耳嚢 巻之三 明德の祈禱其依る所ある事
「耳嚢 巻之三」に「明德の祈禱其依る所ある事」を収載した。
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明德の祈禱其依る所ある事
祐天大僧正は其德いちじるき名僧なりし由。或日富家の娘身まかりしに、彼娘折ふし一間なる座鋪(ざしき)の角(すみ)彷彿とたゝずみ居る事度々也。兩親或ひは家内の者の眼にもさへぎりけるにぞ、父母も大きに驚、狐狸のなす業や又は成佛得脱の身とならざるやと歎き悲み、誦經讀經なし或は祈念祈禱なしぬれど其印なければ、祐天まだ飯沼の弘經寺(ぐきやうじ)にありし此(ころ)、彼驗僧を聞て請じけるに、祐天申けるは、いづかたへ出候や、日日所をかへ候哉と尋しに、日日同じ所に出る由を語りければ、我等早速退散させ可申とて、右一間へ階子(はしご)をとり寄せ、火鉢に火を起して彼一室に入て誦經などなせしうへ、右亡靈の日日彳(たたず)みけるといへる處へ階子をかけ、祐天自身(おのづ)と天井を放し見しに、艷書夥しくありしを、一つかねに取りて直(ぢき)に火鉢の内へ入れ、あふぎ立て煙となし、此後必來る事有まじといひしに、果して其後かゝる怪しみなかりけると也。娘のかたらふ男ありて、艷書ども右天井に隱し置しに心掛り殘りけると、早くも心付し明智の程、かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有べき道理也。
□やぶちゃん注
○前項連関:神霊玄妙直連関。但し、根岸は仏教には厳しい。従ってその謂いも「いちじるき名僧なりし由」であり、その「明德の祈禱」も論理的には何の不思議もない「其依る所ある事」であり、人がちょっと気づきにくい事実を「早くも心付し明智」はあると言える、「かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有」ように見えるのは「道理也」と、智は称えるものの――根岸は殊更に「智者」と言っている。これは「論語」に言うところの、仁者に及ばざる「智者」の謂いであろう――先のような神道神霊の玄妙なる超自然力を認めている話柄ではないことに注意したい。そう雰囲気を全面に出した現代語訳にしてある。類話は「新選百物語」等にもあり、小泉八雲も「怪談」の“A Dead Secret”「葬られた秘密」でこの類話を英訳翻案している著名な話柄である(但し、そこでは娘は丹波国の商人稻村屋源助の娘お園、僧はその商家の檀家寺の住職である禅僧大玄和尚という設定になっている)。因みに、私はこの祐天上人絡みの怪談群が大の好みであり、従って祐天大僧正大ファンであるからして、この根岸の言い口には、普通以上に『異様に』引っ掛かるものがあるのである。そのようなバイアスのかかった私の現代語訳としてお読みになられたい。なお、「卷之二」で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が禪宗の曹洞宗、養子先の根岸家は正しく「祐天大僧正」の浄土宗である。いや、だからこそ、表立っては批判していないのだとも言えそうである。
・「祐天大僧正」祐天(寛永14(1637)年~享保3(1718)年)江戸のゴースト・バスターとして知られる浄土宗の名僧。浄土宗大本山増上寺36世。以下、ウィキの「祐天」より引用する(一部記号を変更した)。『字は愚心。号は明蓮社顕誉。密教僧でなかったにも関わらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという』。『祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した』。『祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の亡魂を解脱させた話で、曲亭馬琴はそれをもとに「新累解脱物語」を著している。のちに三遊亭円朝の怪談「真景累ヶ淵」で有名となった』。
・「さへぎりける」先の話柄でも気になったがここまで来ると、根岸は「さへぎる」という語を誤って使っているということが確かになる。「さへぎる」(本来は「さいぎる」が正しいとする説が有力)は「間に隔てになるものを置いて、向こうを見えなくする」及び「進行・行動を邪魔してやめさせる」「妨げる」という意であるが、ここではどう見てもそう訳せない。彼は「眼を過(よ)ぎる」という意で用いているのである。ないもの(亡霊)があることで、見通せるものが遮られるの意でとるというのも、如何にも牽強付会である。
