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2010/07/12

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月12日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十回

Kokoro15_16   先生の遺書

   (八十)

 「Kと私は同じ科に居りながら、專攻の學問が違つてゐましたから、自然出る時や歸る時に遲速がありました。私の方が早ければ、たゞ彼の空室(くうしつ)を通り拔ける丈ですが、遲いと簡單な挨拶をして自分の部屋へ這入るのを例にしてゐました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖を開ける私を一寸(ちよつと)見ます。さうして吃度(きつと)今歸つたのかと云ひます。私は何も答へないで點頭(うなづ)く事もありますし、或はたゞ「うん」と答へて行き過ぎる塲合もありました。

 ある日私は神田に用があつて、歸りが何時もよりずつと後れました。私は急ぎ足に門前迄來て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御孃さんの聲を聞いたのです。聲は慥(たしか)にKの室から出たと思ひました。玄關から眞直に行けば、茶の間、御孃さんの部屋と二つ續いてゐて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、といふ間取なのですから、何處で誰の聲がした位(くらゐ)は、久しく厄介になつてゐる私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御孃さんの聲もすぐ己(や)みました。私が靴を脫いでゐるうち、―私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐたのですが、―私がこゞんで其靴紐を解いてゐるうち、Kの部屋では誰の聲もしませんでした。私は變に思ひました。ことによると、私の疳違ひかも知れないと考へたのです。然し私がいつもの通りKの室を拔(ぬけ)やうとして、襖を開けると、其處に二人はちやんと坐つてゐました。Kは例の通り今歸つたかと云ひました。御孃さんも「御歸り」と坐つた儘で挨拶しました。私には氣の所爲(せゐ)か其簡單な挨拶が少し硬いやうに聞こえました。何處かで自然を踏み外してゐるやうな調子として、私の鼓膜に響いたのです。私は御孃さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひつそりしてゐたから聞いて見た丈の事です。

 奥さんは果して留守でした。下女も奥さんと一所に出たのでした。だから家に殘つてゐるのは、Kと御孃さん丈だつたのです。私は一寸首を傾けました。今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例(ためし)はまだなかつたのですから。私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默しました。

 私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も歸つて來ました。やがて晩食の食卓でみんなが顏を合せる時刻が來ました。下宿した當座は萬事客扱ひだつたので、食事のたびに下女が膳を運んで來て吳れたのですが、それが何時の間にか崩れて、飯時には向ふへ呼ばれて行く習慣になつてゐたのです。Kが新らしく引き移つた時も、私が主張して彼を私と同じやうに取扱はせる事に極めました。其代り私は薄い板で造つた足の疊み込める華奢な食卓を奥さんに寄附しました。今では何處の宅でも使つてゐるやうですが、其頃そんな卓の周圍に並んで飯を食ふ家族は殆どなかつたのです。私はわざ/\御茶の水の家具屋へ行つて、私の工夫通りにそれを造り上(あげ)させたのです。

 私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋(さかなや)が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ說明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました。然し今度は奥さんに叱られてすぐ己(や)めました。

Line_8

 

やぶちゃんの摑み:靜の悪戯っぽい笑いのアップと共に、遂に先生の嫉妬が発動する。

 

