『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月9日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百八回
(百八)
「其内妻の母が病氣になりました。醫者に見せると到底癒らないといふ診斷(しんたん)でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。是は病人自身の爲でもありますし、又愛する妻の爲でもありましたが、もつと大きな意味からいふと、ついに人間の爲でした。私はそれ迄にも何かしたくつて堪らなかつたのだけれども、何もする事が出來ないので己(やむ)を得ず懷手(ふところで)をしてゐたに違ありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善(い)い事をしたといふ自覺を得たのは此時でした。私は罪滅ぼしとでも名づけなければならない、一種の氣分に支配されてゐたのです。
母は死にました。私と妻はたつた二人ぎりになりました。妻は私に向つて、是から世の中で賴りにするものは一人しかなくなつたと云ひました。自分自身さへ賴りにする事の出來ない私は、妻の顏を見て思はず淚ぐみました。さうして妻を不幸な女だと思ひました。又不幸な女だと口へ出しても云ひました。妻は何故だと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを說明してやる事が出來ないのです。妻は泣きました。私が不斷からひねくれた考で彼女を觀察してゐるために、そんな事を云ふやうになるのだと恨みました。
母の亡くなつた後(あと)、私は出來る丈妻を親切に取り扱かつて遣りました。たゞ當人を愛してゐたから許りではありません。私の親切には箇人(こじん)を離れてもつと廣い背景があつたやうです。丁度妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は滿足らしく見えました。けれども其滿足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な點が何處かに含まれてゐるやうでした。然し妻が私を理解し得たにした所で、此物足りなさは增すとも減る氣遣はなかつたのです。女には大きな人道の立塲から來る愛情よりも、多少義理をはづれても自分丈に集注される親切を嬉しがる性質(せいしつ)が、男よりも强いやうに思はれますから。
妻はある時、男の心と女の心とは何うしてもぴたりと一つになれないものだらうかと云ひました。私はたゞ若い時ならなれるだらうと曖昧な返事をして置きました。妻は自分の過去を振り返つて眺めてゐるやうでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。
私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃めきに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした。
私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ每月行かせます。其感じが私に妻の母の看護をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭(むちう)たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起ります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました。
私がさう決心してから今日(こんにち)迄何年になるでせう。私と妻とは元の通り仲好く暮して來ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。然し私の有つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻には常に暗黑に見えたらしいのです。それを思ふと、私は妻に對して非常に氣の毒な氣がします。
[♡やぶちゃんの摑み:奥さん(靜の母)が死ぬ。この奥さんの病気はやはり腎臓病であった(二十一)。奥さんが死んだ、その通夜の二人きりの場面が、また哀しい。
靜 「(両の目の涙を押さえながら)……これから世の中で頼りにするものは、一人しか、なくなりました……」
靜、先生を見る。先生、靜を見る。先生の両の目から一筋の涙。間。
先生「……お前は……不幸な女だ……」
靜 「……何故です……」
先生、眼を伏せ、膝を見る。靜、泣く。泣きながら、
靜 「……あなたは……あなたは、普段から、そうした、ひねくれたお考え方ばかり……そんなお考えで私を見ているから……だから……だから、そんなことをおっしゃるんだわ……」
♡「女には大きな人道の立塲から來る愛情よりも、多少義理をはづれても自分丈に集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも强いやうに思はれます」先生の女性観は直に漱石の女性観と言ってよい。これは漱石の他作品にも顕著な傾向である。この漱石自身の女性観の限界性を批判的に鑿岩することが、新しい「心」論の地平を開くと私は思って止まない。即ち、「先生」論や学生の「私」論なんどは、多かれ少なかれ有象無象のへっぽこ文学者や私のような「こゝろ」フリークに、掘らんでも好いところまでテッテ的に掘られて、メッキが剥げ、地肌のトタンまで穴だらけにされてしまっているということである。これからの「こゝろ」を愛する若者たちには――特に女学生には――是非、
「靜」論
や
「奥さん」論
を展開して貰いたいというのが、やぶちゃんの、大いなる希望と期待なのである。かつての私の教え子であった女生徒は美事な「靜論」を展開してくれた。私のHPの『高校生による「こゝろ」講義後小論文(全三篇)』の二篇目、最後に(一九九九年十二月執筆 女子 copyright 1999-2006 Yabtyan-osiego)のクレジットを附したものである。是非とも読んで頂きたい。
若者よ! これから高校2年生の感想文を書かんとする者たちよ! 靜を! 奥さんを大いに語るべし!
♡「私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃めきに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした」かなり精神医学の教科書のような強迫神経症的な描写と読めるが、本人に病識があり、受診せずに放置していた割りには、その後はある程度、軽快したもののように思われる。少なくとも「私」との交際時には、このような症状が増悪している様子は全く感じられないからである。
♡「私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ每月行かせます。其感じが私に妻の母の看護をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起ります」これが先生が学生の「私」に出逢うまでの先生の人間観・人生観の総括であり、先生の内なる罪障感・孤独感の表明と開示であった。ここで先生が、
「私はたゞ人間の罪といふものを深く感じた」
『人間』と言っている点に着目しておかなくてはならない。先生は自己の個人的個別的事実を哲学的普遍的真理として我々に突き付けてきたのである。
♡「私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました」大事な摑みである。「心」は後、2章しかないのだ! 先生は、遺書のこの期に至っても、未だ自殺の決意をしていない――それどころか「死んだ氣で生きて行かうと決心し」ているのだ!!! 一体、これは遺書なのか? 遺書であるのならば、何故、先生は自死が決意出来るのか?! 即ち、ここまで読まされてきた中には、先生の自死の決定的理由は、実に示されていないのだということに気づかねばならない!
♡「私がさう決心してから今日迄何年になるでせう。私と妻とは元の通り仲好く暮して來ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした」ここまでの簡単な推定年譜を示す(詳細は私の『「こゝろ」マニアックス』末尾の三種の年譜を参照されたい)。年齢は先生の数え年である。
□明治34(1901)年 24歳
2月 中旬頃、K自殺。
5月 奥さんと靜と共に現在の家に転居。
7月 大学を卒業。
12月 靜(19歳)と結婚。
□明治36(1903)年 26歳
奥さん、腎臓病のため死去。
【この間、推定5年経過】
□明治41(1908)年 31歳 *靜27歳。
8月 鎌倉海岸にて語り手「私」(20歳)と出会う。
【この間、推定4年経過】
□明治45(1912)年 35歳
7月30日(火) 明治天皇崩御。
従って、先生が「死んだ氣で生きて行かうと決心し」てから遺書を執筆している「今日迄」となると、これは最低で5~6年、最長でも奥さんの病死後で9年弱、10年を超えることは決して、ないのである。]
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