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2010/07/03

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月3日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十一回

Kokoro15_6   先生の遺書

   (七十一)

 「私が書物ばかり買ふのを見て、奥さんは少し着物を拵(こしらへ)ろと云ひました。私は實際田舍で織つた木綿ものしか有つてゐなかつたのです。其頃の學生は絹の入つた着物を肌に着けませんでした。私の友達に橫濱の商人か何かで、宅は中々派出(はで)に暮してゐるものがありましたが、其處へある時羽二重(はぶたへ)の胴着(どうぎ)が配達で屆いた事があります。すると皆ながそれを見て笑ひました。其男は耻かしがつて色々辯解しましたが、折角の胴着を行李の底へ放り込んで利用しないのです。それを又大勢が寄つてたかつて、わざと着せました。すると運惡く其胴着に蝨(しらみ)がたかりました。友達は丁度幸ひとでも思つたのでせう、評判の胴着をぐる/\と丸めて、散步に出た序に、根津の大きな泥溝(どぶ)の中へ棄ててしまひました。其時一所に步いてゐた私は、橋の上に立つて笑ひながら友達の所作を眺めてゐましたが、私の胸に何處にも勿體ないといふ氣は少しも起りませんでした。

 其頃から見ると私も大分大人になつてゐました。けれども未だ自分で餘所行(よそゆき)の着物を拵へるといふ程の分別は出なかつたのです。私は卒業して髯(ひけ)を生やす時代が來なければ、服裝の心配などはするに及ばないものだといふ變な考を有つてゐたのです。それで奥さんに書物は要るが着物は要らないと云ひました。奥さんは私の買ふ書物の分量を知つてゐました。買つた本をみんな讀むのかと聞くのです。私の買ふものゝ中には字引もありますが、當然眼を通すべき筈でありながら、頁(ページ)さへ切つてないのもあつたのですから、私は返事に窮しました。私は何うせ要らないものを買ふなら、書物でも衣服でも同じだといふ事に氣が付きました。其上私は色々世話になるといふ口實の下に、御孃さんの氣に入るやうな帶か反物(たんもの)を買つて遣りたかつたのです。それで萬事(ばんし)を奥さんに依賴しました。

 奥さんは自分一人で行くとは云ひません。私にも一所に來いと命令するのです。御孃さんも行かなくてはいけないと云ふのです。今と違つた空氣の中に育てられた私共は、學生の身分として、あまり若い女などと一所に步き廻る習慣を有つてゐなかつたものです。其頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇しましたが、思ひ切つて出掛けました。

 御孃さんは大層着飾つてゐました。地體(ぢたい)が色の白い癖に、白粉を豐富に塗つたものだから猶目立ちます。往來の人がじろ/\見て行くのです。さうして御孃さんを見たものは屹度(きつと)其視線をひるがへして、私の顏を見るのだから、變なものでした。

 三人は日本橋へ行つて買ひたいものを買ひました。買ふ間にも色々氣が變るので、思つたより暇がかゝりました。奥さんはわざ/\私の名を呼んで何うだらうと相談をするのです。時々反物を御孃さんの肩から胸へ竪(たて)に宛てゝ置いて、私に二三步退いて見て吳れろといふのです。私は其度ごとに、それは駄目だとか、それは能く似合ふとか、兎に角一人前の口を聞きました。

 斯んな事で時間が掛つて歸りは夕飯(ゆふめし)の時刻になりました。奥さんは私に對する御禮に何か御馳走すると云つて、木原店(きはらだな)といふ寄席のある狹い橫丁へ私を連れ込みました。橫丁も狹いが、飯を食はせる家も狹いものでした。此邊の地理を一向心得ない私は、奥さんの知識に驚ろいた位です。

 我々は夜に入つて家へ歸りました。其翌日(あくるひ)は日曜でしたから、私は終日室の中(うち)に閉ぢ籠つてゐました。月曜になつて、學校へ出ると、私は朝つぱらさうさう級友の一人から調戲(からか)はれました。何時妻(さい)を迎へたのかと云つてわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君は非常に美人だといつて賞めるのです。私は三人連で日本橋へ出掛けた所を、其男に何處かで見られたものと見えます。

Lineburoguhosob_7

 

やぶちゃんの摑み:靜の美しさが作中最も鮮烈に描かれるシーンである。撮影の腕の見せどころである。上記の通り、標題の背景画が変更されている。やっと変な翳から解放される。どうもあれは私は気に入らなかった。

 

「羽二重」ウィキの「羽二重」より引用する(記号の一部を変更した。『羽二重(はぶたえ、英: habutae silk)は平織りと呼ばれる経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。絹を用いた場合は光絹(こうきぬ)とも呼ばれる。通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽く光沢のある布となる。白く風合いがとてもよいことから、和服の裏地として最高級であり、礼装にも用いられる。日本を代表する絹織物であり「絹のよさは羽二重に始まり羽二重に終わる」といわれる』。『羽二重は日本では近世から始められたと伝わっている伝統的な織物である。明治10年頃から京都や群馬県桐生などで機織り機の研究が進められ、明治20年頃には福島県川俣、石川県、福井県などで生産されるようになった。明治時代、日本の絹織物の輸出は羽二重が中心であり、欧米に向けてさかんに輸出され、日本の殖産興業を支えた。羽二重は国内向けのものと輸出向けのものがあり、輸出されるものを「輸出羽二重」と呼んだ』。記事の感触が独特で、私の妻に言わせると「手に吸い付くような感じ」だそうである。因みに私の家には羽二重は妻の和装喪服一着があるのみである。