「Kと私は同じ科に居りながら、專攻の學問が違つてゐました」第(七十四)回注で示したように、私の推定は明治281895)年(又は前年)に二人が同時に第一高等学校に入学、二人は第一部(法学・政治学・文学)に入ったと考えている。また、第(二十五)回では「私」との関係で先生の専門を推定した。煩瑣を厭わず、その注内容を以下に示すと、即ち(二十五)の「私の選擇した問題は先生の專門と縁故の近いものであつた」という叙述により、先生の専攻した学科と「私」の専攻している学科が同一分野であることが分かるのである。その専門分野は勿論、理科ではなく文科であり、また本文から先生はその分野の新知識の吸収に最早積極的ではない(これで理科が完全に排除される)から、そのような新知識・新学説や今日的判断・新しい判例を必要とする法科ではあり得ないと考えた。そうなると漱石の専門であった英文科等が頭に浮かぶのであるが、そうした文学科や史学科であるにしては、先生と「私」との会話に一切そうした具体的会話が見出せない点、除外するべきであると思われる。そうなると哲学か宗教か心理学辺りが同定候補となるが、哲学や宗教はKの平生の言説から彼の専門分野と同定出来ること、及び「後では專門が違ましたから」という表現が現われるのでこれらも排除される。私は先生と「私」二人の専門は心理学ではなかろうかと踏んでいる。明治の末年と言えば心理学は正に急速に興隆してきた学問であった。新刊書も続々出現し、有島武郎や芥川龍之介等、多くの邦人作家もそうした学術書を参考にして実験的な小説を書いたりした。因みに作品名「心」にも相応しいし、統合失調症に罹患した(と私は考えている。諸説の一つには神経症との見方もある)経験のある漱石には複雑な思いはあったであろうが、興味深い学問ではあったはずだ。なお、当時の東京帝国大学の学科については、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の第(二十五)回の「練り上げた思想」の注に、東京帝国大学文科では『明治三十七年九月から従来の九学科制が廃止され、哲学科、史学科、文学科からなる三学科制がとられていた。ちなみに哲学科のなかの専修学科(明治43より)としては、「哲学及哲学史」、「支那学」、「印度哲学」、「心理学」、「倫理学」、「宗教学」、「美学」、「教育学」、「社会学」があった』とある。先生の卒業を私は明治311898)年に想定しているので、東京大学文学部のサイトで9学科制を確認すると以下の通りである。

 

第一 哲学科

第二 国文学科

第三 漢学科

第四 史学科

第五 博言学科

[やぶちゃん注:「はくげんか」。「言語学科」の旧称。「philology」の訳。]

第六 英文学科

第七 独逸文学科

第八 国史科

第九 仏蘭西文学科

 

以上の条件を総合し、この9学科を眺めると矢張り先生は第一哲学科が相応しい気がする。そうしてKは哲学史か宗教を専攻し、先生は心理学を取ったのではなかったか。そうして学生の「私」の卒業は明治451912)年であるから、上記の専修科について他の学科も再度確認しておくと、明治431910)年9月で3学科19専修学科を確認出来る。

 

第一 哲学科

  哲学・支那哲学・印度哲学・心理学・倫理学・宗教学・美学・教育学・社会学

第二 史学科

  国史学・東洋史学・西洋史学

第三 文学科

  国文学・支那文学・梵文学・英吉利文学・独逸文学・仏蘭西文学・言語学

 

矢張り学生の「私」が学んでいそうな専修学科は第一哲学科の心理学であろう。では先生の時代に遡った第一哲学科の「専門の學問」のデータとなるが、それについては本章の注で藤井氏が、『哲学科で必修を課せられている科目で「専攻の學問」と言えるようなものとして』以下の9科目を掲げておられる。

 

哲学史

論理学

心理学

東洋哲学

社会学

倫理学

審美学

教育学

精神病論

 

これら(藤井氏の叙述では総ての科目ではないようであるが)から、先生の専攻は心理学ととして、Kはどれであろう。Kの印象から真っ先に除去可能と思われるのは後半の5科目であろう。数理的な論理学も外してよいであろう。彼の広範貪欲な宗教や哲学思想への関心からは、哲学史か東洋哲学が考えられる。単なる総覧的なものには到底飽き足らないKである。哲学史はKには浅薄に思われたであろう。従って私は

 

Kの専攻は東洋哲学

 

と推定するのである。

 

「私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐた」先生は実はかなりお洒落である。格好いいのである。それだけでも私は先生になれないのである。

 

「今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例はまだなかつた」これは勿論、先生にとって理解し難い不審ではある。先生の言は事実であろう。しかし――そういう事実を常に意識して観察していた先生とは――これまた、やや普通ではないと言えないか。先生はそれまでの一年半程、常に今、この家内に誰がいて誰がいないかを不断に観察し続けていたということになるからである。

 

