『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月6日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百五回
(百五)
「Kの葬式の歸り路に、私はその友人の一人から、Kが何うして自殺したのだらうといふ質問を受けました。事件があつて以來私はもう何度となく此質問で苦しめられてゐたのです。奥さんも御孃さんも、國から出て來たKの父兄も、通知を出した知り合ひも、彼とは何の緣故もない新聞記者迄も、必ず同樣の質問を私に掛けない事はなかつたのです。私の良心は其度にちく/\刺されるやうに痛みました。さうして私は此質問の裏(うら)に、早く御前が殺したと白狀してしまへといふ聲を聞いたのです。
私の答は誰に對しても同じでした。私は唯彼の私宛で書き殘した手紙を繰り返す丈で、外に一口も附加へる事はしませんでした。葬式の歸りに同じ問を掛けて、同じ答を得たKの友人は、懷から一枚の新聞を出して私に見せました。私は步きながら其友人によつて指し示された箇所を讀みました。それにはKが父兄から勘當された結果厭世的な考を起して自殺したと書いてあるのです。私は何にも云はずに、其新聞を疊んで友人の手に歸しました。友人の此外にもKが氣が狂つて自殺したと書いた新聞があると云つて教へて吳れました。忙しいので、殆ど新聞を讀む暇がなかつた私は、丸でさうした方面の知識を缺いてゐましたが、腹の中では始終氣にかゝつてゐた所でした。私は何よりも宅のものゝ迷惑になるやうな記事の出るのを恐れたのです。ことに名前丈にせよ御孃さんが引合に出たら堪らないと思つてゐたのです。私は其友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、たゞ其二種ぎりだと答へました。
私が今居(を)る家へ引越したのはそれから間もなくでした。奥さんも御孃さんも前の所にゐるのを厭がりますし、私も其夜の記憶を每晩繰り返すのが苦痛だつたので、相談の上移る事に極めたのです。
移つて二ケ月程してから私は無事に大學を卒業しました。卒業して半年も經たないうちに、私はとう/\御孃さんと結婚しました。外側から見れば、萬事が豫期通りに運んだのですから、目出度と云はなければなりません。奥さんも御孃さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです。けれども私の幸福には暗い影が隨(つ)いてゐました。私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました。
結婚した時御孃(おじやう)さんが、―もう御孃(おちやう)さんではありませんから、妻(さい)と云ひます。―妻が、何を思ひ出したのか、二人でKの墓參をしやうと云ひ出しました。私は意味もなく唯ぎよつとしました。何うしてそんな事を急に思ひ立つたのかと聞きました。妻は二人揃つて御參りをしたら、Kが嘸(さぞ)喜こぶだらうと云ふのです。私は何事も知らない妻の顏をしけじけ眺めてゐましたが、妻から何故そんな顏をするのかと問はれて始めて氣が付きました。
私は妻の望み通り二人連れ立つて雜司ケ谷へ行きました。私は新らしいKの墓へ水をかけて洗つて遣りました。妻は其前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。妻は定めて私と一所になつた顚末(てんまつ)を述べてKに喜こんで貰ふ積でしたらう。私は腹の中で、たゞ自分が惡かつたと繰り返す丈でした。
其時妻はKの墓を撫でゝ見て立派だと評してゐました。其墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行つて見立たりした因緣があるので、妻はとくに左右云ひたかつたのでせう。私は其新らしい墓と、新らしい私の妻と、それから地面の下に埋(うづ)められたKの新らしい白骨(はくこつ)とを思ひ比べて、運命の冷罵(れいば)を感ぜずにはゐられなかつたのです。私は其れ以後決して妻と一所にKの墓參りをしない事にしました。
[♡やぶちゃんの摑み:Kが自殺した明治34(1901)年2月23日から凡そ2~3箇月後の明治34(1901)年5月、先生は現在住んでいる家(学生の「私」が訪れたあの先生の家)に引っ越している。それから2箇月の明治34(1901)年7月に無事、先生は東京帝国大学を24歳で卒業、それから半年弱後の明治34(1901)年年末に靜(19歳)と結婚式を挙げた。Kの死後約10箇月のことであった。
♡「それにはKが父兄から勘當された結果厭世的な考を起して自殺したと書いてあるのです」当時は現在と違って個人情報の保護なんどは勿論、念頭になく、帝大生の自殺とくればセンセーショナルで格好の記事となった。実際に当時の新聞を読むと氏名も明らかにされて、遺書が記事に引き写されていたり、自殺者の生活史を興味本位に細述しているものも多く見受けられる。こうしたジャーナリズムの自殺への特ダネ意識は、かなり後まで続いた。――いや、実際には、現在もそう変わらないものと私は思っている。
♡「奥さんも御孃さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです。けれども私の幸福には暗い影が隨いてゐました。私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました」最早、先生の中の贖罪意識と強迫観念は完全に起動してしまった。ここが摑みだ! 『僕らのようには先生は後戻りもリセットも出来ない』のだ! それが、先生という存在であり、先生とKに代表される「明治の精神」を生きた日本人の宿命なのだ! このアンビバレンツが、まずは先生を生き地獄へとまっしぐらに突き落としてゆくことになる。
♡「妻が、何を思ひ出したのか、二人でKの墓參をしやうと云ひ出しました」二人の結婚が前年の12月若しくは翌明治35(1902)年の年初であったとして、その結婚直後で、靜がKの墓参りを提案するとなれば、これは極めて高い確率で、Kの一周忌の祥月命日であった、明治35(1902)年2月23日であったと推定される。この日は日曜日である。
――さすれば、何故、「奥さん」は同行しなかったのであろう?
