耳嚢 巻之三 不計の幸にて身を立し事
「耳嚢 巻之三」に「不計の幸にて身を立し事」を収載した。
「祭りは終わった」のだ――再び飴のように延びた蒼ざめた時間の中に戻ってゆくのだな……その手始めに「耳嚢」だ……
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不計の幸にて身を立し事
或江州の産にて上方堂上(たうしやう)などに奉公して有しが、身持も宜しからず度々浪人などしけるが、京都にては迚も身を立候事も成がたしと、聊の貯(たくはへ)にて東都へ下りけるが、路用も遣ひきりてすべきやうなく、湯元などに暫く逗留し鍼(はり)按摩(あんま)抔施して稼ぎ暮しけるが、大坂町人の後家(ごけ)彼(かの)温泉に來りて入湯し、不快の折からは按摩等を施しけるに、追々心安くなりて右後家淫婦也しや、彼者と密に通じ雲雨の交りをなして、或時彼後家申けるは、御身は年若き人いづくの人なるやと尋ける故、しかじかの事かたりければ、さあらば我等江戸表親類の方へ此度出(いで)候間(あひだ)伴はんとて、日數(ひかず)程過(すぎ)て同道して江戸へ出ぬ。人目有(あれ)ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ。彼後家は富豪の後家たるによりて、金銀を以御徒(おかち)の明(あ)きを讓り得て彼者を御徒に出しけるに、京家の縁などにたよりて奧の手弦(てづる)等を拵へ、頭(かしら)なる者へ願ひける故無程組頭に成、後は又御譜代の席へ轉じけるが、今は右の老婦も果し由。爰におかしき事の有るは、右老女の有りし内は、歳(とし)中年に及ぶ某なれども妻を呼候事は成がたく、遊女其外のたはれをも、彼養母殊の外制して禁じけるとや。左も有ぬべき事也。
□やぶちゃん注
○前項連関:かつて奇策で放蕩不羈を尽くした男の物語から、色仕掛けの手練手管で世をうまく渡った放蕩不羈の男の物語で直連関。
・「堂上」堂上家。昇殿を許された四位以上の、公卿に列することの出来る家柄を言う。
・「人目有ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ」とあるからには、この若者(二十代か)と後家(三十以上四十前後迄か)は十歳以上は離れていた感じである。
・「金銀を以御徒の明きを讓り得て」「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。公的には違法ながら、当時、御徒の株は密かに売買されていた。一般に「与力千両、御徒五百両、同心二百両」と言われた。この後家、そんじょそこらの金持ちではない。
・「御譜代の席へ轉じ」通常、御徒はその代一代限りの御勤めであったが、ここではこの男が例外的な譜代(世襲)の御徒の身分を与えられたことを指す。
■やぶちゃん現代語訳
思いも寄らぬ幸いにより身を立てた事
近江国生まれのある男、上方の複数の堂上家(とうしょうけ)なんどにも奉公した経歴があったが、何分、身持ちが宜しくなかったがため、たびたび浪人なんどに落ちておった。
ある時、流石に京(みやこ)ではとても立身なんども成り難しと思い、僅かな蓄えを持って東都へ下ることにしたのだが、途中で路銀を遣い切ってしまい、如何とも仕難く、箱根湯本に暫くの間(あいだ)逗留致し、その間(ま)に昔、少し覚えのあった鍼やら按摩やらを湯治客に施してその日稼ぎの暮らしておった。
ある日のこと、大坂町人の後家が一人、かの温泉に来たって入湯致いたが、体調不快にて、かの按摩が施療を施した。何度か施術を頼む内に、二人は親密な仲となり――この後家、希代の淫婦であったものか――この男と密かに通じて男女の交わりをもなすに至った。
ある時、寝物語に、この後家が男に訊ねた。
「……見ればあんた……まだ若こう程に……何処の生まれやねん?」
そこで、若者はこれまでのこっ恥かしい軽薄な半生を語ったところ、
「……ほなら……私(わて)はこれから江戸表の親類の宅(うち)を訪ねるところやよって……一つ、一緒に行きまひょ。」
ということになり、暫く湯本に逗留した後(のち)、若者はこの後家に同道して江戸へ出たのであった。
年齢差が激しために人目を忍んで、かの後家は養母、かの若者はその養子との触れ込みで、夜は夜で密かにしっぽりと夫婦の交わりをなしておった。
この後家の実家は、大阪でも有数な豪商であったために、後家は金銀に物を言わせて御徒の空きを譲り受け、若者をまんまと御徒役に就かせることに成功、更にその後(のち)も京家の縁なんどを頼って、奥の手蔓を巧妙に駆使して、若者の上司に働きかけたりなどした故、ほどなく組頭と相成り、やがて後にはまた、何と御譜代の席へまで出世致いたのであった。
さても今は、その後家――その老婦もすでに亡くなったとの由である。
――最後に。ちょいと、この話で面白いのは――その後家――その老婦が存命中は、若者――いや、最早――中年になりかかって御座ったその男では御座ったが――妻を娶(めと)ることは許されず――また、遊廓へ参っての遊女なんどと戯れるといったことさえも――かの『養母』から殊の外、厳しゅう禁じられて御座ったとか。……いやいや、それは当然のことにては御座るのう。