32歳当時は教師。)言葉として、『私は『先生』―『こころ』の主人公―の恋のライヴァルKが非常によく書けて居ると思ふ。一面には周囲に鈍感であつて、強い意志で自分の志す所に精進する道徳的エゴイズム、然もそのエゴイズムの作為なく虚偽なき純真、同時に一切の責を自分に負つて人を累はさない孤独的な強さ、それも努めてやつたのではない自然的な強さは『先生』の遺書の中に、実に簡勁に具体的に描出されてゐる』(「累はさない」は「累(わづら)はさない」と読む)という同時代人の受け止め方を示して、実は『Kこそがある意味ではこの時代の典型的な青年像にほからなかった』ことを証明されている。素晴らしい注である。
♡「此双方の點に於て」これは整理しておかなくてはならぬ。先生は「積」と言っているが、これは誤りではなく、真である点をまず確認しなくてはならぬからである。
Ⅰ K(や私=先生)には投げ出すことのできないほど尊い過去がある点
Ⅱ K(や私=先生)には現代人の持たない強情と我慢がある点
わざわざ『(や私=先生)』を挟んだのは、先生がそう「能く彼の心を見拔いてゐた積」であったのは、取りも直さず先生自身も少なかれ、それを共有する心情があったからこそ、「能く彼の心を見拔」けたと言えるからである。但し、先生が「積」とわざわざ入れたのは、Kは御嬢さんへの「切ない恋」を断念する、精進の道へと戻るだろうと楽観的に「見抜いていた積」であったからである。即ちⅠ・Ⅱは真であったが、そこから推論した先生の分析と結果が誤ったに過ぎないという点を確認しなくてはならぬ。そこで照射されるのは、語られぬ先生の内なる「投げ出すことのできないほど尊い過去」であり、「現代人の持たない強情と我慢」なのではなかろうか?
♡「私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳した後、自分の室に歸りました」あの第(八十六)回の秘かな「凱歌」が、ここに遂に、いやらしくおぞましい侵略軍の大虐殺――怒濤の「凱歌」の雄叫びとなってKに襲いかかる。
♡「恐るゝに足りないといふ自覺」Kに対する強い勝利の忌まわしい優位感は、続く「穩やかな眠り」や「靜かな夢」という表現でも、悲しいダメ押しとして美事に表されてくるのである。
♡「間の襖が二尺ばかり開いて」凡そ60㎝も襖を開け、そこの敷居(二人の意識の境界線の比喩である)の上に立っているK(そう読める。KがKの部屋にぼうっと立っている映像は私なら絶対に撮らない。如何にもそれは私(やぶちゃん)にとって生理的に『厭な』映像だからである)。これは明らかに、Kが何か先生に話をする目的であったことが分かる。私はそれが――具体的な自死を伏せたKの『「覺悟」の決意の確かな表明』に関わるものであった――と確信するのである。何故か? Kにとって――『節の人』であり、『己を律しなくてはならぬ人』であるKにとって先の「覺悟、――覺悟ならない事もない」という選択的で曖昧にして不完全な(と受け取られるような)表明は、到底、自身に許し得るものではないから、である。
♡「Kは洋燈の灯を脊中に受けてゐるので、彼の顏色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の聲は不斷よりも却て落ち付いてゐた位でした」この日の上野での「Kはぴたりと其處へ立ち留つた儘動きません。彼は地面の上を見詰めてゐます。私は思はずぎよつとしました。私にはKが其刹那に居直り強盗の如く感ぜられたのです。然しそれにしては彼の聲が如何にも力に乏しいといふ事に氣が付きました。私は彼の眼遣ひを參考にしたかつたのですが、彼は最後迄私の顏を見ないのです。さうして、徐々(そろ/\)と又歩き出しました」(九十五)続いて、
★『Kの眼を見逃す先生(3)』
二人の部屋の間の襖、その敷居に立ち尽くすKの「黑い影法師」
↓しかし
シルエット故にKの表情・目は見えない
↓それどころか
「凡てが夢ではないか」と思うほど不思議な光景
に見え、それが事実であったかどうかさえ不審な先生は――戦勝の「穏やかな」甘く温もりに満ちた「眠り」によって寝惚けていた先生は――直後に直に「靜かな」(「靜」の!)子宮の中にいるような「夢」に墜ちていった先生は――わざわざその事実を翌朝Kに確認するというボケまでかましている。象徴的シチュエーションである。
Kの眼を見逃す
=Kの真意を見逃す
=Kの心を見落とす先生
何度でも言おう。
見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生
=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生
=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生
なのである。
♡「彼の聲は不斷よりも却て落ち付いてゐた位でした」とあるが、それは――Kの心の平静さ――Kに既にして死の決意がなされているからではなかったか?
♡「調子の拔けた頃になつて、近頃は熟睡が出來るのかと却て向ふから私に問ふのです。私は何だか變に感じました」この問い掛けは確かに「變」である。先生が熟睡出来ているかどうかが、Kにとって必要な情報であったのではあるまいか? 即ち――自分の深夜の自殺を支障なく遂行するための――事前の確認だったのでは、あるまいか?
♡「不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました。すると今迄丸で氣にならなかつた其二字が妙な力で私の頭を抑へ始めたのです」先生の致命的誤読と言う主題の前奏曲である。]
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