耳嚢 巻之三 神明淳直を基とし給ふ事
「耳嚢 巻之三」に「神明淳直を基とし給ふ事」を収載した。
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神明淳直を基とし給ふ事
日光御祭禮は、予度々登山(とうさん)なしける故、難有も時々拜見なしけるに、近郷近村五里十里の外より老若男女競ひ集(つどひ)て、木の枝柵の影に迄群集して見物する事也。神輿(しんよ)渡御の時は賽錢雨露のふるごとく、暫しが間は大地も色を變ずる程に錢を敷く事也。神人(じにん)あるひは御神領より出る百姓の御輿舁(みこしかつぎ)或ひは見物の小兒など拾ひけるにぞ、大樂院に、右賽錢も夥しき事ならん、定て御別當へ納(おさま)るべしと聞けるに、大樂院答けるは、渡御の節献じける賽錢、壹錢にても御別當所へ納る事にあらず、みな拾ひ候者其日の食酒等の飮食になす事にて、夫に付咄しあり、右散物を拾ひ守護となし或は酒食となすは、神明淳直を元とし給ふ故也、其たゝりなし、若(もし)多分に拾ひし者其身の貯(たくはへ)となす心得あれば、忽(たちまち)罰を蒙りしを幾度か見たりと語りぬ。左も有べき事と爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:日光神事神霊玄妙直連関。根岸は本当に神道には無邪気なほど無防備手放しで感心している。
・「日光御祭禮」日光東照宮春期例大祭及び神輿渡御祭のこと。古くは徳川家康忌日に当たる陰暦4月17日に行われた(現在は5月17~18日)。家康は現在の静岡県久能山に葬られたが、二代将軍秀忠が家康の遺言によって、日光に社殿を創建、元和3(1617)年4月に、日光山に神霊を遷座した。その際の模様を再現したものがこの例大祭である。現行では本社から三基の神輿が東照宮から西隣りにある新宮権現二荒山神社(ふたらさん)拝殿に渡御した上、宵成祭と言ってここで一夜を過ごす(これは家康の御霊が西方浄土に移ったことをシンボライズするもので、翌日向かう御旅所は静岡久能山に見立てられたものという)。同日には石鳥居前表参道の馬場で流鏑馬が奉納される。翌日、神輿は二荒山神社を発し、御旅所に渡御されるが、その際、神輿を守る行列を俗に百物揃千人行列(ひゃくものぞろえせんにんぎょうれつ)、正式には神輿渡御祭(しんよとぎょさい)と言い、本話柄は往時のその行列の様を活写し、その縁起を述べるものである。この行列は元来は駿河の久能山から日光に神霊を移す際に仕立てた行列を模したもので、旧神領の産子(うぶこ:通常の神社の氏子のこと。)が表参道から御旅所まで神輿に付き従う仕来たりとなっている。行列が到着すると、御旅所本殿に神輿を据えて、拝殿で三品立七十五膳の神饌(しんせん)が供えられ、「八乙女の舞(やおとめのまい)」及び「東遊の舞(あづまあそびのまい)」の奉納舞いが演じれた後、再び行列は東照宮に還御して、祭礼を終了する(以上は、個人のHP「閑話抄」の中の歳時記に所収する「日光祭」の記載を大々的に参照させて頂いた)。
・「予度々登山なしける」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。
・「神人」これは「じにん」「じんにん」と読み、正規の神主よりもずっと下級の社家に仕えた下級神職、寄人(よりうど)を指す。ウィキの「神人」より引用する。『神人には、神社に直属する本社神人と、諸国に存在する神領などの散在神人とがある』。『神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった』。『京の五条堀川に集っていた祇園社(現八坂神社)の堀川神人は中世には材木商を営み、丹波の山間から木津川を筏流しで運んだ材木を五条堀川に貯木した。祇園社には、身分の低い「犬神人」と呼ばれる神人が隷属し、社内の清掃や山鉾巡行の警護のほか、京市内全域の清掃・葬送を行う特権を有していた』。『日吉大社の日吉神人は、延暦寺の権勢を背景として、年貢米の運搬や、京の公家や諸国の受領に貸し付けを行うなど、京の高利貸しの主力にまで成長した』。『石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権、水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)』。『上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた』とある。言わば、寺院に於ける僧兵のような役割を荷った者たちと思われる。
・「御神領より出る百姓の御輿舁」前の「日光御祭禮」注で示した旧神領の産子(うぶこ)の中から選ばれる。
・「大樂院」は前話にも登場した日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。
■やぶちゃん現代語訳
神の全智はあくまで篤く直きものにてあられる事
日光の御祭礼は、私も仕事柄、何度も登山致いておれば、有り難くもたびたび拝見致いて御座る。
近郷近村、五里十里もの遠方より、老若男女、競うように集い来たって、木の枝に取り付き、また柵の蔭に首ねじ入れ、数多(あまた)鈴成り、呆れんばかりに群聚(ぐんじゅ)致いて見物するので御座る。
御輿渡御となれば、賽銭驟雨白露(びゃくろ)の降る如くにして、暫しの間は沿道の大地、色を変ずる程に銭で敷き詰めらるるので御座る。
それをまた、神人(じにん)や御神領から出ておる産子(うぶこ)である百姓の神輿担ぎの者若しくは見物の童(わらわべ)なんどが、これまた、先を争って拾うて御座る。されば私が、傍に御座った東照宮別当大楽院の者に、
「この賽銭だけでも、かなりの額に登って御座ろうほどに、定めし、別当殿におかせられては、潤沢なる喜捨ともなるもので御座ろうのう。」
と訊いたところが、大楽院の者が答えて申すによれば、
「いえ、渡御の際に献ぜられたこの賽銭は、一銭たりとも東照宮様御別当には納めらるること、これ、御座いませぬ。――みな、拾って参った者が、その日のうちに酒食に使(つこ)うてしまうので御座います。――それにつきて、ここに面白き噺が御座います。――この賽銭を拾うて、お守りと成し、或いはその日の祭礼の酒食の代(しろ)と致します分には――それは御神命のあくまで篤く直きものにてあられることを心得た行いにてありますれば――それに何の祟りも、これ、あろうはずも御座いませぬ。――なれど、もし、それ以外に余計に拾うて、こっそりとその身の貯えにせんとする心得あらば――忽ち罰を蒙ること、これ、必定。――拙僧も、そのような様を、何度か見たことが御座いまする。」
と語って御座った。
いや、あくまで篤く直き御神命には如何にもありそうな尤もなることなれば、ここに記しおくものである。