――嘗て婿とともに世話した下宿人の祥月命日である。
――同行するのが自然で、当たり前である。
――されば、「奥さん」は先生を憚ったのに違いない。
――「奥さん」はすかさず「意味もなく唯ぎよつとし」た先生を見たのだ。
――震える声で暗く「何うしてそんな事を急に思ひ立つたのか」と反問する先生の声を鋭く聞き取ったのだ。
――靜の「二人そろってお参りをしたら、あの人、きっと喜こんでくれるわ!」と言う無邪気な声も聞いた。
――そうして「奥さん」は垣間見たのだ。
――暗く「妻の顏をしけじけ眺めてゐ」る苦しそうな先生の顔を。
――畳みかける靜の「どうしてそんな顏をなさるの?」という問いも。
――先生の内実を総て知っている「奥さん」は『まずい』と内心、思ったに違いない。
――しかし、靜を引き止める正当な理由は全くない。
――仕方がなく、「奥さん」は適当な用事を拵えて、表面では明るい表情をしながら、二人を送り出したのではなかったか?
――二人の影が沿道に見えなくなった頃……「奥さん」の表情から笑顔が消えた……
……この「奥さん」の不吉な感じは……
……正しかった……
♡「しけじけ」「しげしげ」と同じ。漢字で書けば「繁繁」で、古くは「しけしけ」「しけじけ」とも言った。じっと、の意。
♡「私が自分で石屋へ行つて見立たりした」私(やぶちゃん)が大学終了の年の三月、就職までの数週間、東京中の物故作家の墓巡りをしたことがある。青山墓地を皮切りに三鷹の禅林寺、染井霊園から慈眼寺、そうして雑司ヶ谷霊園にも行った。東北の霊園外の直ぐの路地を歩いていると、石屋があった。私は先生がKの墓を頼んだのもここかしら、などと無邪気なことを思ったのを覚えている。――以下は、脱線である――その時、丁度、作家の墓石を彫っている真っ最中であったから、不思議に鮮烈に覚えているのだ。その仕上げが終わるのを私は熱心に午後の春日の中で見ていたのだった。墓石は確かに美術家で劇作家であった村山知義(明治34(1901)年~昭和52(1977)年3月22日)のものであった。表面に「演劇 運動 万歳」「最後の言葉」と彫られていたのを覚えている。多分、あの完成した墓石を最初に見たのは、村山の親族でも知人でもなかった――この私だったのだ。
♡「私は其新らしい墓と、新らしい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新らしい白骨とを思ひ比べて、運命の冷罵を感ぜずにはゐられなかつたのです」新しいKの墓と新しい先生の妻である靜と新しいKの白骨がレントゲン線のように先生の眼に総てオーバー・ラップして映像化される。哀しくも美事な映像である。否。この映像は撮れない。実際映像として撮ったら噴飯ものだ。それほど形而上的に美学的に素晴らしい映像にならないイメージなのである。私の板書。
★見え過ぎてしまう悲痛(Ⅰ)
新しいKの墓
⇓
新しい私の妻
⇓
新しいKの白骨
↓
墓参りによって先生の中で起動してしまった「運命の冷罵」の透視術
であった。]
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