「私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした」及び「御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました」二度の「笑ふ女」といしての靜が登場する。ここには作者漱石自身の“Misogyny”(ミソジニー・女性蔑視・女性嫌悪)が投影されている。しかし――私も先生や漱石に同感である。この「笑ふ靜」は五人の貴公子に難題を出して破滅させてゆく「竹取物語」前半のかぐや姫のように珍しく「意地悪な靜」「ちょっと厭な靜」であり、ここに私は無意識的悪意を持った少女の面影を、更には“Femme fatale”「宿命の女」としての靜を見出すのである。但し私の「ファム・ファタール」の謂いは屈折した誤義としての「小悪魔的妖女」「確信犯として男を破滅させる悪女」の謂いではない。あくまで「宿命の女」を孕んだ少女である――私は芥川のように女は男にとって「諸悪の根源である」とは思われない(「侏儒の言葉」のそれはまたある種の芥川龍之介のポーズとしての“Misogyny”であった)。しかし確かに、次のようには言いたい欲求を抑えられないのである――女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち宿命そのものである――と。ここの靜の笑いは、先生のKへの嫉妬心の兆しの萌芽となる。正にそうした意味に於いて、「宿命的な笑い」ででもあるのではなかろうか。

 

「其代り私は薄い板で造つた足の疊み込める華奢な食卓を奥さんに寄附しました」「巨人の星」の世代である我々には至って馴染み深いチャブ台である。それをどこか「日本的」なもの、昔からの「庶民的」なものと認識間違いをしている若者は多いと思われる。ところがここでの先生の叙述を読めば分かる通り、これは極めて新しい習俗なのである。家庭的なチャブ台は出現し普及してから、高々百年ほどしか経っていないのである。以下、ウィキの「卓袱台」から引用する(記号の一部を変更した)。『卓袱台(ちゃぶだい)は、日本で用いられる四本脚の食事用座卓。一般的に方形あるいは円形をしており、折畳みができるものが多い。上座、下座という上下の関係があまり感じられず、昭和初期の家族の団欒を象徴するシンボルとして取り上げられる』。『1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、大正末期から昭和初期にかけて全国的な普及を見た』。『しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、利用家庭は減少していった』。その名称は『チャブダイと書く漢字としては卓袱台以外にも、茶袱台、茶部台、食机、その他にも古くは森田草平の『煤煙』や徳田秋声の『黴』で書かれている餉台などがあ』り、『地域によっても呼称は異なり、富山県、岐阜県、三重県、兵庫県、佐賀県、長崎県、熊本県などの一部ではシップクダイ、シッポクダイ、ショップクダイと、岩手県、富山県、岐阜県、滋賀県、鳥取県、島根県、愛媛県などの一部では飯台と呼称される場合がある』とする。『語源についても諸説あり、正確には判っていない』が、『有力なものとしては中国語でテーブル掛けを意味する卓袱(南中国音ではチャフ)から来たとするもの』や、『同じくご飯を食べることを意味する吃飯(チャフン、ジャブン)から来たとするもの、中国人移民からアメリカへ広まった料理チャプスイ(英語: Chop Sui、チョップスウイ、チョプスイ)が元になったとするものなどがある』。『1870年(明治3年)に仮名垣魯文が著した「萬国航海西洋道中膝栗毛」に既にチャブダイという言葉が西洋料理店の食卓を指す俗語として登場していることから、名称としてはこの頃には広まっていた可能性がある』。『卓袱台の標準的な形状としては正円形、楕円形、正方形、長方形の4種がある。製作上の無駄が多いことと、日本の住宅事情から長方形の形状をした卓袱台がもっとも多く利用された』。『大きさは直径60cmから240cmまでのものと、豆チャブと呼ばれた直径25cmから30cmくらいのものなどがあった。一般的な卓袱台を4人で囲む場合、一人当たりの使用スペースは膳を用いた場合よりも狭くなるが、皿の共有化がなされることで、結果的にゆとりが生じる』。『高さは15cmから24cmくらいが一般的であったが、これは時代を経る毎に高くなり、現在は30cm前後のものが一般化している』とある。先生が作らせたものは恐らく円形か楕円形で、身長が高いKに合わせて比較的高いタイプのものを先生が特注で作らせたとも考えられる(しかし、そうすると身長が低く低い箱膳に慣れていた御嬢さんや奥さんには少し不便になるから、高いとしてもここに示された24㎝内外のものであろうか)。