耳嚢 巻之三 精心にて家業盛なる事
「耳嚢 巻之三」に「精心にて家業盛なる事」を収載した。
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精心にて家業盛なる事
江戸四ツ谷に松屋某といへる大小の拵する者あり。其成立を尋るに、至て發明成者にて、昔は武家奉公抔なしけるが、如何成仔細有りてや町人と成て、四ツ谷の往還に古包丁古小刀其外古物の顆を莚(むしろ)の上に並べ商ひける者也しが、元來器用なる者にて刀脇差の柄を卷き、又研(とぎ)など仕習ひて、四五年の内に九尺店(だな)の拵屋(こしらへや)の鄽(みせ)を出しけるが、風與(ふと)思ひ付て外々拵にて五匁(もんめ)の柄卷(つかまき)賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける故、自然と賴みても多くありし故、右直段付(ねだんづけ)いたし近邊の武家其外へ引札(ひきふだ)をなしけるに、四ツ谷糀町(かうぢまち)の拵屋共大きに憤りて、商賣躰(てい)の障りと成由にて奉行所へ訴出し故、呼出有之吟味候所、彼者申けるは、商賣方直段の儀我等仕候は定てあしく可有之候得共、あしきと思ひ給はゞ武家方より誂へ可有之樣なし、我等拵へ仕(つまかつら)ば、右の直段にて隨分利分もありて、相應に取續いたし候也、いわれなく高直(かうぢき)にいたし候ては旦那場(だんなば)の難儀、譬へば只今奉行所より申付有之候共、我等拵へ立(たて)候には隨分右の直段にて出來いたし候旨申ける故、奉行所にても尤に聞濟(ききすみ)て、障りも解ぬれば彌々(いよいよ)家業相励(はげみ)けるに、翌春の年始に一度弐度用事申付有之旦那場へも、聊の年玉を持て歩行(ありき)けるに、都合四百軒に及びし由。其後尾州家中の拵などせしに、大守の御聽(おきき)に入て、大守の御用をも被仰付けるにぞ、今は尾州御用といへる札を出し、弟子の十四五人も抱へ置て富饒(ふにやう)の拵やにて有よし、右最寄の人語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「四ツ谷」現在の新宿区南東部(凡そ市ヶ谷・四谷・信濃町等のJRの駅に囲まれた一帯)に位置する地名。時代によっては江戸城外堀以西の郊外をも含む内藤新宿・大久保・柏木・中野辺りまで拡充した地名でもあった。
・「松屋某」尾州様御用達となったのなら少しは記録が残っていそうなものであるが、未詳。
・「研(とぎ)」は底本のルビ。
・「九尺店」長屋にしても商店にしても最も小さなものを言う。間口9尺=1.5間≒2.7m。奥行きは通常、2間(3.6m)で3坪程の広さであった。
・「五匁の柄卷賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける」銀貨の単位。データはやや下るが、あまり大きな差のないと思われる文化文政期(江戸時代、比較的物価の安定した時期でもある)で
金1両≒銀60~65匁≒銭6500~7000文
銀1匁≒銭108文
のレートであった。一部の物価を参考に供す(やや異なるとしても、これよりも安い値段になろうかと思われる)。
3匁=米2升5合前後
3~5匁=大工手間賃(日当)
7匁=高級蛇の目傘
10~15匁=医師初診料
参考までに歌舞伎桟敷席は何と銀35匁もした。
・「引札」商品の宣伝や開店の披露などを書いて配った広告。チラシ。
・「糀町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の注を加味して作成した)。
・「旦那場」商人や職人などが御得意先を敬っていう語。得意場。
・「大守」尾張藩藩主尾張徳川家。本巻の下限を鈴木氏の推定に従って天明6(1786)年前後とし、本話柄が近過去の内容であるとすれば、尾張藩中興の祖と称された第9代藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし享保18(1733)年~寛政11(1800)年)である。藩主としての在任期間は宝暦11(1761)年~寛政11(1799)年である。
■やぶちゃん現代語訳
誠心を尽くさばこそ家業盛んとなる事
江戸の四ッ谷に松屋某という大小刀剣の拵えをする職人がおる。その起立を尋ねたところ、主人は到って発明なる者にて、その昔は武家奉公なんどをしておったが――どんな仔細があったものかは存ぜぬものの――町人となって、四ッ谷の通りに古包丁・古小刀その他古物刃物の類いを莚(むしろ)の上に並べて商いをしておったが初まりにて、生来、細工なんども器用にこなす者であったれば、太刀や脇差の柄を巻き、またその刃をも研ぐ技術なんどもそうした研ぎ職人からおいおい習い覚えて、四、五年する内に間口九尺の刀剣の拵屋(こしらへや)のお店(たな)を出店致いたとのこと。
ある時、ふと思いついて、その外の拵え屋にては五匁(もんめ)が当たり前の柄巻き賃を三匁に、十匁が普通の刀剣類研ぎ賃を七匁と値下げした故、自ずと仕事の依頼も増えたため、この通り、
――四ッ谷 松屋
御刀脇差拵所
柄卷三匁 研七匁――
と値段を書き入れた引き札を作り、近辺の武家屋敷その他へ配ったところが、四ッ谷麹町辺りに営業する拵屋どもがひどく憤って、我等が商売の障りとなる由、奉行所へ訴え出た。
そこで松屋に呼び出しがあり、吟味致いたところ、かの松屋の言い分は、
「我らの商売向きに於ける値段の付け方に就きてのことと存じます。さても我ら、この手間賃にて仕上げ候もの――安かろう悪かろうの定石に照らしますれば――定めて悪しき仕上がりならんと思しめし遊ばされましょうが、万一、お頼みになられた方々、その仕上がり悪(あ)しとお思いになられたのであれば、以後、お武家衆よりの誂え方ご依頼の件、かくまで沢山にては、これ、あろうはずが御座いませぬ。私どもにては、巻きにても研ぎにても、この値段にて随分、利潤も御座り、御覧の通り、相応に商売取引順調に相続いて御座いまする。逆に、理由もなく必要以上の高値を頂戴致しましては、却ってご贔屓のお武家衆のご難儀。――例えば、只今、お奉行所より――総てのお役人衆の御刀の柄巻きと研ぎ――申し付け、これ、御座ったと致しましても、私ども、この値段にて――十分にご満足の戴けるよう――仕上げ申すこと、これ、出来まする。」
との言上にて、奉行所にても、至極尤もなる話、と認めて訴えを退けた。
御公儀のお墨付きも戴き、同業者の嫌がらせもなくなって何らの差し支えもなくなった故、松屋はいよいよ家業に励んだところ、翌春の年始には、それまでは一度か二度しか注文がなかった取引先をさえ御贔屓先となして、僅かばかりの粗品ながらも御祝儀を持参の上、年始の御挨拶に廻れる程に繁盛なした。その折りの年始廻りの先は、何と四百軒にも及んだということである。
その後(のち)、尾張藩御家中の方々の御拵物御用なんど申し受けて御座ったところ、その評判を尾張藩御藩主様もお聴き遊ばされて、遂には御藩主様御拵物御用をも仰せつけられ、今に『尾州様御用達』という公認の名札(めいさつ)を出だし、弟子十四、五人も置き抱える豪商の拵え屋となったとの由、これは、その最寄に住んでおる者が語ったことである。