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2010/08/18

耳嚢 巻之三 目あかしといへる者の事

「耳嚢 巻之三」に「目あかしといへる者の事」を収載した。

 目あかしといへる者の事

 古へは公(おほやけ)にも目あかしを遣ひ給ふ事あり。一名おかつ引と唱。一旦盜賊の中間に入て盜を業としける者を、其罪を免し惡黨を捕(と)る一助となす事也。然るに元來惡黨の事故、己が罪をまぬがれんため、かゝる盜賊の有所を知りたり、かく/\の惡黨を捕へ申させんなどいひて、却て罪なきの人を捕へ己が罪を免るゝ事多し。依之有德院樣御代より、おか引目あかし等の事堅く禁じ給ひぬ。然れども私儀には其後も此役をなせる者あり。尾州家に仕へし者語りけるは、いつの事にや、元來盜などなせる者其志を改しを、同心支配に申付て盜賊の防ぎをなし給ひしに、或日名護屋の町に同心與力の類ひ右の者を召連れ茶屋によりて休息せしに、年頃五十餘りの禪僧、モウスといへる頭巾やうの物をかぶりて、伴僧兩輩召連荷を持(じ)し家僕など一同六七人にて通りしを、彼目あかし見て、あれは盜賊ならん召捕へ給へと言(いひ)しが、出家の事殊に僧俗の召仕も見ゆれば麁忽(そこつ)の事ならんと申けるに、右主人の出家も外々の者上下の階級なし、伴僧兩人衣躰のぶり出家にあらずと達て進めし故、與力同心立寄りて咎(とがめ)押へけるに、案の如く伴僧僕など迯出(にげだ)せしを不殘召捕、主僧のモウスを引放し見けるにばち髮の大奴也。段々吟味なしけるに、道中所々徘徊なせる大盜賊にて有りしと也。或時彼目あかし、家中の若き人々を連立て物詣ふでなしける時、其方はいにしへは盜をなしける者、何ぞ取て見せよと若き人申ければ、今はかくの如く召仕(めしつかは)れ妻子を安樂に養ひ候事、偏(ひとへ)に天道の助け給ふ事、いさゝかにても古への業いたすべき心なし。然し慰(なぐさみ)の事に候間其眞似をいたし申さん、代錢を拂ひ候共、其品を返し候共、跡にて能々取計ひ給へとて、所々一所に歩行(ありき)けるが、暫くありて御慰の品盜取たりといひて見せけるに、大き成(なる)一番(いちばん)すり鉢を盜て見せける故、各々大きに驚き、かゝる大きなる品を如何いたし盜(ぬすみし)哉(や)と尋ければ、右瀨戸物やの鄽(みせ)へ各(おのおの)立寄給ひし時、手に持しあみ笠を摺鉢の上にかぶせ置、各(おの/\)歸り給ふ時摺鉢ともに編笠を持出たりと語(かたる)。かの代錢を僕に持せ瀨戸物屋へ遣し拂ひけるに、瀨戸物産にては右摺鉢の紛失をいまだ知らでありしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。私はこの話が好きだ。出来ることなら、この目あかしを心あらん友と得てしがな、と思うほどである。

