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2010/07/18

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月18日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十六回

Kokoro15   先生の遺書

   (八十六)

 「それのみならず私は御孃さんの態度の少し前と變つてゐるのに氣が付きました。久し振で旅から歸つた私達が平生(へいせい)の通り落付く迄には、萬事に就いて女の手が必要だつたのですが、其世話をして吳れる奥さんは兎に角、御孃さんが凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするやうに見えたのです。それを露骨に遣られては、私も迷惑したかも知れません。塲合によつては却つて不快の念さへ起しかねたらうと思ふのですが、御孃さんの所作は其點で甚だ要領を得てゐたから、私は嬉しかつたのです。つまり御孃さんは私だけに解るやうに、持前の親切を餘分に私の方へ割り宛てゝ吳れたのです。だからKは別に厭な顏もせずに平氣でゐました。私は心の中でひそかに彼に對する凱歌を奏したのです。

 やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた學校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自の時間の都合で、出入の刻限にまた遲速が出來てきました。私がKより後れて歸る時は一週に三度ほどありましたが、何時歸つても御孃さんの影をKの室に認める事はないやうになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今歸つたのか」を規則の如く繰り返しました。私の會釋も殆ど器械の如く簡單で且つ無意味でした。

 たしか十月の中頃と思ひます、私は寢坊をした結果、日本服の儘急いで學校へ出た事があります。穿物(はきもの)も編上などを結んでゐる時間が惜しいので、草履を突つかけたなり飛び出したのです。其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐました。私は戾つて來ると、其積で玄關の格子をがらりと開けたのです。すると居ないと思つてゐたKの聲がひよいと聞こえました。同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響きました。私は何時ものやうに手數のかゝる靴を穿いてゐないから、すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた丈でした。私はKに何うして早く歸つたのかと問ひました。Kは心持が惡いから休んだのだと答へました。私が自分の室に這入つて其儘坐つてゐると、間もなく御孃さんが茶を持つて來て吳れました。其時御孃さんは始めて御歸りといつて私に挨拶をしました。私は笑ひながらさつきは何故逃げたんですと聞けるやうな捌けた男ではありません。それでゐて腹の中では何だか其事が氣にかゝるやうな人間だつたのです。御孃さんはすぐ座を立つて緣側傳ひに向ふへ行つてしまひました。然しKの室の前に立ち留まつて、二言三言内と外とで話しをしてゐました。それは先刻の續きらしかつたのですが、前を聞かない私には丸で解りませんでした。

 そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來ました。Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の緣側へ來て彼の名を呼びました。さうして其處へ入つて、ゆつくりしてゐました。無論郵便を持つて來る事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるのですから、其位の交通は同じ宅にゐる二人の關係上、當然と見なければならないのでせうが、是非御孃さんを專有したいといふ强烈な一念に動かされてゐる私には、何うしてもそれが當然以上に見えたのです。ある時は御孃さんがわざ/\私の室へ來るのを回避して、Kの方ばかり行くやうに思はれる事さへあつた位です。それなら何故Kに宅を出て貰はないのかと貴方は聞くでせう。然しさうすれば私がKを無理に引張つて來た主意が立たなくなる丈です。私にはそれが出來ないのです。

Line

 

やぶちゃんの摑み:本章はこの十一月の出来事を中に挟んで折れ曲がり、遂にカタストロフへと雪崩れ込んでゆく。

 

♡「Kは心持が惡いから休んだのだと答へました」もし、これがKの嘘だったとしたどうだろう? 後の誰かの卑劣な嘘とよく似ている言いではないか?

 

「御孃さんの態度の少し前と變つてゐるのに氣が付きました」と思い込んだだけである。それはこの段落の叙述全体を見渡すと容易に察せられる。御孃さんのその所作は「私だけに」しか解からなかったのである。即ち、私の錯覚である。それは「露骨」でなく、「甚だ要領を得てゐ」て、「私だけに解るやうに、持前の親切を餘分に私の方へ割り宛てゝ吳れた」ものであったと先生は言う。Kのみならず誰が見ても気付かぬように、である。そんな絶妙な手練手管を靜が持っているように今まで描かれていたか? これからも描かれているか? 私は靜が好きである――が、結婚後の靜を見てもそのような幽玄微妙な手技を持ち合わせているようには思われない。寧ろあの笑う女としての靜には、ある種の見え透いた雑な戦術が垣間見えるほどだ。御嬢さんは全く「凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするやうに」はしなかったのだ。だから「Kは別に厭な顏もせずに平氣で」いたのは当たり前なのだ。「心の中でひそかに彼に對する凱歌を奏した」先生は真正の大馬鹿者であったのだ。このお目出度い上昇する優越感の急勾配が、直後の急速な下降に向かう地滑りの被害妄想を生み出すこととなる。

 