 

「胴着」胴衣・胴服とも。和服の上着と襦袢との間に着る綿入れを短くしたような防寒用の衣服。

 

「絹の入つた」単行本「こゝろ」では「絹」に「いと」という当て読みをしているが、初出は通常に「きぬ」とルビする。「蝨」昆虫綱咀顎目シラミ亜目ヒトジラミ科コロモジラミPediculus humanus corporis。典型的なシラミらしい形をしたシラミである。

 

「根津の大きな泥溝」江戸切絵図と現在の地図を重ねて調べると、を見ると不忍池の北西角から真北に向かって川が伸びており、これは現在の不忍通りに平行して流れ、通りと同様に根津神社の約300m離れた東北のところで北北東に曲る藍染川と、西南西へと流れて根津神社の西側を除く周囲に接する流れに分かれている。この二つの川筋は現在消滅して一部が暗渠になっているが、私は藍染川ではなく、この江戸切絵図にある藍染川から分岐した根津神社の周囲の側溝がこの頃は残っていて、それを「泥溝(どぶ)」と表現しているのではなかろうかと考える。言わずもがなであるが、根津神社の南は直ぐに東京大学の敷地となっている。

 

「私は卒業して髯を生やす時代が來なければ」「ひけ」は勿論「ひげ」の誤植。この謂いや作者漱石のことを考えれば、先生は大学卒業後に髭を生やしていた可能性が高い。幾つかの「こゝろ」の後発の出版物の挿絵などでそのようなチャップリン様の鼻髭を生やした先生の絵を見た気もする(漱石自身は30代にカイゼル髭、晩年はちょび髭であったようだ)が、私が監督なら、「私」と逢う先生に髭は生やさせない。

 

「頁さへ切つてないのもあつた」フランス装(綴じ)・アンカット装(本)のことを言っている。仮綴装本の一種で、綴じただけで裁断をせず、縁を折り曲げただけの紙表紙などで包んだ装本のこと。ペーパー・ナイフを用いてページごとに切って読むようになっている。元来は愛書家がオリジナルに装丁し直すためのものであったが、装丁しない分、安価であった。但し、後には詩人や作家が自装本の一つのお洒落として採用したりしたが、復刻本以外、現在では殆んど見かけることはない(面倒ではあるが、詩集などでは読む覚悟や読後完了感、さらに切る際の一種の緊張感が堪らなくよく、私は好きである)。職場で隣に座っている数学の今年の24歳の新任教師に聞いてみたが知らなかった。こういう注こそ現代の若者には必要である。

 

「御孃さんの氣に入るやうな帶か反物を買つて遣りたかつた」名目上は普段お世話になっている下宿の大屋さんへの御礼という訳であるが、「帶か反物」と言っているものの反物と合わせた帯を購入したものと考えてよい。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」はここに注して、「明治の東京生活」という本に(小林重喜著・1991年角川書店刊と思われる)明治311893)年の記事として、高島屋飯田新七(高島屋デパートの前身)で

 白縮緬 1反 14円98銭

 朱珍丸帯1本 13円90銭

で購入した記載があるとする。先生は藤井氏が挙げたものと同程度か、それ以上の相応に高価な帯と反物を買ったと考えてよいと思われるが、靜に買ったものだけでも、藤井氏も推定する30円程度はしたものと考えてよい。明治30年代の1円は基準対象によって異なるが、これは現在の金額に直すと、最低でも15万円以上、25万円程度には相当することになる。藤井氏が『いくら経済的に余裕があるとはいっても、単に「色々世話になる」礼であるなどとは、とても思われないだろう』という意見は首肯出来る。次章部分の注でも藤井氏は『ここでのプレゼントは、下宿先の娘さんへの、というよりも、むしろフィアンセへの、と取ったほうがふさわしいくらいの豪勢なものだった』と記される。これにも私は激しく同感する。これこそKの自死を招かぬ平穏――「心」という小説が成立しなくなる重大なシークエンスであったのだ(この注内容は次章注にも続く)。

 

「地體」名詞で、「その物本来の性質・その物質の基本・それ自身」の意で、「自体」と同じ。

 

♡「日本橋へ行つて買ひたいものを買ひました」「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、三人が買い物をした店を、日本橋の橋の北側にあった三井越後屋呉服店(後の三越呉服店)か、反対の南側にあった白木屋呉服店の何れかであろうと同定されている。

 

♡「木原店」現在の日本橋区通一丁目附近、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。前注に記した白木屋は後に東急百貨店となり、更にその跡地に現在はコレド日本橋ビルがある。このコレドと左側にある西川ビルの間の今や何の変哲もない細い通りが、「白木屋の横町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り通一丁目として、江戸で最も繁華な場所で、明治のこの頃は未だその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」「食傷新道(しょくしょうじんみち)」などとも呼ばれた。]

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