『脚は丸脚、角脚、挽物脚などがあり、戦後に入ると金属製の脚が登場した。それぞれ固定のもの、折畳みが可能になっているものがある』。『素材は木製ではハリギリ製がもっとも多く、高級なものではケヤキやサクラが用いられた。それ以外にもタモ、マツ、シオジ、スギ、トチノキ、クリ、キハダなど様々な材料が使用され』、『塗装には漆塗りや蝋塗り、ニス塗り』があった。明治後期以前の本邦で食台の歴史が以下に示される(若い人は必読)。『撥脚台盤などといった大きな食卓を使う習慣は、奈良時代には既に中国より入っており、貴族社会においては同じ階級のものが同一食卓を囲む場合があったが、武士が強い支配力を持つようになると上下の人間関係がより重要視されるようになり、ほぼ全ての社会において膳を使用した食事が行われはじめた』。『江戸時代に入ると出島などでオランダ人や中国人などの食事風景を目にする機会が出るようになり、それらを真似た洋風料理店では座敷や腰掛式の空間に西洋テーブルを置き、食事を供する場が登場しはじめる』。『享保年間以降はこうした形式の料理屋が江戸や京にも出現し始め、そこで用いられるテーブルや座卓を「シッポク台」とか「ターフル台」などと呼称するようになった』。以下、卓袱台の普及と衰退について叙述される。『明治時代に入ると西洋館の建築などに伴い洋風テーブルの導入が進められた。町にも西洋料理店をはじめ、ミルクホールやビヤホールが生まれ、洋風テーブルの使用がなされるようになった。この頃には西洋料理屋を「チャブ屋」、西洋料理を「チャブチャブ」、そこで用いられるテーブルを「チャブ台」と呼称する俗語が誕生しており、チャブダイという名称は広く知られるようになった』。『1895年(明治28年)ごろになると折畳み式の座卓に関する特許申請が出るようになり、徐々にではあるが、座卓が家庭へと進出し始めたことが伺える。1903年(明治36年)には『家庭の新風味』において堺利彦が一家団欒という観点から膳を廃し、卓袱台の使用を呼びかけるなど、家庭への浸透が始まった』。私が考える本章の作品内時間はこの普及黎明期であった明治321899)年である。『1911年(明治44年)に農商務省が出した『木材の工芸的利用』によれば、卓袱台は東京のみで製造卸50件、販売問屋100件、職人500人、13000個の生産があったとされている』。『卓袱台はこの後昭和初期までに全国的な普及を見せるが、特に1923年(大正12年)の関東大震災を契機として膳から卓袱台へと移行した家庭が多かった』。『また、膳から卓袱台への移行により個人の食器よりも共用食器が増えたことから食器を洗う習慣が見られるようになり、定着したのもこの頃である』。しかし『卓袱台の生産は1963年(昭和38年)をピークに減少傾向に転じ、生活習慣の変化や洋風化指向の時代の流れに乗って次第にダイニングテーブルへと移り変わっていった』。『ダイニングテーブルを一般家庭の食卓にいち早く取り入れたのは農家であった。1948年(昭和23年)、GHQの指導により農村の生活改善運動が全国的に展開されると農村の台所事情は変化を見せはじめた』。『生活を楽にすることが主とした課題に挙げられ、土間を改善して食事場とし、野良仕事の土足のまま食事ができるようにするテーブルや座敷と土間の境界にテーブルを設けて半々で座る方式などが奨励された』。『農林省農業改良局が1954年(昭和29年)に出した『農家の台所改善 - 設計の仕方と実例』に既にその具体的手法が紹介されている』。『ダイニングテーブルが都市圏へ急激に浸透をはじめるのは1955年(昭和30年)ごろからで、日本住宅公団による集合住宅が販売されるようになってからであった』。『集合住宅にはダイニングキッチンの概念が取り入れられ、目的に即した利用がなされるよう、テーブルを作り付けにして売り出した。住宅公団は、洋風化のブームに乗りダイニングキッチンを大々的に宣伝し、販売実績を挙げるとともにテーブルの普及促進の役割を果たしたと言える』。『高度経済成長期に入るとこの流れはますます加速し、1966年(昭和41年)に13.6%だったダイニングテーブルの普及率は1988年(昭和63年)には67.3%となっ』てチャブ台は殆んどの家庭から姿を消すこととなった。

 以上、最後に本作の中でこの「チャブ台」がやはり重要なアイテムであることに着目して欲しいのである。それは、

○チャブ台なるものが正に「円」である点

 

○着座する者に対してランクを与えない点

 

である。――たかがチャブ台、されどチャブ台――である。]

 

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