・「飯沼の弘經寺」現在の茨城県常総市豊岡町に所在する寿亀山天樹院弘経寺のこと。茨城県には「弘経寺(ぐぎょうじ)」と名のつく寺院が3つあるが、その中でも『飯沼の弘経寺』というのは、かつての「関東十八檀林」(江戸時代の浄土宗僧侶の養成機関)の一つとして多くの学僧を世に送り出し、関東の中心寺院として栄えた本寺を指す。開山は応永21(1414)年良肇(りょうちょう)が横曽根城主の帰依を得て建立した。良肇は弘経寺を浄土宗の学堂として優れた布教僧を輩出させた。天正3(1575)年に戦禍により諸堂宇を焼失して荒廃したが、17世紀初頭に了学なる僧を招いて復興、再び学問所として発展した。了学は徳川家康・秀忠・家光に厚遇された高僧で、秀忠の長女千姫(天樹院)もこの了学より五重相伝(浄土宗の教義の真髄や奥義を檀信徒に対して五つの順序に従って伝授する法会で、当時はめったに行われなかった秘中の儀式)を授けられ、弘経寺の再興に力を尽くしたという。現存する本堂は千姫の寄進による寛永10(1633)年建立のもので、堂内には伝千姫筆の寺号扁額が掲げられている。本堂左手には千姫廟所もある。落飾後の千姫の姿を描いた「千姫姿絵」を始めとした千姫関連の寺宝が多い。現在、弘経寺は東京芝大本山増上寺別院となっている(以上は、浄土宗HPの寺院紹介の「弘経寺 (浄土宗)茨城県常総市」等を参照しつつ、内容を整理したものである)。
■やぶちゃん現代語訳
明徳と称せられる人物の祈禱力にはものによっては論理的にちゃんと説明可能な理由があるという事
祐天大僧正は、その徳のあらたかなことでは、よく知られた名僧なのだそうである。
ある時、富貴なる町家の娘が病のために身罷って後、かの死にし娘子が、折りにつけ、ある一間の座敷の隅に佇んでおる姿がぼんやりと見えること、これ、たびたび御座った。
両親だけではなく、家内の者の眼にさえもその姿が実際に過(よ)ぎるということで、父母も大いに驚き――最早、親族の気の病いとは言い難きによって、
「……狐狸のなす業(わざ)にてもあろうか……または……もしや何らかの思いの残り、成仏解脱の身に、これ、成ること出来ず、浮ばれずにおるのであろうか……」
と嘆き悲しみ、相応の僧を招いて誦経読経なんど致いたり、あるいは種々の祈念やら祈禱やらも施してみたものの、一向に効験(しるし)なく、娘の亡霊は出現は跡を絶たなんだ。
そこで――その頃は未だ飯沼の弘経寺(ぐきょうじ)にあったが、しかしもう既に霊験あらたかな法力の持ち主として名を馳せていたところの験僧――祐天を請じることと相成った。
来る早々、祐天は、
「さても、その亡霊、何方(いづかた)へ出ますかの? 日によって出ずるところを変えるといったことは御座らぬかの?」
と父親に訊ねる。父は、
「……はあ、必ず何時も同じ所に、これ、出でまする……」
と語ったところ、祐天、即座に合点、
「なるほど!――では我ら、早速、怨霊退散させ申そうぞ!」
と、かの亡霊の出づるところの座敷内に梯子を持って来させて隅に寝かせ、火鉢に火を起こさせると、その一間に入り、総ての襖を閉じて、厳かに読経致し、それをし終えるや、すっくと立って、かの亡霊が日々佇んでおると聞いた場所へ自ずと梯子を掛け、天井を開け放った。
――そこには夥しい数の恋文の山が御座った。
祐天は一通残らず一摑みにそれを取り上げ、一気に火鉢に投げ込むと、扇をもって煽ぎ立てて、忽ちのうちに煙と成し果たした。
祐天、さわやかなる笑顔にて座敷を出づると、
「向後、決して娘子の幻、これ、現るること、御座るまい。」
と受けがって言った。――
果たして、その後あのような怪異は、これ、全くなくなったのだということであった。――
種を明かせば、亡き娘には密かに語り合(お)うた好いた男がおって、その男から貰(もろ)うた沢山の恋文や己れの文反古(ふみほうご)やらを、天井に隠していたのが、如何にも恥かしゅうて心にひっ掛かかり、心残りとなって御座ったのだ――という事実に、すぐさま気付いた祐天の明智の程は、大したもんである。こうした理を尽くして透徹した智者にてあってみれば、その祈禱の結果に、現実離れしたような玄妙奇瑞にさえ見える効験、これ――『あって見えて』――当然、というべき道理ではある。