「不快の念さへ起しかねたらうと」これは誤植。原稿は正しく「不快の念さへ起しかねなかつたらうと」である。

 

「凱歌」勝鬨(かちどき)。戦争に勝った時、一斉に挙げる鬨(とき)の声。また、戦いに勝って凱旋する際、勝利を祝う歌。そう、やっぱり戦争なのである。

 

「奏したのです。」単行本では「奏しました。」と変更。

 

「何時歸つても御孃さんの影をKの室に認める事はないやうになりました」この描写はこの後の場面へのダークな猜疑的遠景として確信犯的に漱石が配したもののように思われる。即ち――この時期、実はKと御嬢さんは頻繁に宅(うち)の中で逢っていた。しかし、それは先生の時間割を知っている二人が先生の帰ってくる時刻を避けて密かに逢っていたのであったのだ――勿論、この後の疑心暗鬼のブラック・ホールへ墜ちてゆく先生がぐるぐると考えて辿りつく忌まわしい妄想の中で、である。

 

「私の會釋も殆ど器械の如く簡單で且つ無意味でした」という叙述は、実は先生とKがこの頃、殆んど親密な会話をしていなかったことを意味しているとは考えられまいか? 会釈でさえ「殆ど器械の如く簡單で且つ無意味」であると叙述する人間同士が、それ以外の時には砕けた話や難しい問題を議論しているとは思われない。この時点で既に先生の側からのKへの心的な連絡は完全に冷め切り、遮断されいた――と考えられはしまいか? 最早――敵でさえない――という凱歌を奏した彼は、旧来のようにKを畏敬し、旧来同様に親密になれるはずがない、とは言えまいか? 少なくともこう叙述する先生の眼は――慄っとするほど――冷たい――のである。

 

「たしか十月の中頃と思ひます、……」冒頭で基本的には先生の推測を疑心暗鬼の被害妄想と私はとるわけだが、以下のこのエピソードは、しかし、純然たる先生の被害妄想だけで説明するには、やや微妙な幾つかの問題も孕んでいるようには思われる。例えば「其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐ」たがKはいた。Kに言わせると「心持が惡いから休んだ」のだという。一日中いたのである。もしかすると半日の間、看病と称して靜はKの傍に付き添い、親しく話しをしていたのかもしれない(とも思わせる設定ではないか)。そもそも「心持が惡い」のに「机の前に坐つてゐる」Kは何をしていたのか? 「例の通り」とあるから書見をしていたのか? 書見をせずに机にぼうっと向いているKという構図は奇妙な光景だ。いや勿論、その直前に御嬢さんと話をしていたのだ。「Kの聲がひよいと聞こえ」、「同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響」くということは、Kが御嬢さんの笑いを誘うような応答を、話をしたことを意味する。平素女を馬鹿にしていたKが靜を笑わせるような話をするというのは、これは先生ならずとも、読者である我々にとっても驚天動地の出来事ではないか? 最近のKの心の中には何か、確かに新しい変化が起こったとしか思われない(それに気付かぬ先生。Kも先生の靜への恋情に気付かぬように、先生もKのそうした変化に気付いていないのである)。更に「すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた」という部分、この先生目線の靜の襟足は妙にエロティックで危いように私には映像化されるのである。全てを先生の妄想だけに帰することは出来ない気がしてくるのである。少なくとも――『……Kと靜……この二人には何かあるのではあるまいか?……』(実際にはそれは何でもないものかもしれない。しかし、それは遂に分からない)――と先生の内心と同様の思いを読者にも感じさせるように――漱石は確信犯で仕組んでいる。本作中出色の恋愛サスペンス劇がここに幕を切って落すのである。

 

「無論郵便を持つて來る事もある」ここが私には以前からやや気になっている。Kには友人らしい友人はいない上に養家とも実家とも縁が切れている。Kに郵便物が届くということがあるのだろうか? 唯一、血が繋がって気にして呉れている実の姉がいるが、彼女がそんなに頻繁に手紙を寄越すとは思われない。Kに郵便物が来ることは、殆んどないと考えた方が自然である。従って、これは靜がKの元へ行くことを納得するための、先生の心理上の無理な理由付けである可能性があるように思われるのである。

 

「是非御孃さんを專有したいといふ强烈な一念に動かされてゐる」ために先生は疑心暗鬼の二重螺旋を地獄の底まで下ってゆくことになる。先生には「そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來」たように見えてきたのである。それは基本的には疑心暗鬼の延長上にあると一応考えてよいが、微妙な部分はある。何故なら直後に先生は「Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の縁側へ來て彼の名を呼びました。さうして其處へ入つて、ゆつくりしてゐました」と断定している点である。以前には殆んどなかったと思われるそうした靜の挙止動作が明らかに先生の目に付くように増えた可能性は否定出来ない。「無論郵便を持つて來る事もある」で注したように、事実、増えたものと私は思うのである。]

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