・「目あかし」「おかつ引」以下、ウィキの「岡っ引」から引用する。『岡っ引、御用聞き(ごようきき)は江戸での名称。関八州では目明かし、関西では手先、または口問いと各地方で呼びかたは異なる』。『起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った放免である。江戸時代、法的にはたびたび禁じられたが、武士は市中の犯罪者について不分明なため、捜査の必要上、比較的軽い犯罪者が情報収集のために使われた。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ犯罪捜査自体が困難だったのである。親分と呼ばれる町、村内の顔役に委任されることも多い。配下に手下を持つことも多く、これを下っ引と称した。必然的に博徒、テキヤの親分が目明しになることも多く、これを「二足のわらじ」と称した』。以下、「江戸の場合」という項。『時代劇においては十手を常に所持していたかのように描かれているが、実際のところ公式には十手が持てず、必要な時のみ貸与されていた。同心、火付盗賊改方の配下とはなるが、町奉行所から俸給も任命もなかった。上記に記されたように、岡っ引は町奉行所の正規の構成員ではなかった。故に、岡っ引が現在の巡査階級の警察官に相当するように表現されていることがあるが、それは妥当ではない。現在の巡査階級の警察官に当たるのは三廻などの同心と考えるのが妥当である。ただし同心は管轄の町屋からの付け届けなどでかなりの実収入があり、そこから手札(小遣い)を得ていた。また、女房に小間物屋や汁粉屋等の店をやらせている者も多かった。同心の屋敷には、使っている岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。江戸町奉行所全体で岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという』。『半七捕物帳を嚆矢とする捕物帳の探偵役としても有名であるが、実態とはかなり異なる。推理小説研究家によっては私立探偵と同種と見る人もいる(藤原宰太郎など)』。以下、「地方の場合」の項。『江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により公認されたケースも存在している。例えば奥州守山藩では、目明しに対し十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。また、関東取締出役配下の目明し(道案内)は地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた』とあり、本話の読解に極めて有益な記載満載である。この「江戸の場合」の記載を受けて、現代語訳には「江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが」という挿入を施して、根岸が江戸の岡っ引について語らないことの不自然さを補っておいた。後に佐渡奉行から勘定奉行(天明7(1787)年)そして江戸市中の司法のトップとも言うべき南町奉行(寛政101798)年)となった彼としては、勿論、そうした記載はやはり憚られたものと思う。もしかするとここには当初、江戸で親しく実見した岡っ引の例も示されていたものかもしれない。ところが後に町奉行になって、問題を認め、削除した可能性も考えられるように思われる。尾州御家中の岡っ引の話も冒頭「いつの事にや」と曖昧にしてあるのもそうした配慮によるものではあるまいか。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「尾州」尾張国。

・「モウス」帽子(もうす)。護襟(ごきん)という頭から被ったり、襟巻きとして耐寒のために着用する襟巻き型帽子(もうす)と帽子型の帽子(もうす)とがあるが、ここでは後者。禪僧が正式な法式の際、威儀を正すために着用する帽子のこと。中国宋代の禅宗に端を発し、鎌倉時代になって臨済宗・曹洞宗の伝来と共に日本に入ったとされる。現在のものは円筒形でかなり高さがあり、金色の飾り縁や筋が入っている。天頂は平たいが、古くは全体に丸みをおびたものであったらしい。

・「麁忽の事ならん」「麁忽」は「粗忽」で、「そそっかしい、早合点の物謂いじゃて。」と言った意味であろうが、直ぐ近くでかくはっきりと発言しているところから、やや、叱責するように「滅多なことを申すでない」の感じで意訳した。

・「ばち髮の大奴」岩波版長谷川氏注に『鬢の毛を三味線のばちの先のような形にそりこんだたいへんな奴頭。』とある。「奴頭」とは月代(さかやき)を広く深くそり込んで両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで髷(まげ)を短く結んだものを言う。

・「家中」尾張藩尾張徳川家御家中。直前で岡っ引を禁制とした徳川吉宗を出しているあたり、これを、そのライバルとして尾張藩きっての有名藩主でもあった第七代藩主徳川宗春(元禄9(1696)年~明和元(1764)年)の御代のことであったと考えると、アップ・トゥ・デイトな臨場感があって面白いように思われる。

・「一番すり鉢」瀬戸物屋などで扱う擂り鉢の最も大きなもの。

・「瀨戸物産」底本ではこの「産」が右を上にして転倒している。注釈やママ表記もないところを見ると、これは底本自体の誤植であろうと思われる。岩波版では「瀨戸物屋」とあるので、それを採る。

■やぶちゃん現代語訳

 目あかしという者の事

 古えに於いては公的に『目あかし』に相当する者が使われていた時代があった。

 今の世にては一名、『岡っ引き』と呼ぶ。

 元来は盗賊の仲間の一党として盗みを稼業と致いておった者を、一旦、捕らえた上で、後、その罪を赦す代りに、悪党を捕縛する際の助けとして利用することを言うのである。

 しかし、元々が悪党なのであるからして己(おのれ)の罪を免れんがために、「何々盗賊団の居所(いどころ)を知っている」であるとか、「かくかくの大悪党を捕える手立てをお教えしよう」なんどという、根も葉もない嘘を申し立てて、却って罪のない無辜(むこ)の民を捕えさせておいて、己の罪は免れるという不届きなることがあまりに多かった。

