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2010/08/28

耳嚢 巻之三 前表なしとも難極事

「耳嚢 巻之三」に「前表なしとも難極事」を収載した。

 前表なしとも難極事

 明和九辰年の江戸大火は都鄙(とひ)の知れる事也。其此日光神橋(しんきやう)の掛替御普請ありて、御作事奉行にて新庄能登守、御目付にて桑原善兵衞登山(とうさん)なしけるが、或日日光新宮に十神事(じふしんのこと)といへる神事神樂ありて、兩士も右拜殿にて見物なしけるに、一ツの烏虚空より礫(つぶて)のごとく新宮の白洲へ落て斃(たふれ)けり。兩士始め見物の者も立寄て見しに、鷲鷹に蹴(けら)れし氣色もなし、友烏等もありたりに見へず、不思議也といひけるに、修學院權(ごん)僧正も見物の席にありしが眉をひそめ、嗚呼(ああ)江府(かうふ)に何ぞ替りし事にてもなければよろしきといひしが、翌日に至りて江戸より飛脚到來、江戸大火の告あり、新庄桑原兩氏の江戸屋敷も右燒亡に洩れず有しと、桑原善兵衞後に豫州といへる時語りぬ。予日光登山の頃右十神事ありて見物に出し時も修學院出席なして、右の咄を修學院も語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。実録日光山東照宮霊異譚シリーズ。

・「明和九辰年」西暦1772年壬辰(みずのえたつ)。明和9年は1116日に安永元年に改元された。この改元、落語のような話である。火事風水害が続発した「明和九年」(めいわくねん)は「迷惑年」であると縁起を担いだ結果であった。

・「明和九辰年の江戸大火」江戸三大大火の一。明和の大火のこと。明和9(1772)年2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の数値を採用した)。

・「日光神橋」日光山内の入り口にある大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗のアーチ橋。現在の形状は寛永111634)年日光東照宮大造替(だいぞうたい)の際から変わらぬもので、記録にはこの時に将軍・勅使・行者以外の一般人の往来を禁止じたとされる。なお、この橋は山管蛇橋(やますげのじゃばし)という別名がある。これは天平神護2766)年、勝道上人が二荒山(ふたらさん=男体山)にて修行をせんと訪れた際、大谷川の急流に道を阻まれたが、神仏の加護を祈ったところ、深沙大王(じんじゃだいおう)が顕現し、赤青二匹の蛇で両岸を繋ぎ、その背に山管を生やした上、上人を対岸に渡したという伝説に基づく(「修学旅行のための日光ガイド」の「神橋」を参照した)。

・「御作事奉行」幕府関連建築物の造営修繕管理、特に木工仕事を担当、大工・細工師・畳職人・植木職人・瓦職人・庭師などを差配統括したが、この後、寛政4(1792)年に廃止されている。

・「新庄能登守」新庄直宥(しんじょうなおすみ 享保7(1722)年~安永8(1779)年)明和6(1769)年作事奉行、従五位下能登守。同8(1771)年より日光神橋造営の監督に当たる。安永3(1774)年には一橋家家老、同5(1776)年には大目付と累進した(底本鈴木氏注を参照した)。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「桑原善兵衞」桑原伊予守盛員(くわはらもりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政101798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政101798)年補任)等を歴任している。「卷之一」の「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。「巻之二」「吉比津宮釜鳴の事」にも登場。

・「日光新宮」新宮権現。日光山二荒山(ふたらさん)神社の旧称。「日光修験道:日光の神仏」の記載より引用する。『日光三社(所)権現中男体山の神霊である。新宮の名は、開山勝道上人が、四本龍寺に堂を造り、その傍らに社を造り、山神を祀ったが、後に現新宮(二荒山神社)の地に移し、本堂(三仏堂)と社を造り、旧地を本宮と称し、新しい社地を宮と称したことによる。新宮権現は、本地千手観音、垂跡神は大巳貴命、応用の天部は大黒天』。『勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称するこの権現は、男体の山頂にて上人に影向し御対面になった。そのところに影向石が現在もある。今に至るまで山頂に登拝することを日光では禅頂と称する。この男体の山は、下に中禅寺湖を擁し、その周囲をとりまく山々に諸神を祀り、日光十八王子という。中世では、一々の山々を拝する夏峰の行があったが、あまりにも苛酷のため廃絶になってしまった』とある。

・「十神事」現在、この名前では残っていないものと思われる。もし、これが二荒山神社例大祭であるとするならば、現在、4月13日から17日まで行われている弥生祭であろうか。昔は旧暦3月に行われたことからこう呼称され、1200年の歴史を持つとされる。明和の大火は2月29日午後1時頃の出火で、一旦鎮火後同日午後6時頃に本郷から再出火し、駒込、根岸を焼亡、30日昼頃には再び鎮火したかに見えたものの、3月1日の午前10時頃になって馬喰町付近から再々出火、東に燃え広がって日本橋地区を全焼して完全鎮火している。これらの日付から、そう類推した。日光行事にお詳しい方の御教授を願うものである。

・「修學院權僧正」「修學院」は日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。「權僧正」とあるから僧正に継ぐ次席。日光山輪王寺は天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』いるとある。

・「予日光登山の頃」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。本件より5年後のことであった。

■やぶちゃん現代語訳

 未来に起こる出来事を予兆する不可思議なる前兆がないとも極め難い事

 明和九辰年の江戸大火は世間にてもよく知られている事実である。

 丁度、その頃、私は日光神橋の掛替御普請御用が御座って、作事奉行であられた新庄能登守殿、御目付であられた桑原善兵衞殿と共に日光山へ登山(とうさん)して御座ったが、ある日、日光新宮に『十神の事』と言う御神事及び御神楽が御座って、両人もかの拝殿にて神事を見物なさっておられたところ、一羽の鴉が虚空より礫(つぶて)の如く、新宮の御白洲の上へ落ちて死んだ。両人始め見物の者も傍に寄って見てみたが、鷲や鷹に蹴られた様子もない。空を見上げてみても、群れ飛ぶことも多い鴉ながら、外の仲間の鴉も見えぬ。両人ともに、

「……不思議なことも、あるものじゃ……」

なんどと言い合って御座ったところ、修学院の権僧正様も同じ見物の席におられたが、如何にも眉を顰められて、

「……ああっ……江戸表に何ぞ変わったことでも……なければよろしいがのう……」

と仰せられた。

 翌日になって江戸表より早飛脚が来たって、江戸にては大火なる由、報告がなされ、正に新庄・桑原両氏の江戸屋敷もこの焼亡から遁るること能わず、全焼致いた由にて御座ったと。

 桑原善兵衞殿が後に伊予守となられた時、私に語られた話で御座る。

 この一件は後、私が日光登山の頃、この十神事ありて見物に出し時も、修學院樣が御出座になられており、右の通りの御話を修学院様御本人もお話遊ばされた故、確かなことにて御座る。

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