やぶちゃん版新版 冨田木歩句集 又は 母の手術の朝に
「やぶちゃん版新版 冨田木歩句集」をやぶちゃんの電子テクスト:俳句篇に公開した。これもリニューアルではなく、新たな公開である。
今回、鈴木しづ子と杉田久女を漸く正規に校訂した後、もう一つ、内心忸怩たる頁が残っていることに気づいた。
それが「冨田木歩句集」であった。
2005年の7月、HP開設最初期、新潮社版「現代詩人全集」及びそれにない筑摩書房「現代日本文学全集 巻91 現代俳句集」1967年刊の「富田木歩集」所収のものを打ち込んだのが本頁のプロトタイプであった。
何れもコピーを元に作製、おまけにそのコピーを既に紛失してしまっていたため、長い間、放置してきた。
その後、昭和32(1957)年発行の限定版「決定版富田木歩全集 全壹巻」を入手したが、この本、写真集や木歩の文集、多量の木歩評や随想を満載した1151頁に及ぶ、新井聲風氏の最後の木歩顕彰としては(発行時には惜しくも鬼籍に入られていた)頗る大著、稀有の資料集と言える優れたものであるのであるが、僕にとって(恐らく僕だけではない)意外だったのは、「全集」の謂いながら、全句集が所収されていないという驚天動地の事実であった。聲風氏の凡例によれば、木歩の全句は凡そ2000句、この「全集」では、その内の630句の選句集なのである(付随する資料や随想の中に、そこに含まれない句が散見されるから、実際「全集」に載っている句の数はもっと多いのではあるが)。これが、一つは本頁をまずは再校訂しよう意欲を殺がれた一因ではあった。――しかし、それは言い訳に過ぎぬ――
今回、HP内不完全頁の完全除去を意図して鈴木しづ子と杉田久女を何とか自身で許せる程度には改訂し得た以上、この最後の汚点を拭わねば、僕の憂鬱は完成しないと感じた。
昨日未明より始め、母の入院付き添いの合間を縫って、完成に漕ぎ着けた。表記の厳密校訂を行い、編年体序列を明確化、数句を追加して、更に注を大幅に増やした。
最後にしっかりと『将来は底本句集の掲載句は総て掲げたいと考えている』という自己拘束を附してある。また、注では、底本の他の資料の他には、本文途中にも長々と引用させて貰ったウィキペディアの「富田木歩」の記載にも負うところが多かった。ここでも名を掲げて謝意を表しておきたい。
久女やしづ子を、そしてまた、放哉や亀之助を、槐多を、はたまた子規や村上昭夫や森川義信を「境涯の詩人」と呼ぶのに僕は疑義を感じるものではない――しかし「境涯」とは「数奇」とは――一体どういうことかという厳密な語義に拘わって僕の中でイメージした時――そこに屹立しているのはたった一人――冨田木歩独りだけなのである。――
木歩は歩くことが出来なかった。
その木歩に僕の母を守ってもらう。
――脊椎間狭窄のために歩行困難となった母のその手術の日の朝にこれを記す――