 さればこそ、有徳院吉宗様の御代より、この岡っ引きや目あかしといった探索方の類いを、公的に表立って使うことは固く禁じられたので御座る。

 しかし乍ら、江戸の同心や火付盗賊改方の方々の個人的な用人及び私領などでの同様の者の探索方間者としては、その後(のち)も、こうした役をなす者が存在している。

……江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが……

……例えば尾州家に仕えておるところのある御仁が、それに纏わる話を語って呉れたことがある。以下はその話である。――

 何時頃のことで御座ったか、元来は盗みなんどを稼業と致せし者乍ら、その志を改めて真人間になった者を藩の同心支配と致いて、火付盗賊なんどの防備警戒の役目に当らせて御座った。

 ある日のこと、名古屋の同心与力の面々が、そうした者を召し連れて、とある茶屋にて一息ついて御座ったところ、丁度、モウスという頭巾様(よう)のものを被った、年の頃五十余りの禅僧が、伴僧を二人召し連れ、他に荷を持った家僕なんど、総勢六、七人で通りかかった。

 それを見た目あかしが、

「――あれは盗賊で御座ろうほどに、召し捕らえられるがよろしかろう。」

と言う。しかし見る限り、立派なる出家にて、殊にやはりそうとしか見えぬ伴僧と思しい召使いも付き従っているのも見受けられるので、

「……シィっ! これ! 滅多なことを!……」

と言下に叱したところ、

「――あの主(あるじ)体(てい)の出家も、その他の者どもも、禪家(ぜんけ)の上下の階級に従(したご)うた振舞いにては、これ、御座らぬ――。伴僧両人の衣服の着こなしも、これ、出家のそれとは、大いに違(ちご)うて御座る――なればこそ!……」

と、如何にも確信を持った、たっての薦めとなれば、そこらの与力同心ら、二手に分かれて、一方が一斉にずいっと立って連中の傍らへと寄り、

「おい! ウヌら! 待ていぃ!!」

と、強面(こわもて)にて咎めだて致いたところが――案の定、みんな、脱兎の如く逃げだそうとする――一そこのところを、一方から回った与力同心らが、これまた道を塞いで、難なく残らず召し捕らえた。――主僧の帽子を引き剥がしてみたところが――これがまたばち髪の大奴にて――しょっ引いて取り調べてみたところが、こ奴ら、東海道を徘徊しつつ、各所で押込み強盗を働いておった大盗賊であったとのことである。――

 もう一件、この同じ目明しの話。

 ある時、この目あかし、尾張家御家中の若者たちと連れ立って、物詣でに参った。その道すがら、

「その方は昔、盗みを働いておった者と聞くが……どうじゃ? 我らに、何ぞ偸(ぬす)み取って見せよ。」

と、若者の中(うち)の一人が言い掛けた。目あかしは、

「――今は、かく召し使われまして、妻子をも安楽に養うて御座いまする――これ、ひとえにお天道さまのお助け下すったことにて、いささかにても古えの悪しき業(わざ)を再び成さんなんどとは、思うたことも、これ、御座らぬ――御座らぬが――なれど、方々のお慰みのために、となれば――その真似事、これ、致しましょうぞ。……但し、皆様の内の何方(どなた)かには、盗み取りました物の代金、これ、お支払い頂くか、さもなくば、その品をお返し頂くか……盗み取った後のことは、よくよくお取り計らい下されよ――。」

と申した。

 さて、こうして一同、一緒にあちこちとぶらぶらして御座ったが、暫くあって、突如、

「――さても、皆さま、お慰みの品――盗み取って御座る――」

と言いながら、平然と見せた――

――それは何と、見るも巨大な――

――所謂『一番すり鉢』――で御座った故、一同の者、何よりも余りのその大きさに驚いて、

「……こ、こんな……大きな物……一体、ど、どうやって盗んだ、んダ?……」

と訊ねたところが――

「――先程、あの瀬戸物屋の店先へ、皆さま、お立ち寄りなさった折り、拙者、持って御座ったこの編み笠を、擂り鉢の上に被せ置き、各々お帰りになられる折り、拙者、編み笠と一緒にひょいと持ち出だしたものにて御座る――」

とこともなげに語った――。

 ……この大擂り鉢の代金、彼らに従っていた下僕の一人に持たせ、当の瀬戸物屋へと走らせた上、支払わせたので御座ったが……瀬戸物屋にては……そもそもその擂り鉢が、紛失していたことさえ……未だに誰一人、知らずに御座ったとのことであった。……

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